第49話 リオの席
その朝、向かいの靴直しの店から、木槌の音が聞こえてこなかった。バルト肉店が戸板を外す刻限は、もう何年も前から、その音に合わせて決まっている。合図のないまま、バルトはいつもの手順で戸板を一枚ずつ外し、軒下へ立て掛けていった。
塊肉を台に並べ、鉤に腸詰を掛け終えるころには、市場通りの石畳に朝の光が差しはじめていた。日差しが台の縁へ届くのを待って、バルトは鉢から筋の少ない端肉をひとつかみ取り、紙の上に広げた。四隅を内側へ折り込み、掌で平たく整え、紐は掛けずに端を差し込む。向かいの子のために、いつのまにか決まっていた包み方だった。
向かいの戸は、閉じたままだった。日差しは少しずつ台の上へ伸び、包みの白い紙を照らしはじめる。木槌が鳴ってから十も数えないうちに、というリオの刻限は、木槌の鳴らない朝には数えようがなかった。バルトは包みを台の端に置き、ほかの客の肉を量りながら、ときおり通りの向こうへ目をやった。
やがて二階から階段を駆け下りる足音がして、ヨナが布袋を肩に掛けて出てきた。戸口の外ではラウが待っていて、小さく咳をしてから手を上げる。二人はしばらく並んで向かいの戸を眺めていたが、戸はいっこうに開かなかった。
「父さん、リオは今日、来ないの」
ヨナが振り返って訊いた。三人で歩くはずの坂道に、一人ぶんの足音が足りないのが、どうにも落ち着かないという顔をしている。
「学校に遅れるぞ。先に行っていなさい」
ヨナはもう一度だけ向かいの戸を見てから、ラウと連れ立って坂の下へ歩いていった。坂の途中で、二度こちらを振り返った。帳場のミーナが筆を止め、通りの向こうに目をやった。
「お向かい、今朝は静かね。どなたか、具合でも悪いのかしら」
「さあな」
台の端の包みは、誰にも手を伸ばされないまま、日差しの中に置かれていた。
◆
向かいの戸が開いたのは、日差しが台の半ばまで届いたころだった。出てきたのはリオではなく、母親のハンナだった。前掛けを着けたまま、髪もまとめきらずに、通りを斜めに渡ってくる。毎朝、小さな影がたどってきたのと、同じ道筋だった。
ハンナは台の前で足を止め、前掛けの裾を両手で握りしめた。息が浅く、言葉を口にする前に、二度、三度と喉が動く。握られた布の皺が、指の形のまま白く浮いていた。
「バルトさん。リオを、見ませんでしたか。昨日の夕方から、帰ってこないんです」
ゆうべのうちに、心当たりの家はすべて回ったのだという。ラウの家にも、親戚の家にもいなかった。うちの人は夜明け前から、まだ探しに出たままだ。ハンナはそれを、一つずつ数えるように並べていった。
「今朝は、まだ来ていない。いつもの刻限を過ぎても戸が開かないから、どうしたのかと思っていた」
答えたことに、嘘は一つもなかった。ミーナが帳場から出てきてハンナの肩に手を添え、店の奥の椅子へ座らせる。バルトは水瓶から木の椀に水を汲み、ハンナの手に持たせた。汲みたての水は冷たく、椀を渡したあとも、その冷たさがバルトの指先にしばらく残っていた。ハンナは両手で椀を包んだまま、一度も口をつけなかった。
声を聞きつけて、通りの家々から人が出てきた。路地の口に近い家の婆さんが籠を提げたまま足を止め、洗濯屋の女房が濡れた手を前掛けで拭きながら駆け寄ってくる。坂の上では粉屋の荷車が止まり、親父が轅を下ろした。荷台の後ろでは、ノナが何が起きたのか分からない顔で、大人たちの背中を見上げていた。
店先の小さな人だかりは、ほどなく手分けの相談に変わった。粉屋の親父は学校へ、洗濯屋の女房は亭主を呼んで川べりへ回る。婆さんは坂の下の空き地を見てくると言い、籠を台に預けて歩き出した。誰も声を荒げず、誰も泣かなかったが、話す声だけがいつもより一段低かった。
「駐在所には、わたしが行ってきます」
ハンナが椀を台に置いて立ち上がった。ミーナが付き添おうとすると、ハンナは首を振った。
「ここにいてください。あの子が帰ってきたら、いちばん先に、ここへ来ると思うから」
ハンナの背中が坂の下へ遠ざかっていくのを、バルトは台の前に立ったまま見送った。親父が店に預けていったノナは、ピアと並んで木箱の前に座ったが、今朝はどちらが店の主人をやるかで言い合わなかった。ミーナは帳場へ戻りかけて、台の端の包みから、そっと目を逸らした。
◆
昼の鐘より少し前、ジルが坂を上ってきた。いつもの規則正しい足音ではなく、ところどころで石畳を蹴る音が乱れている。台の前で止まったジルは、息を整えるより先に、小さな帳面を取り出した。
「バルトさん。リオのことで、話を聞かせてください」
ハンナから一通りの話を聞き、同じ駐在所のネッドを川べりへ回して、分隊長のオルドは駐在所で知らせを待っている。ジルはそれを早口で並べた。制服の右の袖口は今日も白くほつれていたが、迷子の犬の話をするときの顔は、どこにもなかった。
「このお店は、リオの家の真正面です。昨日の夕方、表で何か見ていたら、どんなことでもいいので」
バルトは頷き、昨日の夕方のことを、刻限の順に話していった。日が傾いて、台の上が空きはじめたこと。いつものように、店の前の石畳に水を撒いたこと。戸板を立てたのは、日が落ちきる少し前だったこと。
ジルはそれを一つずつ帳面に書きつけていった。筆が止まると、バルトは口を閉じたまま次の問いを待った。訊かれたことには、知っていることを、知っている順に答えればいい。
「見慣れない者が、通りをうろついてはいませんでしたか」
「いや。昨日は、見慣れた顔ばかりだった」
ジルは帳面から顔を上げ、深く息を吐いた。強ばっていた肩が、ほんの少しだけ下がる。
「助かります。バルトさんの話は、刻限がはっきりしていて、書きやすい」
「毎日、同じ時刻に同じことをしているからな」
それも、本当のことだった。ジルは帳面を閉じ、何かあったらすぐ知らせてください、と言った。店は開けておく、ハンナさんが戻る場所が要るだろう、とバルトが答えると、ジルは何度も頷き、頭を下げてから坂を駆け下りていった。
肉を買いに来た客は、包みを受け取ると、礼もそこそこに向かいの戸へ目をやる。誰かが坂を上ってくるたびに店先の話し声がふっと止み、違う顔だと分かると、また低く続いた。爺のときには三人ぶんしか揺れなかった水面が、今日は通りの端から端まで、残らず波立っている。
胸の内を探ってみても、そこにはやはり何もなかった。驚きも、痛みも、浮き立つものさえ見当たらない。ただ、波の高さを目で追い、それがどこまで届くのかを測っている自分がいるだけだった。台の端の包みは、昼を過ぎても、誰にも受け取られなかった。
◆
学校から戻ってきたヨナは、店の戸口で布袋を下ろすなり、父の前掛けの端をつかんだ。
「リオ、学校にも来なかった。先生も、知らないって」
教室では朝からその話でもちきりだったという。ヨナは前掛けをつかんだまま、向かいの戸と父の顔を、何度も見比べた。友達の机が一つ空いていることを、まだうまく飲みこめずにいる目だった。
「町のみんなで探してる。お前は、母さんと二階にいなさい」
ミーナがヨナの肩を抱いて、階段へ連れていった。ピアは人形を抱えてその後ろにつき、段の途中で一度だけ振り返った。
日が傾いても、ハンナは戻らなかった。川べりへ行った者も、空き地を見てきた者も、首を横に振りながら坂を上ってくる。バルトは台の上の売れ残りを片づけ、最後に、台の端の包みを手に取った。日差しを一日浴びた紙はすっかり乾いて、朝よりも軽くなったように思えた。バルトは包みをほどき、中身を明日の鉢へ戻して、紙は畳んで引き出しの奥へしまった。
戸板に手を掛けたとき、刻限でもないのに、鐘が鳴りはじめた。昼を告げるのと同じ鐘が、間を置かずに打ち鳴らされ、坂の下から上まで、通りの戸が次々に開いていく。灯を提げた男たちが、黙ったまま広場のほうへ下りていった。
捜索の合図だった。




