第37話 カイの診療所
市場通りの坂を上りきる少し手前に、干した薬草の束を軒に並べた診療所がある。ジルから伝言を聞いて四日目の昼、バルトは店をミーナに任せ、前掛けを外してその戸をくぐった。中は通りよりひんやりとしていて、乾いた葉と煮出した根の匂いが、壁にも床板にも染みついている。壁際の棚には栓をした小瓶が背丈の順に並び、どれにも細い字の札が下がっていた。
奥の机に向かっていた男が、背中を丸めたまま振り返った。机の上には薬研が置かれ、すり潰しかけの緑の葉が溝に溜まっている。カイは子供のころから痩せていたが、三十六になった今も、白衣の肩は骨の形が透けて見えそうなほど薄い。眼鏡を指で押し上げ、入ってきたのが誰かを確かめると、ようやく口の端をゆるめた。父親の跡を継いでこの机に座るようになってから何年になるのか、バルトは数えたことがない。
「本当に来たのか。ジルに頼んだのは、半分は冗談だったんだが」
「残りの半分は本気だったんだろう」
「まあな。座れよ。手を出せ、右だ」
言われるまま丸椅子に腰を下ろし、右手を机の上に置く。カイは椅子ごと向き直ってバルトの手を取り、窓の明かりのほうへ傾けた。指先は冷たく乾いていて、白衣の袖口から薬草の匂いがふっと立つ。親指の付け根に走る白い痕を、カイは爪の先で端から端までなぞっていった。
「親父の古い帳面を片づけていたら、お前の名前が出てきてな。肉屋の倅、右の親指、刃物。縫ったのは親父だ。十七のときだろう」
「そんなに前だったか」
「縫い目は、もうほとんど分からない。さすが親父だ。……気になったのは、傷の筋のほうだよ」
カイは痕の上で指を止め、眼鏡の奥の目を細めた。
「まっすぐなんだ。刃が滑って切った傷は、たいてい途中で曲がる。痛いと思った瞬間に、手が勝手に引くからな。お前のは、入ったところから抜けたところまで一本の線だ。迷いがない」
「引く暇がなかったんだろう」
「そうかもしれん」
カイはそれ以上何も言わず、棚から小さな壺を取って、痕の上に膏薬を薄く塗った。とうに治った傷に薬を塗る理由はないはずだが、医者の手は何かしていないと落ち着かないらしい。冷たい膏薬が皮膚に馴染んでいく感触を、バルトは黙って受け入れた。
刃が滑った朝のことは、今もよく覚えている。親指から台の上へ落ちていく血の雫を、バルトは痛みよりも先に、色で見ていた。自分の中身も、鉤に吊るした豚と同じ色をしている。そのことを、ひどく落ち着いた気持ちで確かめていたのだった。
戸の開く音に、乾いた咳が重なった。入ってきたのはヨナと同じくらいの背丈の男の子で、胸に手を当てたまま、浅い息を何度も吸い直している。カイは膏薬の壺を置いて立ち上がり、男の子の背中に掌を当てて、呼吸が落ち着くまで黙って待った。
「ラウ、走ってきたな。喘息は夏の終わりがいちばん出やすいと言っただろう」
「だって、昼休みが終わっちゃう」
ラウと呼ばれた子は、そこでようやく丸椅子のバルトに気づき、目を丸くした。
「ヨナのお父さんだ」
「ヨナと同じ組か」
「うん。ヨナがね、父さんは骨の場所が分かるんだって、学校で三回も言ったよ。三回目は先生に、もう分かったから座りなさいって言われてた」
バルトは思わず笑い、カイも眼鏡を外して目元を拭った。ミーナの言ったとおりになったと、今夜のうちに話してやらなければならない。
カイは小瓶から乾いた葉を量り、小さな紙の包みを三つ作ってラウに持たせた。朝と晩に一つずつ煎じて、立ちのぼる湯気をゆっくり吸うように。言い聞かせる声は、さっきバルトに向けたものよりずっと柔らかかった。ラウは包みを上着の物入れに押し込み、今度は走らないと約束して、それでも小走りに戸口を出ていった。
ラウの名前は、ヨナが学校から帰ると真っ先に口にする名前の一つだった。二人で川べりへ石を投げに行った話を、バルトも夕食の席で何度か聞いている。カイによれば、季節の変わり目が来るたびに、ああして一人で薬を取りに来るのだという。
入れ違いに、杖の先が床板を叩く音がした。白い眉の老人が戸の枠に片手を掛け、肩で息を整えている。元は靴職人だったトマス爺で、節の曲がった指は、長年革に針を通してきた名残だった。
「おや、肉屋の旦那が医者にかかるとは、珍しいこともあるもんだ」
「古傷を見せに来ただけですよ」
「わしは新しい傷ばかりでな。膝も、指も、毎朝どこかしら新しく痛む」
トマス爺は壁際の長椅子に、ゆっくりと腰を沈めた。カイが関節の薬を棚から下ろし、朝晩二回です、痛む日だけ飲むんじゃなくて、と念を押す。分かっとる、分かっとる、と爺は手を振った。同じやり取りを、二人はもう何度も繰り返しているらしかった。
薬の包みを膝に載せたまま、爺は金曜に買っていく端肉の話をした。先週の脛は柔らかかった、煮込んだら骨から肉がほどけた、と。今週もいいところを取っておくとバルトが言うと、爺は皺の奥の目を細め、杖の頭を両手で包んだ。
◆
杖の音が通りの向こうへ遠ざかると、診療所はまた薬草の匂いと静けさだけになった。カイは机の上の小瓶を棚へ戻しながら、背中を向けたまま口を開いた。
「なあ、覚えてるか。川べりで、鳥を拾ったときのこと」
「鳥?」
「九つか十のころだ。土手の草むらで、羽の色のきれいな小鳥が死んでた。俺は埋めてやろうと思って、手で穴を掘ってたんだ。そしたらお前が横から覗き込んで、真顔で言ったんだよ。中がどうなっているのか、知りたいって」
カイは振り返り、思い出し笑いをこらえるように眼鏡を押し上げた。
「俺は泣いたね。泣きながら穴を掘った。お前は不思議そうな顔で、泣いてる俺と鳥とを見比べてた。家に帰って親父に話したら、肉屋の倅らしいって大笑いされたよ」
「覚えてないな」
「薄情なやつだ。俺はいまだに、土手で小鳥を見かけるたびに思い出すってのに」
バルトは笑ってみせ、膏薬の残る親指を人差し指で軽く擦った。
本当は、覚えていた。掌に載せた小鳥は思っていたより軽く、羽の下にはまだかすかな温みが残っていた。カイがなぜ泣いているのか、あのときのバルトには分からなかった。悲しいとも、かわいそうだとも思わなかった。この小さな体のどこに骨があり、何がどう収まっているのかを、ただ知りたかっただけだ。結局、小鳥はカイの掘った浅い穴に寝かされ、二人で上から土をかぶせた。
「お前は昔からそうだった。犬に吠えられても、川で足を滑らせても、顔色ひとつ変えなかった」
カイは机の端に腰を預け、古い帳面を開いてバルトのほうへ向けた。色の褪せた墨で、肉屋の倅、右の親指、刃物、と書かれている。その下に、癖の強い父親の字で、短い一行が添えられていた。本人、泣かず。顔色変わらず。
「親父は、こういうことまで書き留める人でな」
カイは帳面を閉じ、少しだけ笑った。
「お前は、俺が知るかぎり、一度も怯えたことがないな」
責める声ではなかった。棚の奥から懐かしい玩具を見つけたときのような、穏やかな声だった。バルトは肩をすくめて笑い、そうかもしれないな、と答えた。カイも笑って、たまには顔を見せろ、と言った。
診療所を出ると、市場通りには昼下がりの日差しが白く落ちていた。坂を下りながら、バルトは何の気なしに、右の掌を自分の胸に当ててみた。牛の角が脇腹をかすめた朝も、氷の張った川に膝まで落ちた冬も、この掌の下で何かが跳ねた覚えはない。
怯えた記憶は、なかった。膏薬の匂いが残る掌の下で、心臓は坂を上ってきたときと変わらない速さのまま、規則正しく打ち続けていた。




