第44話 最後の休み
週に一度、ハルゼの町では、たいていの店が戸板を立てたまま朝を迎える。学校も休みになるその日は、バルト肉店も台に肉を並べないのが、父の代からの決まりだった。秋の日差しがやわらかいうちに、川べりへ弁当を持っていきましょう、と言い出したのはミーナだ。籠に布をかぶせ、子供たちに上着を一枚ずつ余分に持たせて、四人は昼前に市場通りの坂を下りた。
町の外れで土手を下りると、川は浅瀬の石に当たって、昼前の光を細かく砕きながら流れていた。ふだんは洗濯の女たちで賑わう岸も、休みの日には人影がまばらだった。ミーナは草の乾いたところを選び、籠から敷き布を取り出した。仕立て屋の店に残った端切れを継いで縫ったもので、広げると、色の違う四角が草の上に並んだ。
ヨナは敷き布が広がるのも待たずに、小桶を提げて浅瀬の平たい岩へ渡っていった。手にしているのは、バルトが子供のころに使っていた古い釣り竿で、糸だけは今朝、ミーナが新しいものに張り替えてやった。ピアは布の人形を抱えて兄についていこうとし、岩の手前で母に呼び戻された。
バルトは敷き布の端に腰を下ろし、川面に落ちた糸の先を眺めた。流れは岩の陰でゆるみ、そこだけ水の色が一段濃くなっている。魚が付くならあの陰だということは、肉の脂の乗り具合と同じで、教わらなくても目に入ってくる。ヨナの竿の先は、ちょうどその陰の上で、細かく震えはじめていた。
「父さん、引いてる!」
ヨナが両手で竿を立てると、水面が割れて、銀色の腹がひとつ跳ねた。日を弾いた鱗が一瞬だけ光り、糸がふっと軽くなる。魚は宙で身をひねって、もとの陰へ落ちていった。ヨナは竿を握ったまま、波紋が流れに崩されていくのを、しばらく黙って見つめていた。
「大きかった。父さん、見た? ぼくの腕くらいあった」
バルトの目には、跳ねた魚は掌に載るほどの大きさに見えた。目方を言い当てるのは商売の癖で、それを口に出さずにおくのは父親の癖だった。
「逃がした魚は、大きいものだ」
「お魚さんに、逃げられたの?」
ピアが人形を抱いたまま、心底気の毒そうに兄の顔をのぞき込んだ。ヨナは口をとがらせ、逃げられたんじゃない、放してやったんだ、と言い返して、また餌の虫に手を伸ばした。ミーナが敷き布の上で肩を揺らして笑い、バルトもつられて笑った。
日が高くなると、ミーナが籠の布を取った。中には、昨夜のうちに焼いて冷ましておいた鶏と、黒パンが詰めてある。鶏はこのあいだ隣村のヤンが裏口へ届けてくれたもので、皮にまぶした香草の匂いが、川風に混じって広がった。ミーナは小刀で切り分けようとして、思い直したように、鶏をバルトのほうへ差し出した。
「休みの日まで、あなたに切らせるのも悪いけれど」
「これくらいは、仕事のうちに入らない」
バルトは腿の継ぎ目に指を添え、小刀の先を軽く入れて、ひとひねりした。骨は音もなく外れ、ヨナが岩の上から首を伸ばしてそれを見ていた。四人分を切り分けるのに、数呼吸もかからなかった。
「ねえ、たまには父さんの腸詰を持ってくればいいのに。町の人はみんな、父さんの腸詰がいちばんだって言うよ」
岩から戻ってきたヨナが鶏の骨をかじりながら言うと、ミーナは指についた脂を布で拭い、さらりと答えた。
「お店のお肉は、お客さんのもの。家で食べるのは、ヤンさんの鶏。うちの決まりでしょう」
「でも、どうして決まりなの」
「それは、お父さんに訊きなさい」
二人の目がこちらへ向いたので、バルトはいつもの冗談をいつもの顔で言った。肉屋が自分の店の肉に飽きたら、商売にならないだろう。ヨナは前にも聞いたという顔をしたが、それ以上は訊かずに、二本目の腿へ手を伸ばした。ピアは自分の分の鶏を小さくちぎっては、人形の口もとへ運んでやっていた。
食べ終えると、ヨナは竿を抱えて岩へ戻り、ピアは敷き布の端で人形を寝かしつけるうちに、自分のほうが先に眠ってしまった。ミーナがその肩に上着を掛け、バルトの隣に座り直す。秋の日差しは真上を少し過ぎて、手の甲にだけ、夏の名残のような温みを置いていった。
「最近、楽しそうね」
ミーナは川のほうを見たまま、何でもない調子で言った。
「そうか」
「そうよ。夜、作業場に下りるようになってから、顔つきが違うもの。朝もすぐ起きるし、よく眠れてるみたいだし」
帳面の数字を読み上げるときと同じ、静かな声だった。責めているのでも、探っているのでもない。糸の一本も数え違えない目が、夫の顔つきが変わったことにも、ちゃんと気づいていたというだけのことだった。
「楽しいんだ」
そう答えてから、バルトは自分の言葉を胸の内で確かめた。嘘ではなかった。秋の仕込みも、帳面の数字も、作業場の夜も、このところは何をしていても手応えがある。その手応えのいちばん奥に、金曜の夜が吊るしてあった。
ミーナの肩が、ときどき自分の腕に触れてくる。眠ったピアの寝息は、川の音の合間に小さく聞こえた。岩の上では、ヨナが今度こそと竿を握り直している。そのどれもが温かく、そのどれとも並んで、金曜を待つ気持ちが静かに座っていた。
二つのあいだに、後ろめたさの挟まる隙間はなかった。バルトは骨の継ぎ目を探るときの指つきで、胸の内を端からなぞってみた。刃が止まるような硬いところがどこかにあるはずだと思ったが、指はどこにも引っかからず、最後まで滑らかに通っていった。気づいても驚きはなく、ただ、気づいたということだけを、頭の中の帳簿の隅に一行書き留めた。
「楽しいなら、よかった」
ミーナはそう言って、膝の上に畳んだヨナの上着の、ほつれかけた袖口を指で撫でつけた。帰ったら繕うつもりなのだろう。そのとき、岩の上でヨナが短い声を上げ、二人は同時にそちらを見た。竿の先で、小さな魚が一匹、精いっぱいに体をくねらせていた。
◆
日が傾きはじめたころ、四人は土手を上がって町へ戻った。ピアは結局目を覚まさず、バルトの背中で人形を抱えたまま揺られている。ヨナは竿を肩に担ぎ、水を張った小桶の中の一匹を、何度も立ち止まってはのぞき込んだ。掌に載るほどの魚だったが、ヨナの話の中では、もう少しずつ大きく育ちはじめていた。
川べりの道が市場通りへつながる角で、巡回のジルと行き合った。休みの日でも、駐在所の足は鐘と一緒に回るらしい。制服の右の袖口は相変わらず白く擦り切れていて、ジルはバルトの背中のピアに気づくと、出しかけた声を途中で落とした。
「バルトさん、ミーナさん。川でしたか」
「休みの日くらいはな」
「それ、ヨナが自分で釣ったんですか。立派だ」
ヨナは胸を張って小桶を差し出し、逃がしたほうはこの三倍あったと付け加えた。ジルは小桶をのぞき込み、それは惜しいことをしましたね、と真面目な顔で頷いた。子供の話にも手を抜かずに頷くところが、いかにもこの隊員らしかった。
別れ際、ジルは数歩行きかけてから振り返り、片手を上げて振った。
「次の腸詰、楽しみにしてます。初物の日を、指折り数えてるんですよ」
「まだ少し先だ。いちばん出来のいいのを残しておく」
ジルは嬉しそうに笑って、川べりのほうへ下りていった。規則正しい足音が、夕方の石畳を遠ざかっていく。初物になる列は、今も作業場の梁で、少しずつ水気を落としているはずだった。
裏口から入って階段を上がり、バルトはピアを奥の部屋の寝台に下ろした。人形を胸元へ戻してやると、ピアは目を閉じたまま、それを抱き直した。台所のほうからは、籠の中身を片づけるミーナの物音と、この魚をどうするかで母に掛け合うヨナの声が聞こえてくる。
家は日常だ。日常があるから、日常でないものが測れる。いつかの夜、この部屋の戸口で決めたその言葉を、バルトは寝台の脇に立ったまま、もう一度確かめた。言葉は、あの夜と同じ形のまま、どこも欠けずに収まっていた。
背中には、眠った娘の重みと温みが、まだ薄く残っている。肉屋の手は、何を持っても目方の見当を付けてしまう。けれどその重みだけは、一度も目方に直してみようとは思わなかった。




