第43話 仕入れ帳
仕込みのうちでいちばん退屈なのは、刃を入れる前の段取りだと、父はよく言っていた。樽を洗い、塩を量り、鉤の数を確かめる。誰に褒められるわけでもない仕事だが、バルトは子供のころから、その退屈な時間が嫌いではなかった。
トマス爺と約束を交わした翌朝、バルトはいつもより早く作業場へ下り、床の隅の跳ね上げ戸を引き上げた。石の段を下りた先が冷室で、もとは氷室だったところを、父が店の貯蔵に改めたものだ。ランプをかざすと、湿った石の壁が鈍く光り、吐いた息が白くほどけた。
地下には、一年じゅう季節が一つしかない。壁際の棚には塩漬けの樽が並び、梁からは鉤が二列に下がっている。秋口の今は、吊るした枝肉の数も夏より多かった。バルトは樽を一つずつ転がして手前へ寄せ、奥の一角を空けた。空いた鉤が三本、ランプの光の中でかすかに揺れた。
父に連れられて初めてこの段を下りたのは、ヨナよりまだ小さいころだった。冷えが足首から這い上がり、吊るされた枝肉の列が、闇の中に黙って並んでいた。怖いとは思わなかった。ただ、鉤の数を端から数えていた。冷室は店の腹だ、ここで寝かせたものだけが売り物になる、と父はあのとき言った。
バルトは一度階段を上がり、ミーナが塩を取りに下りてくるときと同じ段に立って、冷室を見下ろした。ランプの届く手前には樽が並び、その奥は暗がりに沈んでいる。いつもと同じ眺めだった。それを確かめてから、もう一度下りて、空けた鉤の高さを揃え直した。
手を動かしながら、バルトは自分の口もとが緩んでいることに気づいた。刃を入れる時間よりも、こうして段取りを組む時間のほうが、ずっと楽しい。走狼の夜の熱は三日で消えたが、まだ何ひとつ起きていない今の熱は、金曜まで冷める気配がなかった。父の言った退屈な仕事が、生まれて初めて、少しも退屈ではなかった。
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昼前、裏口に荷車の止まる音がした。隣村の農家のヤンが、家の分の鶏を届けに来たのだ。羽をむしった鶏を籠に入れて裏口まで運んでくるのが、所帯を持ってからの決まりで、店の表へ回ってきたことは一度もない。荷台にはほかの家へ届ける籠がいくつも積まれていて、ヤンはその一つを渡すと、首に掛けた手拭いで額の汗を拭いた。
「今週のは、よく太ったのを選んできた。肉屋の家の食卓に上るんだ、半端なのは出せねえ」
「店の肉より、よほど大事にされてるな」
「当たり前だ。うちの鶏にとっちゃ、旦那の家で食われるのが、いちばんの出世だからな」
ヤンは自分の冗談に大きく笑い、代金を受け取ると、荷車の向きを変えて帰っていった。籠の鶏は、このまま階段を上がって二階の台所へ行く。店の台へ並ぶ肉と、家の食卓へ上がる肉。この家では、二つの肉の通り道が、所帯を持った晩から一度も交わったことがなかった。
籠を抱えて階段を上がると、台所でミーナが鍋を火にかけていた。
「今朝はずいぶん早かったのね。下で物音がしてたわ」
「冷室を片づけてたんだ。秋の仕込みで、吊るす分が増えるからな」
「お義父さんの代からの樽、まだ全部残ってるでしょう。いい加減、古いのは捨てたら?」
「まだ使えるさ」
ミーナは笑って籠を受け取り、鍋の具合を見に戻った。秋の仕込みで場所が要るのは本当で、バルトは一つも嘘をついていない。言わなかったことが、一つあるだけだ。書かない数字なら、誰も数え違えようがない。
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その晩から、子供たちが寝ついたあとの帳場で、バルトは仕入れ帳を開くようになった。店の奥の棚に父の代から置かれている帳面で、何を、どこから、どれだけの目方で買い入れたかが、頁ごとに並んでいる。ミーナの帳面が店から出ていったものの記録なら、こちらは店へ入ってきたものの記録だ。二冊を並べて開けば、入ったものと出たものの釣り合いが一目で分かる。
バルトは先月の頁を指でなぞり、豚の目方と腸詰の本数を見比べた。ミーナの帳面は、糸の一本も数え違えたことがないのが自慢で、売った本数は一本たりとも動かせない。家畜の肉なら、同じ目方からはほぼ同じだけの腸詰が取れる。数字がずれるのは、決まってロウが魔物の肉を持ち込んだ月だった。
魔物の肉は、一頭ごとに脂の色も身の締まりも違う。筋の多い月には捨てる部分が増え、脂の乗った月には、同じ目方から一割近く多く詰められることもある。仕入れ帳を何年遡っても、魔物の肉を扱った月の歩留まりは、少しずつ揺れ続けていた。父の代から、その揺れを気にした者は誰もいない。
揺れるのが当たり前の帳面なら、多少のずれは、ずれのまま紛れる。バルトは頁を閉じ、作業場の隅の棚に並んだ骨粉の袋を思い浮かべた。袋の数は、仕入れ帳の端に必ず書き添えてある。骨の量と仕入れの目方が釣り合って見えるように、どの袋に何を足すかを、頭の中で一つずつ割り振っていった。
帳面には、何も書き足さない。書くのは、いつもと同じ数字だけだ。嘘を一つ書けば、その嘘を支えるために、また別の数字が要る。それよりは、もとから数字の揺れるところに、ずれを一つ預けておくほうがいい。父から継いだ帳面は、そのための余白を、何十年も前から用意してくれていたようなものだった。
二階から、ヨナが寝返りを打つらしい床板の音が一つ聞こえ、すぐに静かになった。家の中の物音は、いつもと同じ数だけ、いつもと同じ場所から聞こえてくる。バルトは帳面の角を揃え、店の奥の棚へ戻した。
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仕入れ帳を棚へ戻した晩、バルトはそのまま作業場へ下りて、腸詰の仕込みに取りかかった。秋の熟成用の分は、この時期、何晩かに分けて詰めていく。刻んだ豚と角猪の肉に、量った塩と香草を加え、掌で鉢の底から返すように混ぜる。脂が手の熱で溶けないよう、鉢の下には冷室で冷やしておいた水を張ってあった。
水で戻しておいた羊の腸を漏斗の口にたぐり寄せ、混ぜた肉を少しずつ押し込んでいく。詰めすぎれば乾くうちに皮が裂け、緩ければ中に隙間ができて傷む。指の腹で張りを確かめながら、同じ長さごとにひねって節を作り、端を麻紐で結ぶ。この手順は、もう何年も前から指のほうが覚えている。
鉢の底をさらっていた指先が、硬いものに触れた。冷えた肉を混ぜ続けて感覚の鈍った指でも、それははっきり分かった。つまみ上げると、爪の先ほどの細い骨の欠片だった。角猪の肉を刻むと、たまにこうして小骨が紛れ込む。客の歯に当たれば、すまないと詫びて一本取り替える。年に何度かは、どこの肉屋でも頭を下げることだ。
バルトは欠片を骨の桶へ放り、底で鳴ったごく小さな乾いた音を聞いた。金曜のあとも、こうして指の腹で鉢の底を探ることになる。どれほど念を入れても、細い欠片が一つくらいは指をすり抜けるかもしれない。だが、すり抜けたところで、客の目には魔物の小骨と見分けがつかないだろう。バルトはそう考えて、それ以上は考えなかった。
冷えきった指を口もとへ寄せて息を吹きかけると、塩と脂の匂いがした。秋の夜の作業場は、火の気がなければ足もとから冷えてくる。それでもバルトは灯の油を足して、もう一列詰めることにした。
詰め終えた腸詰を梁の鉤に一本ずつ掛けていくと、作業場に塩と香草の匂いが満ちた。秋の熟成用は、こうして吊るしてから三週間ほど風に当て、水気を抜いて、ようやく台に出せる。今夜の列が台に並ぶころには、金曜はとうに過ぎている。
最後の一本を掛け終えて、バルトは作業場を見回した。冷室の奥には鉤が三本空いたままで、仕入れ帳の数字はいつもどおりに釣り合い、骨の桶の底は静まっている。手を洗い、ランプの芯を下げると、吊るした腸詰の影が石の床に細く並んだ。
準備は整った。あとは、金曜を待つだけだった。




