第48話 言い方ひとつ
噂は、言葉を一つ足せば動きだし、もう一つ足せば止まる。バルトがそれを自分の手で確かめたのは、坂の下の酒場に昼の煙がこもる刻限のことだった。
ジルが店先へ訊きに来た日から、二日が過ぎていた。昼の鐘のあと、バルトはいつものように荷車を引いて坂を下り、酒場の裏口に腸詰と塩漬けの包みを下ろした。店の中では炉の煙が低い天井に溜まり、木のジョッキが卓を打つ音があちこちで重なっている。昼から腰を据えているのは、荷運びの男が二人と、奥の隅の卓に陣取ったベン爺くらいのものだった。
主人は包みを受け取ると、いつものように中身も確かめずに棚へ置いた。それから樽に肘をつき、声を少しだけ落とした。
「聞いたか、肉屋。ジルが、トマスの爺さんの路地を覗いて回ったっていうじゃないか。爺さん、どうしちまったんだ」
荷運びの男たちが、ジョッキを持つ手を止めてこちらを向いた。騎士団員が巡回の道を外れて路地へ入れば、誰かの目には必ず留まる。留まった目は、半日もかからずに話を酒場まで運んでくる。バルトは空の籠を荷車へ戻しかけた手を止め、前掛けで指を一度拭った。訊かれたことには、知っていることだけを答えればいい。
「ジルなら、うちにも訊きに来たよ。爺さんは先々週の金曜に店へ来て、それきりだと話した」
嘘は一つもなかった。バルトは続けて、ジルが見てきたことを、ジルの口から聞いたとおりの順に並べていった。戸は閉まっていて、中はきれいに片づいていたこと。杖は見当たらず、戸の隙間には布がきちんと詰めてあったこと。分隊長のオルドが、杖を持って出たのなら自分の足で出かけたのだろう、と言ったこと。
「洗濯屋の女房さんは、親戚のところだろうと言ってたな。亭主の叔父さんは隣町の祭りへ行ったきり、三年も帰らなかったそうだ」
最後の一言は、女房が笑い話として口にしたものを、そのまま渡しただけだった。どれにも手は加えていない。ただ、どの話をどの順で並べ、どこで口を閉じるかだけは、バルトが選んだ。
「隣町の祭りか」と、荷運びの一人が膝を打った。「そういや、ちょうど今時分だ。秋の祭りは三日は騒ぐからな」
「布まで詰めて出たんなら、長逗留のつもりだろうよ」
「爺さん、隣町に孫でもいたのかね」
「いたんだろうさ。年寄りは、身内の話を酒場じゃしねえもんだ」
孫の話を持ち出したのは、バルトではなかった。それでも話はその孫の家の戸口までまっすぐ歩いていき、そこで落ち着いた。主人は、帰ってきたら土産代わりに一杯おごらせようと笑い、男たちのジョッキがまた卓を打ちはじめる。トマス爺の名前は、それきり煙の中から出てこなかった。
「ジルも、気を揉みすぎなんだよ。迷子の犬の次が、出かけた年寄りだ」
荷運びの男がそう言って笑うと、主人も肩をすくめた。町の小さなずれを見落とさない目は、ここでは、暇を持て余した騎士団員の癖として片づけられていた。
バルトは籠の底を手で払いながら、いまの数呼吸を胸の内でたどり直した。足したのは、騎士団員が見てきたことと、洗濯屋の女房の笑い話だけだ。それなのに町は、自分で孫を一人こしらえ、その家へ爺を送り届けて、話の戸まで閉めてしまった。台に並べる肉の順を一つ入れ替えるだけで、客の手の伸びる先が変わるのと、よく似ていた。
奥の隅の卓では、ベン爺が誰に聞かせるともなく、森の話を続けていた。赤い顔で杯を抱え、もう片方の指で、卓の上に足跡の形を描いている。
「雨上がりの土なら、三日前の足跡でも読める。どっちを向いて、何を担いで歩いたかまでな」
「石畳じゃ、読めねえだろう」
主人が茶々を入れると、ベン爺は鼻を鳴らして杯の底を卓に打ちつけた。
「だから町は好かん。トマスの奴も、出かけるならわしに一言あってもよかろうに」
ぼやきはそれだけで、ベン爺の指はまた卓の上の足跡へ戻っていった。バルトは会釈をして酒場を出た。煙のこもった店から出ると、昼の日差しがやけにまぶしかった。三十年森を見てきたという目も、町の石畳の上では何ひとつ読めずにいる。荷車の柄を握り直しながら、バルトはそのことを一度だけ思い返した。
◆
その日の午後は、学校が親たちを呼んで、子供たちに作文を読ませることになっていた。題は「家の仕事」で、ヨナはこの一週間、二階の食卓で書いては消しをくり返していた。バルトとミーナはいつもより早く戸板を立て、ピアの手を引いて坂の下の学校へ向かった。半日ぶん売り上げが減っても、帳面の線は一本で済むわ、とミーナは笑っていた。
教室には長椅子が並び、見知った顔の親たちが肩を寄せ合って腰を下ろしていた。窓から差しこむ秋の日が、使い込まれた机の木目を白く浮かび上がらせている。ピアは長椅子の端で人形を膝に立たせ、兄の番をおとなしく待っていた。ヨナの番が来ると、息子は紙を両手で持って前へ出た。背筋を伸ばしすぎて、かえって肩が上がっている。読みはじめる前に一度だけ大きく息を吸うのは、眠りに落ちる前と同じ癖だった。
「ぼくの家の仕事。ぼくの父さんは、肉屋です。父さんは、牛でも角猪でも、骨の場所がぜんぶ分かります」
前の席の誰かが、くすりと笑った。同じことを教室で三度言い、三度目に先生から座りなさいと言われたことは、バルトも人づてに知っている。今日の先生は窓際で腕を組んだまま、黙って頷いていた。隣のミーナが、ほらね、という顔でこちらを見る。学校で話すわよと言われたのは、夏の終わりの夜の食卓でのことだった。
「父さんは毎朝、町でいちばん早く起きて、同じ時刻に灯を入れます。父さんにいらっしゃいと言われたお客さんは、みんな、また来ると言って帰ります。町の人は、父さんの肉が町でいちばんだと言います」
ヨナの声はところどころで裏返りながらも、最後まで止まらなかった。ミーナが隣で小さく頷くたびに、膝の上で重ねた手の指先が動く。帳場で硬貨を数えるときと同じ動きで、本人は気づいていないようだった。
「ぼくも大きくなったら、父さんみたいな肉屋になります。でも、今はまだ、鶏の骨の場所しか分かりません」
今度は教室じゅうが笑い、ミーナが口もとを押さえて肩を揺らした。ピアは何が可笑しいのか分からないまま、母の真似をして笑っている。ヨナは耳まで赤くなり、最後の一行だけを少し早口で読んだ。
「手がもう少し大きくなったら、父さんに教えてもらう約束です。おわり」
親たちの拍手の中を、ヨナは胸を張って席へ戻っていった。途中で一度だけこちらを見たので、バルトは頷いてみせ、自分も手を打った。掌が鳴るたびに、打ち合わせたところへ熱がじわりと溜まっていく。
拍手が収まるのを待ちながら、バルトは長椅子の親たちの顔を端から眺めた。ここにいる誰の口からも、トマス爺の名前は出てこない。酒場で閉じた話の戸は、町のほかの場所でも、同じように閉じられてしまったのだろう。
言葉一つで町が動くことは、分かった。けれど、言葉一つで閉じてしまう輪では、それがどこまで届いたのかを測ることもできない。最初の石を小さく選んだのは自分で、その見立てに誤りはなかった。誤りがなかったぶんだけ、何も測れないまま終わったのだ。
爺は、小さすぎた。次は、誰がどんな言葉を足しても閉じきらないほどの、町じゅうが振り向く大きさが要る。そう考えても、胸の内は秤の皿のように平らで、掌に残っているのは、息子のために打った拍手の温みだけだった。
帰り道、ヨナは作文の紙を父に預けた。端には先生の字で、よく書けました、と一行添えてある。店へ戻ると、バルトはその紙を四つに畳み、店の奥の棚の、仕入れ帳の隣に差し入れた。額に入れて飾ればいいのに、とミーナが笑う。
「棚のほうが、なくさない」
仕入れ帳には、明日の豚の目方と、月末に届く角猪の値の見込みが書いてある。息子の作文には、父さんの肉が町でいちばんだと書いてある。次の仕入れを、バルトはもう決めていた。それを書きつける紙は、この家のどこにもなかった。




