第38話 店先の顔ぶれ
金曜の朝、バルト肉店の戸板が外されるのは、向かいの靴直しの店から木槌の音が聞こえ始めるのと、ほとんど同じころだった。仕込みを終えた塊肉を台に並べ、鉤に腸詰を掛け終えるあいだに、市場通りの石畳には少しずつ朝の光が差してくる。その日差しが台の縁まで届くと、決まって向かいの戸が開き、小さな影が一つ、通りを斜めに渡ってくるのだった。
靴直しの息子のリオは、八つになる。台の縁から目と鼻がようやく覗くくらいの背丈で、一つ上のヨナより頭半分ほど低い。リオは台の前で足を止めると、何も言わずに両手を差し出した。毎朝のことなので、もう言葉は要らなかった。
バルトは腸詰用の鉢から、筋の少ない端肉をひとつかみ取り、油の染みにくい紙の上に広げた。紙の四隅を内側へ折り込み、掌で軽く押さえて平たく整える。子供の手でも抱えやすいよう、紐は掛けずに端を差し込むだけにするのが、いつのまにかこの子のための包み方になっていた。受け取ったリオは包みを胸の前で両手に挟み、そこでようやく口を開いた。
「母さんが、ありがとうって」
「リオの母さんの、ハンナさんによろしくな。今日のは、煮込むほど柔らかくなるところだ」
リオはこくりと頷き、来たときと同じように通りを斜めに渡って帰っていった。戸口で一度だけ振り返って手を振り、それから中へ消える。昨日も一昨日も、リオが台の前に立つのは、木槌が鳴り始めてから十も数えないうちのことだった。
ほどなく二階から階段を駆け下りる足音がして、ヨナが学校へ持っていく布袋を肩に掛け、店へ出てきた。その後ろから、寝癖のついた頭のピアが、布の人形を抱えて一段ずつ下りてくる。戸口の外ではもうラウが待っていて、ヨナの顔を見るなり、小さく咳をしてから手を上げた。走るなとカイに言われたのを守っているのか、今朝のラウは息を切らしていなかった。
「おはようございます、ヨナのお父さん」
「おはよう、ラウ。薬は、ちゃんと吸ってるか」
「朝と晩に一回ずつ。でも、湯気が目にしみるんだ」
ラウが顔をしかめてみせると、ヨナが声を立てて笑った。向かいの戸がもう一度開き、包みを置いてきたリオが布袋を下げて飛び出してくる。三人は肩を並べ、市場通りを坂の下のほうへ歩いていった。真ん中のヨナがいちばん背が高く、リオは二人の歩幅に遅れまいと、ときどき小走りになっていた。
子供たちの声が遠ざかると、入れ替わりに、粉屋の荷車が坂の上から石畳を鳴らして下ってきた。粉袋を積んだ荷台の後ろには、粉屋の娘のノナが腰掛けていて、粉で白くなった足をぶらぶらと揺らしている。ピアより一つ上の六つで、二人は互いを、自分のいちばんの友達だと言い張っていた。荷車が店の前で速さを落とすと、ノナは待ちきれずに荷台から飛び降りた。
「ノナ、昼の鐘が鳴ったら迎えに来るからな。肉屋さんの邪魔をするんじゃないぞ」
粉屋の親父は轅を握ったまま振り返ってそう言い、広場のほうへ荷を運んでいった。ノナはもう聞いていない。ピアの手を取って店の隅の木箱の前にしゃがみ込み、どちらが店の主人をやるかで、もう言い合いを始めていた。
「粉屋さんごっこにしようよ」
「粉屋さんは、切るところがないからつまらないの」
「肉屋さんだって、粉をふるうところがないもん」
帳場のミーナが筆を持ったまま肩を揺らし、台の前にいた洗濯屋の女房までが吹き出した。結局、二人は代わりばんこに主人をやることに決めたらしく、人形は昼までに三度、小石で何かを買わされた。女房は豚の背の包みを受け取りながら、感心したように二人を眺めた。
「バルトさんは、よくまあ子供の名前を全部覚えてるわね」
「毎日、顔を見ていますから」
バルトはそう答えて、包みの紐を結んだ。店の前を通る子供なら、名前も、どの家の子かも、たいてい知っている。背丈は台の縁を物差しにして覚えていて、どの子がどれだけ伸びたかも分かった。骨の継ぎ目を指が覚えたのと同じで、子供のころからこの台の前に立つうちに、ひとりでに身についたことだった。
◆
昼の鐘が鳴り、ノナが父親の荷車に拾われていくと、市場通りの客足はいったん途切れた。その静けさを待っていたかのように、杖の先が石畳を叩く音が、隣の路地のほうから近づいてくる。トマス爺が来るのは、金曜の午後と決まっていた。バルトは台の下から、朝のうちに分けておいた包みを取り出していた。
「約束どおり、いいところを取っておきましたよ。豚の首の、骨の周りです」
「おお、ありがたい。首は煮込むと、骨から勝手に外れてくれるからな」
トマス爺は懐から硬貨を数えて台に置き、杖を台の端に立て掛けた。曲がった指で包みの角をそっと撫で、胸の前に引き寄せて、取り落とさないよう両腕で抱え直す。目方はたいしてないはずだが、爺の腕にはいつも、それよりずっと重いものを抱えているような力がこもっていた。
包みを抱えたまま、爺は靴の話を始めた。四十年も前、町の荷運びの大男に頼まれて、底を三重に縫った長靴を作った話だ。向かいの若いのに縫い目を見せてやりたいが、大男はとうに死んで、長靴もどこへ行ったか分からない。先週も、その前の週も、同じ台の前で聞いた話だった。バルトは頷きながら最後まで聞き、それは惜しいことをしましたね、と先週と同じ言葉を返した。
「わしの話を最後まで聞くのは、この町じゃお前さんくらいのもんだ」
爺は皺の奥の目を細め、杖を取り直した。
「家に帰っても、誰が来るわけでもない。わしがいなくなっても、気づくのはお前さんの店くらいだな。金曜に、包みが一つ余るから」
そう言って、爺は自分の冗談に声を立てて笑った。バルトも笑い、余った包みは来週まで取っておきますよ、と返す。爺はますます愉快そうに肩を揺らし、それでは損をさせるな、と言った。
そこへ、坂の下から酒の匂いが上ってきた。赤い顔をした、いつもの常連のベン爺が、昼間から酒場に寄ってきたらしく、少し大きく揺れる足取りで台の前に立つ。元は猟師で、日に焼けた首筋には、藪で裂いたという古い傷が何本も残っていた。ベン爺はトマス爺の肩を叩き、バルトのほうへ身を乗り出した。
「聞いてくれ、肉屋。今朝、森の入口で角猪の足跡を見つけた。前の爪がやけに深く沈んでてな、あれは腹に子を抱えた雌だ」
「足跡だけで、そこまで分かるんですか」
「分かるとも。足跡ひとつで、目方も、腹の減り具合も、いつごろ通ったかも分かる。三十年、森を見てきたんだ」
「その話は、先週も聞いた」
トマス爺が杖の先で石畳を突くと、ベン爺は心外そうに眉を上げた。先週のは雄の話だ、と言い返し、雄と雌の足跡の違いを指で台に描いてみせる。バルトはそれも最後まで聞き、ベン爺が酒の肴にと頼んだ腸詰を一本包んだ。二人の老人は並んで帰っていき、杖の音と揺れる足取りは、ちょうど同じくらいの遅さで隣の路地へ折れていった。
◆
日が傾き、台の上が空き始めたころ、バルトは桶に汲んだ水を店の前の石畳に撒いた。昼の埃を沈めておくのは父の代からの習いで、濡れた石は西日を受けて、しばらく鈍く光る。そこへ、学校から戻ってきた子供たちの声が、坂の下から駆け上がってきた。
ヨナとラウが先に立ち、少し遅れてリオが続く。三人は撒いたばかりの水の上を、わざと踏むようにして走り抜けた。ヨナは店の戸口へ飛び込み、ラウは手を振ってそのまま通りを上っていき、リオは斜めに渡って向かいの戸口へ消える。店の奥から出てきたピアが、兄の足跡を一つずつ踏み直して、得意げに振り返った。
バルトは空になった桶を提げたまま、石畳を見下ろした。大きさの違う小さな足跡が、濡れた石の上にいくつも重なって並んでいる。どれが誰のものかは、見ただけで分かった。向かいからは、今日最後の木槌の音が聞こえていた。
夕方の風が通りを抜けるたびに、足跡は縁のほうから白く乾き、一つ、また一つと、石の色の中へ消えていった。




