第46話 いつもの朝
目を開けたとき、窓の板戸の隙間はまだ藍色だった。いつもと同じ刻限で、誰に起こされたわけでもない。床に就いたのは夜がずいぶん更けてからだったはずなのに、体のどこにも眠り足りない重さは残っておらず、夢を見た覚えもなかった。隣ではミーナが、こちらに背を向けたまま、静かな寝息を立てていた。
階段を下りて作業場に灯を入れ、裏口の戸を開ける。夜明け前の冷気が足もとから入りこみ、梁に吊るした腸詰の列をかすかに揺らした。脇の戸口の掛け金は、ほかの朝と同じように下りている。軒の釘にも、もう何も掛かっていない。戸口を照らしていた小さなランプは、夜のうちに外して芯を下げ、作業場の棚のいつもの場所へ戻してあった。
バルトは桶に水を汲み、作業場の床を端から流していった。石の継ぎ目に沿って水が走り、隅の溝へ音もなく吸い込まれていく。毎朝くり返してきた手順で、今朝も一つも省かず、一つも足さなかった。汲みたての水は、指の節が痛むほど冷たかった。夜のうちに洗って伏せておいた桶は、もう乾いている。それを棚の下段へ戻すと、作業場はどこから見ても、昨日の朝と見分けのつかない眺めになった。
夜のうちに、必要なことはすべて済んでいた。済ませたあとに残ったのは、遅くまで立ち働いた晩の腕のだるさと、いつもより深い眠りくらいのものだ。どちらも、秋の仕込みが立てこんだ晩には珍しくない。
手は、いつもどおりに動いていた。桶を提げるときの指の掛け方も、床を流す水の量も、昨日と少しも変わらない。前掛けの上から胸に掌を当ててみても、心臓は規則正しく打っているだけで、跳ねもしなければ急ぎもしなかった。何かが変わるなら、まず自分の手が変わるのだろうと、どこかで思っていた。それがどこも変わっていないことが、バルトには、わずかに物足りなかった。
梁に並んだ秋の熟成用の列は、半ばまで乾きが進んでいた。指の腹で皮の張りを確かめると、詰めた晩の手ごたえが、そのまま指先へ返ってくる。初物を台に出せるまで、あと二週間ほどだろう。指折り数えているというジルの顔を思い出し、バルトは出来のいい一本の端に、麻紐をもう一巻きして目印にした。
空が白みはじめたころ、ミーナが階段を下りてきた。台所で使う塩の壺が、もう作業場の台の端に出ているのを見て、目を丸くする。
「あら。お塩、もう上げてくれたの」
塩の壺は、ふだんならミーナが自分で冷室へ取りに下りる。今朝はバルトが、灯を入れたついでに上げておいた。跳ね上げ戸は壺を出したあとで閉じたきり、それから一度も開けていない。
「ついでだったからな」
「昨夜はあんなに遅かったのに、朝から気が回るのね。上がってきたのも、ちっとも気づかなかったわ。雨でも降るんじゃないかしら」
ミーナは笑って壺を抱え、二階の台所へ戻っていった。作業場の窓から差しこむ光が、灰色から白へ変わりかけていた。
◆
戸板を外すと、向かいの靴直しの店から木槌の音が聞こえはじめた。通りから入る朝の風は、もう秋の匂いがした。台に塊肉を並べ、鉤に腸詰を掛け終えるころ、日差しが台の縁に届き、向かいの戸からリオが通りを斜めに渡ってくる。端肉の包みを両手に挟んで、母さんが、ありがとうって、と言うのも、戸口で一度振り返って手を振るのも、昨日と同じだった。
やがてヨナが布袋を肩に掛けて階段を駆け下り、戸口で待っていたラウと、包みを置いて出てきたリオと連れ立って、坂の下へ歩いていった。粉屋の荷車が坂の上から下りてきて、荷台から粉屋の娘のノナが飛び降りる。ピアは人形を抱えて店の隅の木箱へ走り、今日はどちらが店の主人をやるかで、さっそく言い合いを始めた。その声を聞きながら、バルトは台の上の塊肉を、日の当たらない側へ寄せ直した。
昼の鐘が近づいても、隣の路地から杖の音は聞こえてこなかった。金曜でない日に聞こえないのは、いつものことだ。路地の奥から二軒目の戸口には、今日は椅子も出ておらず、杖も立て掛けられていないはずだった。杖をついて出かけた年寄りの家は、外から見れば、ちょうどそういう形をしている。誰かがそれに気づくとしても、来週の金曜、この台の前で包みが一つ余るときのことだろう。
ジルが市場通りの坂を上ってきたのは、昼の鐘より少し前だった。週の初めと半ばのほかに顔を見せるのは珍しい。規則正しい足音のまま台の前で止まると、ジルは上がった息を一つ整えてから、ばつの悪そうな顔をした。
「いつもの二本、お願いします。……実は、半ばに買った分を、ネッドに持っていかれてしまいまして」
「全部か」
「全部です。駐在所の棚に置いておいたら、自分への差し入れだと思ったそうで。分隊長に叱られて、今朝は表の犬より小さくなってました」
ネッドの話をするジルの口ぶりは、叱るより先に、笑いをこらえているようだった。
帳場でミーナが筆を持ったまま肩を揺らし、腸詰を二本、と呟いて帳面に書きつけた。バルトは鉤から二本を外し、乾いた皮を指でなぞって張りを確かめた。厚手の紙に揃えて置き、端を折って巻き、両端をひねって麻紐を一巻きする。いつもの手順を、いつもの速さで済ませると、紐の端はいつもの長さで揃った。
包みを差し出しながら、バルトは何気なく訊いた。
「何か、変わったことは」
いつもはジルのほうが口にする問いだった。ジルは包みを受け取って脇に抱え、首を横に振った。
「何も。日誌に書くことがなくて、分隊長には紙の節約になると褒められました。この町は、ほんとうに静かですね」
「いいことだ」
返した言葉は本心だった。ジルは敬礼の真似をして、来た道を坂の下へ戻っていく。制服の右の袖口は、相変わらず白くほつれたままだった。
バルトはその背中が角を曲がるまで見送った。夜の前と夜のあとで、この台の前の景色は一つも変わっていない。客はいつものように買い、いつものように礼を言って帰っていく。何も変わっていないと、町の騎士団員が自分の口で請け合っていったのだ。
◆
夕食の鍋は、今夜もヤンの鶏だった。根菜と香草で煮込んだ湯気が食卓のランプの明かりを揺らし、ミーナが四つの皿によそってから前掛けを外す。はい、座って、冷めないうちに。その一言で食卓が締まるのも、いつもの夜と変わらなかった。
ピアは人形を膝に乗せ、昼間の肉屋さんごっこの売り上げを報告した。ノナちゃんが三回も買いに来て、三回ともおつりが要らなかったのだという。ヨナは学校で、ラウと二人して先生に褒められた話を、パンをちぎる手を止めずに続けていた。
「今日も、何もない日だったわね」
鍋の蓋を戻しながら、ミーナが言った。帳面の最後の行に線を引くときと同じ、静かで満ち足りた声だった。夏の終わりのあの夕方にも、同じ言葉を聞いた気がする。あのときは、褒め言葉にも重しにも聞こえたものだった。
「ああ。何もない日だった」
そう答えてから、バルトはその言葉を胸の内で量ってみた。リオは今朝も通りを渡ってきた。ジルは腸詰を買い、町は静かだと言って帰っていった。帳面の数字は昨日とほとんど変わらず、奥の部屋の寝台は今夜も同じ数だけ軋むだろう。町は、何ひとつ変わらなかった。
それが、かえって面白かった。いちばん小さな石を投げた水面に、まだ輪の一つも立っていない。輪が岸へ届くまで、どれほどの日数がかかるのか。それを数える楽しみが、まるごと手つかずで残っているのだ。喉の奥から笑いがこみ上げてきて、バルトは声を立てて笑った。食卓の三人が、そろってこちらを見る。
「父さん、どうして笑ってるの」
ピアが人形を抱いたまま首をかしげ、ヨナはパンを持つ手を止めていた。ミーナは鍋の蓋に手を置いたまま、不思議そうに目を細めている。
「いや。何もないのが、面白くてな」




