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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
精肉屋編

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第40話 切ったことのないもの

 走狼の骨の形を指が覚えたのは、やはり三日目の朝だった。肩の継ぎ目がどこに隠れているかを手が先に知ってしまうと、頭はまた黙って後ろへ下がり、作業場には桶の水の音だけが戻ってきた。ところが、あの夜に浮かんだ言葉だけは、指先の熱と一緒には消えてくれなかった。


 月が替わり、朝の桶の水が指にしみるようになっても、その言葉は頭の隅に吊るされたままだった。店を閉め、子供たちが寝ついてから作業場へ下りるのが、いつのまにか毎晩の習いになっている。明日の仕込みに要る分より長く刃を研ぐ理由を、ミーナには訊かれなかった。訊かれたら、刃の手入れだと答えただろう。それは嘘ではない。


 その夜も、バルトはランプに火を入れ、砥石(といし)を桶の水に浸した。裏口の戸の隙間から、乾いた落ち葉が一枚、石の床へ吹き込んでくる。刃を砥石に寝かせ、指二本で押さえて前へ送り、手前へ戻す。しゃり、しゃりと同じ音が同じ間隔で続くあいだ、頭は手の仕事から離れて、好きなところへ行くことができた。


 仕入れのときと同じで、考えにも目利きが要る。バルトは頭の中に台を一つ据え、この数日に浮かんだ考えを端から並べてみた。王都から珍しい魔物を取り寄せる。ロウに頼んで、まだ誰も持ち込んだことのない獣を狩らせる。どれも並べたそばから脂の色が悪く、ミーナが見たら、帳面に書く前に台から下げさせるような品ばかりだった。


 珍しい獣は、珍しいだけだ。走狼の夜がそうだったように、骨の形は三日で指に入り、四日目にはまた何も残らない。台の端から端まで眺めて、バルトは研ぐ手を止めずに、考えを一つずつ下げていった。最後に残ったのは、台の上の品ではなく、刃を押さえている自分の手のほうだった。


 研ぎ終えた包丁を台に置き、バルトは左手の指で右の手首をつかんだ。掌(てのひら)を返し、指を曲げ、また伸ばす。皮膚の下で骨が動き、どこで止まり、どこまで曲がるのかが、押さえた指の腹に伝わってくる。親指の付け根を探ると、古傷の白い痕のすぐ奥に、継ぎ目が一つ、思ったとおりの場所にあった。


 継ぎ目は同じ場所にある。鶏でも牛でもそれは変わらないと、ヨナに教えたのは自分だった。豚の肩も、角猪(つのいのしし)の脚も、指で探れば刃の入る場所はそこにある。それなら、この手首にも。


 人間を、切ったらどうなるのだろう。


 言葉にしてしまうと、それは驚くほど静かに頭の中へ収まった。研ぎ上げた刃が鞘(さや)に戻るように、どこにも引っかからない。バルトは手首を放し、桶の水面に映るランプの火を見下ろした。胸の内をいくら探しても、それをやっていいのかという問いは、どこからも出てこなかった。


 代わりに浮かんだのは、翌朝のことだった。いつもの時刻に戸板を外し、いつものように台に肉を並べたとき、町はどんな顔をしているのか。誰がいなくなったことに誰が気づき、市場通りの話し声はどう変わるのか。切る手の感触よりも先に、そちらのほうへ考えが流れていく自分に、バルトは少し遅れて気づいた。


 濡れた砥石の端から、雫(しずく)が一つ、桶へ落ちた。小さな輪が水面に生まれ、縁へ向かって広がり、桶の板に当たって消える。バルトはその輪の行方を、最後まで目で追っていた。石を投げたのは自分なのに、知りたいのは石の重さではなく、輪がどこまで届くかのほうだった。


 刃を入れたものは、変わる。牛は枝肉(えだにく)になり、腸詰(ちょうづめ)になり、町の誰かの鍋で煮えて、その家の夕餉(ゆうげ)になる。毎朝この手が切ったものは、毎日いくらかずつ町を変えてきたはずだった。けれど、その変わり方はとうに決まっていて、誰も気に留めはしない。


 自分の行いが、どれだけ人に影響を与えるのか。それを、知りたかった。父から継いだ台の前で十年あまり同じ肉を切り、同じ包みを渡してきて、初めて手より先に頭が欲しがったものが、それだった。


 熟成と同じだと、バルトは思った。腸詰は詰めてすぐには台に出さない。吊るして風に当て、水気を抜き、味が締まるまで日を待つ。この数日、頭の隅に吊るしておいた言葉も、今夜ようやく売り物の形になったのだろう。ランプの芯を少し下げると、作業場の影が一段濃くなった。


◆


 ランプを手に階段を上がると、二階はもう寝息で満ちていた。食卓の椅子は四つとも押し込まれ、窓の外の市場通りでは、向かいの家々の明かりがほとんど落ちている。奥の部屋の戸を少しだけ開け、バルトは火を手で覆いながら中を覗いた。


 ヨナは壁のほうへ寝返りを打ち、掛け布を半分ほど蹴り落としていた。上着の肘には、ミーナが繕った跡が小さく残っている。隣の寝台ではピアが布の人形を顎の下に抱え込み、口を少し開けて眠っていた。人形の刺繍(ししゅう)の目は、相変わらず少し右に寄っていた。


 バルトは足音を立てずに近づき、ヨナの掛け布を肩まで引き上げた。寝息は規則正しく、指の先で触れた頬(ほお)は温かい。この子は昨日も、骨の外し方の続きを訊きたそうな顔をしていた。手がもう少し大きくなったら包丁を持たせてやると約束したのは、つい先月のことだ。


 ピアの腕から人形が滑り落ちかけていたので、そっと拾って胸元へ戻してやる。ピアは目を閉じたまま人形を抱き直し、ちょうど五百、と寝言で呟(つぶや)いた。夢の中でも、店は繁盛しているらしい。


 この部屋のものには、刃は入れない。考えるまでもなかったが、バルトはそれを、仕入れ帳の数字を確かめるときと同じ手つきで確かめた。家族を損なえば、この家の朝が崩れる。ミーナの帳面の線も、階段を駆け下りる足音も、食卓の湯気も、すべて帳尻が合わなくなる。それは大きな損だった。


 損、と胸の内で口にしてから、バルトはわずかに眉を寄せた。子供の寝顔を前にして、自分は損得を数えている。そのことに、少しだけ気づいた。けれど気づいたところで、数えた答えが変わるわけではない。数え方がどうであれ、この部屋には刃を入れない。それで十分だった。


 それに、家はただ守るためだけのものではない。桶の水が静かでなければ、雫の輪は見えない。毎朝同じ時刻に戸板を外し、同じ顔でいらっしゃいと言い、同じ食卓に同じ鶏が上る。その変わらなさがあるから、変わったものの大きさが分かるのだ。


 家は日常だ。日常があるから、日常でないものが測れる。


 ヨナもピアも、水面の側に置く。バルトはそう決めて、戸を音のしないように閉めた。夫婦の部屋ではミーナが壁際で静かな息を立てていて、バルトが隣に横になっても目を覚まさなかった。目を閉じると、すぐに眠りが来た。こんなに早く眠れたのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


◆


 翌朝も、バルトはいつもの時刻に戸板を外した。向かいの靴直しの店から木槌の音が聞こえ始め、市場通りの石畳に、少しずつ朝の光が差してくる。台に塊肉を並べ、鉤(かぎ)に腸詰を掛けていく手順は、昨日の朝と何ひとつ変わらなかった。


 洗濯屋の女房が籠(かご)を提(さ)げて坂を下りていく。どこかの荷車が石畳を鳴らし、広場のほうから誰かの笑い声が上ってくる。おはよう、バルトさんと声をかけられるたびに、バルトはいつもと同じ顔で挨拶を返した。愛想は作ったものではなく、昨日までと同じように、本心から出ていた。


 ただ、目に入るものの並び方だけが、昨日とは違っていた。坂を上ってくる足取りも、軒先で話し込む声も、日が高くなっても戸を閉ざしたままの窓も、気づけば一つずつ目方を量るように見ている。荷車の荷を下ろす前に、脂の色と身の締まりを確かめるときの目と、それはよく似ていた。


 やると決めた翌日から、町の景色は、仕入れ先のように見え始めた。


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