第47話 余った包み
台の下の包みは、昼の鐘が鳴っても、誰にも呼ばれなかった。金曜の朝に脂の少ないところを選り分け、年寄りの小鍋に収まる大きさに整えて紐を掛けておくのは、もう何年も続けてきた習いだ。今週だけそれをやめる理由は、バルトには一つも見当たらなかった。
客足が引くと、店先には向かいの木槌の音ばかりが残った。バルトは鉢の端肉を寄せ直しながら、ときどき隣の路地の口へ目をやった。杖の音が聞こえてこないことは、とうに分かっている。分かっていて目をやるのも、毎週この刻限にしてきたことの続きだった。
最初にそれを口にしたのは、路地の口に近い家に住む婆さんだった。豚の背を少しと、煮込み用の脛を一本。いつもの品を籠に収めてから、婆さんは路地のほうを振り返った。
「トマスの爺さん、見ないねえ。この何日か、戸口に椅子が出てないんだよ」
皺に埋もれた目は、心配しているというより、数え違えた釣り銭を思い出したときのように細められていた。隣で包みを待っていた洗濯屋の女房が、すぐに口を挟む。
「親戚のところでしょう。年寄りはね、ある朝ふいっと出かけるものよ。うちの亭主の叔父なんて、隣町の祭りを見に行ったきり、三年も帰ってこなかったんだから」
バルトは女房の包みに紐を掛けながら、その話を最後まで聞いた。爺に身寄りがないことは、毎週この台の前で、本人の口から聞いている。けれど、それを女房に教える理由も、どこにもなかった。訊かれていないことを黙っているのは、客の家の台所に口を出さないのと同じ、肉屋の作法だった。
「先週の金曜には、ここへ来ましたよ」
婆さんが顔を上げたので、バルトは包みを差し出しながら続けた。
「戸の隙間に布を詰めたと、得意そうに話していました。冬の支度は、もう済ませたんでしょう」
どれも、あの晩、戸の向こうから聞いた言葉のとおりだった。婆さんは、なるほどねえ、と大きく頷いた。
「布まで詰めてから出かけたんなら、あの人らしいや。几帳面な靴屋だったからね」
「帰ってきたら、土産話でも聞かせてもらえばいいのよ」
二人の話はそれきり、祭りの屋台の出来のことへ移っていった。婆さんは帰り際、駐在所の前を通るから一応言っておこうかね、と独り言のように言った。それがいいですよ、とバルトは答えた。本心だった。投げた石の輪が少しでも立つのなら、それがどこまで届くのかを、この目で見ておきたかった。
午後の客は、いつもの顔ぶれで続いた。粉屋の親父は荷車を止めて塩漬けを一つ買い、学校帰りの子供たちは声を上げて台の前を駆け抜けていった。路地の椅子の話をする者は、それきり一人もいなかった。バルトは秤の針が止まるのを待ちながら、婆さんの背中が坂の下の広場のほうへ遠ざかっていったのを、もう一度思い返していた。
日が傾き、戸板を立てる刻限になっても、包みは台の下に残っていた。紐の結び目は、曲がった指でも端を引けばほどけるよう、今週もふだんより緩く結んであった。バルトはその紐をほどき、中身を明日の煮込み用の鉢へ戻した。ほどいた紐は巻き直して、いつもの引き出しへしまう。帳場で筆を置いたミーナが、こちらを見た。
「今週は、トマスさんの分が出なかったのね」
「来なかったからな」
ミーナはそれ以上は訊かず、帳面の最後の行の下に線を引いた。
◆
翌日、ジルの足音が坂を上ってきたのは、昼の鐘より少し前だった。週の初めでも半ばでもない日に顔を見せるのは、これで二週続けてになる。ただ今日は、台の前で止まっても、いつもの二本、とは言わなかった。
「バルトさん。トマスさんのことで、少しいいですか」
昨日の夕方、婆さんが駐在所へ寄っていったのだという。ジルは巡回の道を一本外れ、今朝のうちに隣の路地の奥まで見てきたらしかった。
「戸は閉まっていて、声を掛けても返事がありません。半分開いた窓の板戸から覗いたら、中はきれいに片づいていました。杖は見当たらなくて、戸の隙間には布がきちんと詰めてあります」
日誌を読み上げるような口ぶりだった。坂を急いで上ってきたのか、ジルの額には、秋口だというのに汗が浮いている。制服の右の袖口は、今日も白くほつれたままだった。分隊長のオルドは腰をさすりながら、杖を持って出たのなら自分の足で出かけたのだろう、と言ったという。ジルも同じ考えだと言いかけて、言葉の終わりを少しだけ濁した。
「ただ、あの膝で、どこへ行くのかと思って。それで、最後に会った人を探しているんです」
ジルの目は台の上の肉ではなく、バルトの顔に向いていた。腸詰を包むあいだは手もとを追っている目が、今日は一度も台へ下りてこない。町の小さなずれを見落とさない目だということは、前から知っている。その目が、今は自分の店の前で止まっている。そう思うと、胸の奥のどこかが静かに冴えていった。
「先週の金曜に、ここで会いました。毎週、金曜には包みを取りに来るんです」
「様子は、どうでした」
「上機嫌でしたよ。戸の隙間に布を詰めたら、家の中で風の音がしなくなったと、得意そうに話していました」
ジルは小さな帳面を取り出し、角張った字で書きつけていった。先週の金曜、肉屋に来店、上機嫌、冬支度は済み。筆が止まるたびに、バルトは次の問いを待った。何刻ごろだったかと訊かれれば、そのとおりに答えるつもりでいた。けれどジルは帳面を閉じ、布を詰めてから出かけたのなら、急な用ではなさそうですね、と自分で頷いた。
「この町で人を探すなんて、迷子の犬以来です。もし見かけたら、知らせてください。腸詰は、また半ばに買いに来ます」
「ああ」
ジルは敬礼の真似をして、坂の下へ戻っていった。帳面に書かれたことは、一字残らず本当のことだった。書かれなかったことが、いくつかあるだけだ。
◆
昼の鐘のあと、バルトはいつものように裏口から荷車を引き出した。籠を積んで坂を下りかけたところで、上から下りてくる幼なじみのカイと行き合った。往診の鞄を提げ、白衣の上に薄い上着を羽織っている。昼過ぎの坂には日がまともに当たり、石畳の照り返しの中で、カイの影だけが妙に細く見えた。カイは眼鏡を指で押し上げ、荷車の横で足を止めた。
「トマス爺を、見かけないか」
挨拶より先に出たのは、その問いだった。
「ジルにも、さっき同じことを訊かれた。先週の金曜に店へ来て、それきりだ」
「そうか」
カイはそれだけ言って、坂の下のほうへ目をやった。秋の風が、白衣の袖口から薬草の匂いを運んでくる。バルトは荷車の柄を握ったまま、次の言葉を急かさずに待った。
「関節の薬が、棚に一袋残ってる。朝晩二回だと、来るたびにうるさく言ってきたんだがな。文句は言っても、薬だけは一度も欠かしたことのない人だった」
責める声でも、探る声でもなかった。棚の小瓶の札を読み上げるときと同じ、医者の平らな声だった。眼鏡の奥の目が、ほんの一瞬だけバルトの顔に留まり、それから鞄の留め金へ落ちた。
「出かけるなら、薬くらい取りに来ればいいものを」
バルトは黙って頷いた。頷くだけなら、何も足さずに済む。カイは、じゃあな、と短く言って坂を下りていった。痩せた背中は、坂の下の人通りにまぎれるまで、一度も振り返らなかった。
荷車の柄を握り直し、バルトも坂を下りはじめた。車輪の音を聞きながら、この八日のあいだに爺の不在へ目を留めた者を、頭の中で数えてみる。戸口の椅子に気づいた婆さんと、その婆さんに言われて路地を覗いたジル。それから、棚に残った薬の袋を見ていたカイ。ほかの者は、親戚だの祭りだのという話で、自分から輪を閉じてしまった。柄を握る掌には、秋の日に温められた木の手ざわりがあるだけで、汗の一つもにじんでいなかった。
町じゅうの人のうち、八日かけて揺れたのは、三人ぶんの水面だけだった。
波が、小さすぎる。これでは、測れない。




