第45話 金曜の閉店後
その金曜は、昼の鐘が鳴って客足が引いても、隣の路地から杖の音が近づいてこなかった。今週の約束は夜なのだから、それで構わない。バルトは台の下に置いた包みを一度だけ確かめ、裏口から荷車を引き出した。包みの中身は、朝のうちに脂の具合を見て選り分けた豚の肩の骨付きで、紐を掛けたまま、夜まで台の下で待つことになる。
金曜の昼に配達へ出るのは、ずいぶん久しぶりだった。坂の下の酒場へ腸詰と塩漬けを届け、足の弱った年寄りの家々を回り、駐在所にはいつもの塩漬けを籠ごと置いてくる。昼過ぎは配達で店を空けることが増えたと爺に話したのは本当のことで、本当のことを本当のとおりに済ませておけば、あとで何を訊かれても答えは一つで足りた。荷車の車輪は、乾いた石畳の上で、ほかの曜日と同じ音を立てていた。
日が傾くと、店先の台は少しずつ空いていった。売れ残った端肉を鉢へ戻し、台を水で流してから、看板の下に戸板を一枚ずつ立てていく。帳場ではミーナが硬貨箱に指を走らせ、今日の売り上げを数え直していた。夕方の音は、どれも決まった順に、店の中を通り過ぎていった。
最後の一枚を立てると、バルトは戸板の閂を下ろした。昨日と同じ手つきだったが、脇の戸口の戸の掛け金にだけは、指を掛けずにそのまま離した。帳場の灯は戸口まで届かず、ミーナの目がそこまで追ってくることはない。
帳面を閉じたミーナが、筆を置きながら顔を上げた。
「今夜も、遅くなる?」
「仕込みが残ってる」
口にしてみると、それはどこにも引っかからない言葉だった。秋口の肉屋には、夜の仕込みがいくらでもある。この何週間か、夫が夜ごと作業場へ下りていくたびに、ミーナは同じ問いを口にして、同じ答えを聞いてきた。今夜の答えも先週と同じ形をしていたから、同じ重さで妻の耳に届いたはずだった。
「無理しないでね。夜は、もう冷えるようになったから」
ミーナは硬貨箱を抱えて立ち上がり、通りすがりに、バルトの肩口に付いた糸くずを指でつまみ取った。仕立て屋の娘の目は、夫の上着のほつれまで、ついでのように見つけてしまう。明日繕うわね、と言い残して、ミーナは先に階段を上がっていった。
夕食の鍋は、いつものようにヤンの鶏だった。ピアは自分の分を小さくちぎっては人形の口もとへ運び、ヨナは学校で覚えたばかりの歌を、父の皿が空になるまで小声でくり返していた。食卓が片づくと、子供たちは奥の部屋へ追い立てられ、寝台の軋む音がしばらく続いた。
バルトは階段の降り口に腰を下ろし、靴の紐を結び直しながら、奥の部屋の物音が静まるのを待った。先にピアの寝息が細く規則正しくなり、少し遅れてヨナの寝息が続く。息子は眠りに落ちる前に、一度だけ大きく息を吸う。その音が聞こえれば朝まで目を覚まさないことを、バルトは何年も前から知っていた。
最後にミーナが、先に休むわね、と食卓のランプを吹き消した。二階の明かりが一つずつ落ち、家じゅうの寝息が、いつもの場所から、いつもの数だけ聞こえてくる。バルトは足音を忍ばせて、暗い階段を下りた。
◆
階下の店は、戸板の隙間から入りこむ夜気で、昼よりひと回り冷えていた。バルトは小さなランプに火を入れ、戸口の戸を細く開けて、軒の釘に吊るした。通りに面した石畳に、橙色の明かりが丸く落ちる。向かいの靴直しの窓はとうに暗く、市場通りに残る明かりは、坂の下の酒場の窓と、この戸口の一つきりだった。
戸を閉めて台の前へ戻ると、包みを台の下から出して、杖を立て掛ける端のすぐ手前に置いた。爺が腕を伸ばさなくても届く場所だ。紐の結び目は、曲がった指でも端を引けばほどけるよう、ふだんより緩く結んである。毎週この台の前で、硬貨をつまむのにさえ手間取る指を見てきたのだから、そうするのが当たり前だった。
それから前掛けの紐をいったんほどき、腰の後ろで結び直した。夜明け前の作業場で毎朝くり返してきた手つきで、指は一度も迷わず、結び目は見慣れた形に収まる。両手を台の上に置いてみると、木の冷たさが掌へ移ってくるだけで、指先は震えもせず、汗ばんでもいなかった。
初めて一人で牛を任された朝には、胸の奥で何かが鳴ったはずだった。今夜は、その音もしない。代わりにあるのは、明日の朝がどんな顔をしているのかを、自分がまだ知らないという感じだった。怖さとは違う。初めての仕入れ先から荷が届く朝の、目だけが先に冴えていく感じに近かった。
店を継いで十年あまり、この台の前で迎えた朝は、どれも始まる前から終わり方が分かっていた。戸板を外し、肉を並べ、同じ顔でいらっしゃいと言えば、夕方には昨日とほとんど変わらない数字が帳面に並ぶ。先の見えない夜は、いつ以来だろう。思い出そうとしても、子供のころ、川べりの土手の草むらを覗き込んだ日くらいしか浮かんでこなかった。
これで何も変わらなければ、この先の朝に、知らないことは一つも残らない。そう考えても、胸の内は台の木目と同じように平らだった。落ち着いていることを、バルトはもう一度だけ確かめ、それ以上は確かめなかった。
爺は今ごろ、火を落とした竈のそばで、靴を磨き直しているのかもしれない。婆さんに呼び出された夜には三度磨いたと言っていたから、今夜も同じくらいは磨くだろう。上等なのは一足きりだと笑った声を思い出すと、バルトの口もとは自然に緩んだ。路地の口から店までの石畳に、杖の先が取られるような割れ目がなかったかを、昼の配達の道順に重ねてたどり直してみる。
通りの音が、一つずつ減っていった。酒場のほうで笑い声が上がってはやみ、どこかの家で戸の閉まる音がして、犬が一度だけ吠えて黙った。やがて戸板が、こと、と軽く鳴った。バルトは顔を上げたが、台の前から動かなかった。叩くのは夜の風だけだと、爺は言っていた。人の手は、あんなふうに軽くは鳴らない。
しばらくして、隣の路地の口のほうから、石畳を突く乾いた音が聞こえてきた。一つ鳴り、少し間を置いて、また一つ鳴る。右の膝をかばう歩き方のせいで、その間はいつも少しだけ長い。杖で二十も突けば店に着くと、爺は指を折りながら言っていた。バルトは台に手を置いたまま、その音を数えはじめた。
十を過ぎたあたりで、音の間がわずかに広がった。暗がりで足もとを確かめているのだろう。十五を数えるころ、響きが少しだけはっきりしたのは、杖の先が戸口の明かりの中へ入ったからに違いなかった。十九、二十。音はそこで止まり、代わりに、肩で息を整える気配が二度、戸板越しに伝わってきた。
戸が三度、遠慮がちに叩かれた。閉店の時刻を告げたとき、爺が指を折って数えた刻限から、ほとんど外れていなかった。自分の家の戸を叩く者はいないと言っていた人が、今夜は人の家の戸を叩いている。バルトは一度だけ天井を見上げた。二階は、静かなままだった。
「肉屋の旦那、わしだ。言われたとおり、戸の隙間に布を詰めてきたぞ。おかげで今夜は、家の中で風の音がせん」
戸の向こうの声は、少し得意げに弾んでいた。
「それはよかった。膝には、隙間風がいちばん堪えますから」
返した言葉に、取り繕ったところはどこにもなかった。冬が来る前にあの家の隙間が塞がったことを、バルトは本当によかったと思っていた。前掛けの結び目に一度だけ指を触れてから、戸口へ歩み寄り、戸に手を掛ける。
「いらっしゃい。外は、冷えたでしょう」
毎朝、台の前で口にしているのと同じ抑揚だった。戸の下の隙間からは、外の明かりが一本、細い筋になって床へ差し込んでいる。その筋が、二か所だけ影にふさがれていた。戸のすぐ向こうに、杖の先と、磨き直した一足きりの靴が、並んで待っているのだった。




