第41話 目利き
秋口になると、町の台所では煮込みの鍋が増え、配達の注文もそれにつれて増えていく。昼の鐘が鳴って客足が途切れると、バルトは裏口から手押しの荷車を引き出し、得意先ごとに分けた包みを籠に詰めて積み込んだ。坂の下の酒場へは腸詰と塩漬け、足の弱った年寄りの家々へは煮込み用の骨付き、駐在所へはいつもの塩漬けを届ける。父の代から変わらない順路で、目をつぶっていても回れる道だった。
市場通りの石畳は、車輪が継ぎ目を一つ越えるたびに、柄を握る手へ細かな揺れを返してくる。籠の中で包み同士が擦れ合い、乾いた紙の音を立てた。坂を下りはじめると荷の重みが前へかかり、バルトは腰を落として柄を引き戻す。いつもと同じ重さをいつもと同じ手で受け止めながら、この数日、目だけが、いつもとは違うところを見ていた。
洗濯屋の前を通りかかると、軒先で布を広げていた女房が顔を上げた。
「あら、バルトさん。うちの人の膝ね、今日は少しましなのよ」
「それはよかった。脛の煮込みが効いたかな」
「薬より効くって、本人は言ってるわ」
バルトは笑って頭を下げ、また荷車を押した。女房の愚痴は雨の前に長くなり、晴れた日には亭主の話が短くなる。そんなことまで覚えている自分を、今さら不思議とも思わなかった。
坂の下の酒場では、主人が昼から樽を転がしていて、腸詰の包みを受け取るなり、今夜の肴が決まったと笑った。店の奥の隅では、ベン爺がもう赤い顔で杯を抱えている。バルトが会釈すると、ベン爺は杯を持ち上げて応え、隣の客にまた足跡の話を始めた。
店の台の前に立っているあいだ、町は向こうからやって来る。配達の道では、こちらから町の中へ入っていくことになる。どの家の戸がいつ開き、どの窓が日の高いうちも閉じたままなのか。誰がどの角で立ち話をし、誰が誰の帰りを待っているのか。荷車の揺れに合わせて、バルトはそれを一つずつ、頭の中の帳簿に書き入れていった。
紙には、何も書かなかった。仕入れ帳なら店の奥の棚にあるが、この帳簿だけは、どこにも書き残すつもりはない。肉の目方を手に載せて言い当てるのに秤が要らないのと同じで、慣れた目には、頭の中の台に並べておくだけで足りた。並べた品は、毎日少しずつ置き直していけばいい。
配達を終えて坂を上るころ、学校帰りの子供たちの声が、坂の下から追いついてくる。ひとかたまりだった声は広場の角で二つに分かれ、川べりへ下りる細い道で、またいくつか減った。土手で石を投げてから帰る子もいれば、まっすぐ家の戸口へ駆け込む子もいる。その中にヨナの背中を見つけると、バルトは視線をそっと先へ移した。そこは、帳簿に載せない場所だった。
年寄りの一日は、子供の一日よりずっと形が決まっている。トマス爺は日の高いうちだけ、隣の路地の戸口の前に椅子を出して座り、日が傾くと椅子ごと中へ引っ込む。ベン爺は昼の鐘を合図に坂の下の酒場の戸をくぐり、夕方、来たときより大きく揺れる足取りで同じ路地へ帰っていく。二人とも、その道を、いつも一人で歩いていた。
町には、人の目がよく届く場所と、届きにくい場所がある。広場の裏には材木を積んだまま何年も放っておかれた空き地があり、夕方になると、市場通りの話し声もそこまでは届かない。川べりの土手は、昼は洗濯の女たちで賑わうが、日が傾けば人影が絶える。バルトはそうした場所を、作業場の窓から差す日が棚のどこまで届き、どこが一日じゅう陰になるかを見分けるときと同じ目で眺めた。
帳簿には、もう一つの欄があった。誰がいなくなれば、誰が気づくのか。ある家の戸が丸一日閉じていても、通りの誰も振り向かない。別の家では、夕飯どきに子供が一人戻らないだけで、隣近所の戸が一斉に開くだろう。同じ一つの不在でも、町に立つ波の大きさは、まるで違うはずだった。
配達の道は、三日のあいだ同じ順に回った。包みを渡し、代金を受け取り、礼を言われて、礼を返す。愛想は作ったものではなかった。年寄りが戸口で包みを抱え直すのを見れば、体を案じる言葉は本心から口をついて出る。その同じ目が、相手の戸口の前の石段の数まで覚えていくことに、バルトは何の引っかかりも感じなかった。
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四日目は、洗濯屋の女房の話がいつもより長引いた。その配達の帰り、市場通りの中ほどで、巡回のジルと行き合った。制服の右の袖口は相変わらず白く擦り切れ、腰の剣が、歩くたびに小さく揺れている。この三日、ジルとすれ違ったのは、いつも坂の上のほうの同じ角で、同じ時刻だった。
「バルトさん、配達ですか。今日は、いつもの角で会いませんでしたね」
「洗濯屋の女房に捕まってな」
「ああ、膝の話ですね。あれは長い」
ジルは真面目な顔で頷いた。ほんのわずかな遅れを、この隊員の足はちゃんと数えていたらしい。
「巡回は、いつも同じ道なのか」
「分隊長に、鐘と一緒に回れと言われているので。昼の鐘で駐在所を出て、診療所の前で折り返して、川べりを回って、次の鐘までに戻るんです」
「早く戻ると、どうなる」
「怒られます。暇なのが町に知れるから、だそうです」
ジルが大真面目に言うので、バルトは声を立てて笑った。ジルも照れたように笑い、敬礼の真似をして坂を上っていく。規則正しい足音が遠ざかるのを聞きながら、バルトは今の言葉を、頭の中の帳簿の端に書き写した。鐘から鐘までのあいだ、ジルの足がどこにあるのか。そして、その足が町の小さなずれを決して見落とさないこと。
入れ替わるように、坂の上から痩せた影が下りてきた。白衣の上に薄い上着を羽織り、往診の鞄を提げた幼なじみのカイが、眼鏡を指で押し上げてこちらを見る。袖口から、薬草の匂いがかすかに流れてきた。この数日で分かったことだが、週に二度、昼過ぎに坂の下の寝たきりの年寄りの家々を回るのが、カイの往診の道だった。
「配達か。お前が荷車を押していると、親父さんが歩いているのかと思う」
「親父のほうが、坂を下りるのは速かった」
「たまには顔を見せろと言ったのに、会うのはいつも道の上だな」
カイは笑って、籠の中の包みにちらりと目を落とした。眼鏡の奥の目が、包みから柄を握るバルトの手へ移り、すぐに戻る。それきり何も言わず、カイは鞄を提げ直して坂を下りていった。往診の道は、配達の道と坂の途中で重なり、坂の下で二手に分かれる。
ジルの巡回と、カイの往診。二つの道を頭の中の町に重ねてみると、自分の配達路と交わる場所と時刻が、くっきりと浮かび上がった。そこでは、自分は見られる。見られていいのは、いつもと同じ時刻に、いつもと同じ荷車を押している肉屋の姿だけだ。二人の道がどちらも届かない場所と時刻は、帳簿の余白に、いくつか残った。
それにしても、とバルトは荷車を押しながら思った。この四日間、行き合った誰もが天気の話をし、膝の話をし、鍋の話をした。けれど、誰それを今日は見かけないね、と口にした者は一人もいなかった。ジルの足を除けば、町の誰も、他人の「いつもの一日」を気にしていない。それは、波紋が小さいということだった。
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その晩、戸板を立てたあとの帳場で、ミーナが今日の売り上げを数え直していた。配達の代金を合わせると、数字は昨日よりわずかに多い。秋の鍋のおかげね、とミーナは満足そうに言い、帳面の最後の行の下に、まっすぐな線を一本引いた。
バルトはその手もとを、横から黙って眺めていた。線を引けば、その日の帳尻はそこで閉じる。頭の中の帳簿のほうは、まだ閉じる気になれなかった。どの品にも目方の見当は付いたが、何を仕入れるかは、まだ決めていない。
バルトは帳場を離れて店の表へ出ると、戸板の閂を確かめた。閂は、昨日と同じ重さで、昨日と同じ場所に掛かっていた。




