第42話 トマス爺
金曜の昼だけは、鐘が鳴っても、バルトは荷車を裏口から出さなかった。秋口に入って配達の注文は増える一方だったが、杖の音が隣の路地から聞こえてくるまでは、台の前を離れないことにしている。籠に詰めた包みを積み直し、配達先の順を指で数え直しながら、バルトは通りのほうへ耳を向けていた。台の上には、煮込み用の骨付きと、吊るした腸詰の列がまだ残っている。
石畳を叩く乾いた音が近づいてきたのは、台の上の日差しが少し傾きはじめたころだった。トマス爺は杖に体を預け、一歩ごとに足の置き場を確かめるようにして歩いてくる。右の膝をかばうせいで、左の肩がわずかに下がっていた。夏の終わりに比べると、その傾きが少しだけ深くなったように、バルトには見えた。
「今週も、来られましたね」
「来るとも。わしが来なかったら、包みが一つ余って、お前さんが困るだろう」
爺はいつかの自分の冗談を持ち出して、杖を台の端に立て掛けた。懐から硬貨を出し、一枚ずつ台に並べていく。節の曲がった指は硬貨をつまむのに手間取り、一枚が縁のほうへ転がりかけた。バルトはそれを指先で止めて、爺の手もとへそっと押し戻した。
今週の包みは、豚の肋の骨付きだった。朝のうちに脂の少ないところを選び、年寄りの小鍋にも収まる大きさに切り分けてある。爺は包みを受け取ると、台の上でいったん両手に挟み、角の向きを確かめてから胸へ引き寄せた。紙を潰さず、それでいて取り落とさない力の加減を、曲がった指が一本ずつ探っているようだった。
包みを抱え終えると、爺は片足を少し持ち上げて、バルトに靴を見せた。
「見ろ。三十年前に、わしが自分で縫った靴だ。底はもう四度、向かいの靴直しの若いのに張り替えさせたがな。上の革は、縫ったときのままだ」
バルトは身を屈めて、爺の靴に目を寄せた。甲の革は飴色の艶を帯び、縫い目は爪先から踵まで、同じ幅で一本の狂いもなく続いている。三十年履かれても、糸は一か所もほつれていなかった。手が覚えた仕事は、手が動かなくなったあとも、こうして形だけは残るものらしい。
「縫い目が、まだきれいに揃ってますね」
「分かるか。さすがに肉屋は、継ぎ目を見る目がある」
爺は皺の奥の目を細め、それから自分の指を見下ろした。
「この指じゃ、もう錐が握れん。針を通そうとすると、指のほうが先に言うことを聞かなくなる。縫えなくなった靴屋なんぞ、ただの年寄りだ」
笑いながら言ったが、声の終わりだけが少し低かった。バルトは何も足さずに頷いた。慰めの言葉を探すより、話の続きを待つほうがこの人には合っていると、毎週この台の前で聞いてきた耳が知っていた。
「うちの婆さんが生きてたころは、肉を買いに来るのは婆さんの役目だった。お前さんの親父さんの台でな。覚えちゃいないだろう」
「覚えてますよ。籠の持ち手に、いつも布を巻いておられた」
爺は驚いたように眉を上げ、それから声を立てて笑った。布は、持ち手のささくれで婆さんが指を刺さないよう、爺が巻いてやったものだという。婆さんが逝って、この冬で七度目になる。それ以来、金曜の買い物は爺の仕事になった。
「家に帰っても、話し相手は竈くらいのもんだ。戸を叩く者もおらん。叩くのは、夜の風だけだ。婆さんの声がせんと、家ってのは広いもんだな」
バルトは爺の話を最後まで聞き、寒くなる前に戸の隙間へ布を詰めておくといいですよ、と言った。冬の隙間風は、膝にいちばん堪えるからだ。爺は、婆さんにも同じことを言われた、と嬉しそうに頷いた。体を案じる言葉は、バルトの口から本心のまま出ていた。
その同じ頭の片隅で、帳簿の一行が静かに書き足されていく。身寄りはなく、訪ねてくる者もいない。戸口の椅子が引っ込んだままでも、路地の誰も日数を数えはしないだろう。いつだったか、爺は冗談めかして言った。自分がいなくなっても、気づくのはこの店くらいだと。それはつまり、最初に気づくのが、バルト自身だということだった。
初めての相手からは、まず一頭だけ買って肉を確かめろ。父はそう言って、新しい仕入れ先と大口の取引をしたことがなかった。どれほどの波が立つかを確かめるなら、まずはいちばん小さな石から投げればいい。町じゅうを見渡しても、この人ほど小さな波で済む相手は、ほかになかった。
決めた、という手応えは、仕入れ先を一つ選んだときと変わらなかった。胸の内には何の波も立たず、目の前では、爺が包みを抱えたまま嬉しそうに笑っている。その笑顔を見て親切にしたいと思う気持ちも、帳簿に書き足した一行も、バルトの中では少しも食い違わずに並んでいた。
◆
爺が杖を取り直すのを見て、バルトは裏口から荷車を引き出した。
「ちょうど配達に出るところです。お宅の前まで、ご一緒しましょう」
「年寄りの足に合わせとったら、日が暮れるぞ」
「今日は、急ぐ包みがないんです」
それは本当のことだった。籠の中身は、夕方までに届ければいい煮込み用ばかりだった。バルトは荷車を路地の口に置き、爺の杖の音に合わせて、ゆっくりと歩いた。
路地へ折れたところで、爺は杖の先で自分の家のほうを指した。戸口の前に、昼のあいだ出しておく椅子が一つ置いてある。あの椅子もわしが作ったのだ、と爺は言った。脚が一本だけ短くて、婆さんがよく文句を言っていたという。今では、その短い脚の下に平たい石を一枚かませてあるらしい。文句を言う相手がいなくなったことを、爺は石の話と同じ調子で笑った。
隣の路地は、市場通りから一本入っただけなのに、話し声がふっと遠くなる。両側の軒が迫り、石畳の継ぎ目には、踏まれずに残った苔が細く筋を引いていた。爺の家は路地の奥から二軒目で、戸の右手に窓が一つきりあり、板戸が半分だけ閉じていた。バルトはそれを、爺の歩みに合わせて足を止めたあいだに見て、すぐに爺の足もとへ目を戻した。
椅子の前まで来ると、爺は包みを膝に置くようにして、ゆっくりと腰を下ろした。肩で二度ほど息を整え、杖を椅子の背に立て掛ける。路地の上に細く切り取られた空を、鳥が一羽横切っていった。
バルトは爺の前に立ち、何でもない調子で切り出した。
「来週のことなんですが。秋に入ってから、昼過ぎは配達で店を空けることが増えましてね。来週の金曜は、店を閉めたあとに来ていただけませんか。いい骨付きを取っておきます」
「閉めたあとか」
爺は少し考えるように顎を撫でた。バルトは急かさずに待った。肉を載せた秤の針が止まるまで、手を出さずに見ているときと同じ待ち方だった。
「夜に人から呼ばれるのは、婆さんに呼び出されて以来だな。あのときは、靴を三度も磨き直して行った」
「では、来週もその靴で」
「おう。いちばん上等のを履いていく。もっとも、上等なのはこれ一足きりだがな」
爺は自分の足もとを見下ろして、愉快そうに笑った。なぜ夜なのかとも、配達がそんなに忙しいのかとも、訊こうとはしなかった。皺の奥の目には、来週の包みを楽しみにする色しか浮かんでいない。バルトはその顔を、包みの結び目がほどけていないか確かめるときのように、もう一度だけ見た。
閉店の時刻を告げると、爺は指を折って何かを数え、それから頷いた。
「暗くなると足もとが怪しいが、なに、通い慣れた道だ。杖で二十も突けば、お前さんの店に着く」
「戸口の明かりは、点けておきます」
「ありがたい。お前さんは、親父さんよりよほど気が利く」
爺は膝の上の包みを、両手でもう一度抱え直した。日の傾いた路地で、曲がった指が紙の角を撫でている。バルトは会釈をして踵を返し、路地の口に置いた荷車のほうへ歩き出した。柄に手を掛けたところで、背中に、杖が石畳を一つ叩く音が届いた。
振り返ると、爺は椅子に座ったまま、杖を持ち上げてみせていた。
「それじゃ、肉屋の旦那。次の金曜の夜に」




