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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
精肉屋編

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第39話 魔物肉の日

 月の終わりの昼下がりには、藁(わら)と獣の匂いを積んだ荷車が、市場通りの坂を上ってくる。森で魔物を狩る冒険者のロウが、獲物を売りに来るのだ。昼の鐘のあと客足が途切れ、台の上に日が斜めに差し始めるころ、店の前で車輪の音が止まった。バルトは包丁を置いて手を拭き、前掛けの紐を締め直してから表へ出た。


 ロウは三十をいくつか過ぎた男で、日に焼けた腕に古い引っかき傷を何本も残している。革の胴着は脇の縫い目だけが新しく、繕いながら長く着ているのが分かった。腰の帯には、墨で印を書いた細い白布が一枚、結びつけてある。魔物狩りの依頼を受けた者が下げる討伐札で、依頼の出た森の入口にも同じ印の布を結んだ杭が立つのだと、前にロウから聞いたことがあった。


「よう、肉屋。今月は二頭だ。片方は、ちょっと珍しいぞ」


 ロウが荷台の蓆(むしろ)をめくると、皮を剥いで腹を抜いた枝肉(えだにく)が二つ、藁の上に並んでいた。一つは見慣れた角猪(つのいのしし)で、もう一つは、それより細長く脚の長い獣だった。肩の肉は盛り上がり、胴は締まって、腰に向かって急に細くなっている。首の付け根には、剥ぎ残したらしい灰色の毛が、ひと房だけ貼りついていた。


「走狼(そうろう)ですか」


「森の奥から、群れをはぐれて下りてきた一頭だ。角猪を追ってたら、途中から向こうが俺を追ってきた」


 ロウは笑いながら、腕の引っかき傷の一本を指でなぞってみせた。バルトは荷台に身を乗り出し、二つの枝肉を見比べた。角猪の脂は黄色く厚く、指で押すとゆっくり沈み、ゆっくり戻ってくる。走狼のほうは脂がほとんどなく、白い薄膜の下の赤身が、押した指を硬く押し返してきた。


 同じ角猪でも、肉は一頭ごとにまるで違う。木の実の多い森で育ったものは脂が甘く、岩場を走り回ったものは筋ばかりが太くなる。家畜のように同じ柵で同じ餌を食べて育つわけではないから、魔物の肉は、脂の色も身の締まりも一頭ずつばらばらだった。切り分けて台に並べてしまえば、どこの森の何の肉なのか、目利きの肉屋でも見ただけで言い当てるのは難しい。


「角猪は、先月のより脂が乗ってますね。煮込みに回せば喜ばれます」


「走狼は」


「丸ごと預かるのは、初めてです。どう捌(さば)くかは、骨の付き方を見てからですね」


「頭は落としてきた。牙は討伐の証に要るし、見ると客が逃げるだろう」


 二人で枝肉を担いで裏へ回り、作業場の鉤(かぎ)に吊るして秤(はかり)で目方を量った。目方で値を決めるのはいつもの手順で、ロウは数字に文句をつけたことがない。帳場から出てきたミーナが硬貨を数えて渡すと、ロウは受け取りながら、吊るされた走狼を顎で示した。


「走狼の肉は精がつくぞ。食えば、夜道で獣に吠えられても平気になるそうだ」


「この町の夜道で吠えるのは、駐在所の犬くらいですよ」


 ミーナは涼しい顔で帳場へ戻っていき、ロウは肩をすくめて笑った。それから壁に並んだ包丁と骨すきを、端から一本ずつ眺めていく。研ぎ減りした刃の幅まで確かめるような、仕事人の目だった。


「あんたのところに持ち込むと、話が早くて助かる。魔物と聞いただけで、値を半分に叩く肉屋もいるからな」


 ロウは走狼の肩のあたりを、拳の背で軽く叩いた。


「こいつも、うまく捌いてくれ。あんた、何でも切れるだろう」


「ええ、大抵のものは」


「大抵、か」


 ロウは喉の奥で短く笑い、何がおかしいのかは言わないまま、荷車のほうへ出ていった。店の表まで見送ると、腰の白布が、坂を下りていく足取りに合わせて小さく揺れていた。作業場へ戻ったバルトは、鉤の上の走狼を見上げた。長い前脚が、吊るされた重みで、わずかに開いていた。


 その日の残りの客は、見慣れた顔ぶれで、見慣れた肉を買っていった。バルトもふだんどおりに包みを渡したが、台が空くたびに、目は作業場の戸口のほうへ向いた。


◆


 その夜、子供たちが寝ついたのを確かめてから、バルトは一人で作業場へ下りた。走狼の骨を見ておきたいと言うと、ミーナは呆(あき)れたように笑って、灯の油を足してくれた。火を入れると、梁(はり)から下がった走狼の影が、石の床に細長く伸びる。昼の熱はとうに抜け、足元から冷えが這(は)い上がってきた。


 バルトは砥石(といし)を桶の水に浸し、いつもより長く刃を研いだ。研ぎ終えた包丁を灯にかざし、刃先の線に曇りが一つもないことを確かめる。家畜を切る前に、そこまで念を入れたことはなかった。


 鉤から走狼を下ろし、台の上に横たえる。家畜なら、前脚の付け根に指を当てれば、刃を入れる継ぎ目はそこにある。ところが走狼の肩は、指で探っても、あるはずの場所に継ぎ目が見つからなかった。肩の骨は胴と固くつながっておらず、厚い肉の中に浮かぶようにして、思っていたよりずっと後ろに収まっている。


 バルトは包丁を置き、両手で前脚をゆっくり回してみた。肉の奥で骨が動き、どこで止まり、どこまで曲がるのかが、掌(てのひら)に少しずつ伝わってくる。走るための脚なのだと分かった。角猪のように突き進むためではなく、獲物を長く追い続けるために、骨の一本一本がしなやかに組まれている。


 当たりをつけて包丁を入れると、刃先が一度、硬いものに触れた。手首に小さな衝撃が返り、刃はそこで止まる。骨に刃を当てたのが何年ぶりなのか、バルトには思い出せなかった。いったん引いて指で継ぎ目を探り直し、もう一度入れると、今度は骨が肉から離れる手応えが、柄を握る指の腹にまっすぐ届いた。


 背骨に沿って刃を進め、肋(あばら)を一本ずつ外していくあいだ、バルトは一度も手を止めなかった。いつもなら手が先に動き、頭はその後ろから黙ってついてくる。今夜は、頭のほうが先にいた。次の継ぎ目はどこにあるのか、この骨はなぜこの形をしているのかと、問いが次々に湧いて、手がそれを追いかけていた。


 気づけば、作業場の冷えをまるで感じなくなっていた。首筋にはうっすらと汗が浮き、柄を握る指先が熱い。最後の骨を外して身を起こすと、腰がかすかに軋(きし)み、そこで初めて、どれほど長く台に屈(かが)み込んでいたのかが分かった。灯の油は、半分ほどに減っていた。


 外した骨は桶に移し、水で洗った。魔物の骨は、乾かしてから砕いて粉にし、近在の農家へ畑の肥やしとして出すのが、父の代からの習いだ。作業場の隅の棚には口を縛った骨粉の袋が並び、その数は仕入れ帳の端に必ず書き添えてある。走狼の骨は角猪のものより細く白く、桶の底で軽い音を立てた。


 この熱が長くは続かないことを、バルトは知っていた。初めて父の横で角猪の皮を剥いだ日にも、指先は今夜と同じように熱かった。その熱は三日ともたず、四日目の朝には、頭はもう手の後ろへ下がっていた。走狼も、きっと同じだろう。三日もすれば、この骨の形は指が覚え、考えることは何も残らなくなる。


 牛も、豚も、羊も、角猪も。そして今夜、走狼も。バルトは桶の中の骨を見下ろしながら、これまで刃を入れてきたものを、胸の内で一つずつ数えた。数え終えるのに、指はいくらも要らなかった。


 切ったことのないもの。


 その言葉が、頭の中に初めて形を持って浮かんだ。誰に教わったのでもなく、研ぎ上げた刃先に灯の光が一点だけとどまるように、ただそこにあった。


 バルトは台の前に立ったまま、自分の両手を灯にかざした。指は太く、掌は厚く、骨の継ぎ目を探る指の腹だけが、ほかよりわずかに硬い。この手が、まだ刃を入れていないもの。あとは、何が残っている。答えは浮かばず、浮かばないことが、かえって指先の熱を引き留めていた。


 灯を吹き消すと、闇の奥で窓だけが四角く浮かび上がった。裏庭の塀の向こうに、町の家々の灯が見える。夜はまだ浅く、灯は、いくつも残っていた。


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