第36話 週に二度の客
ハルゼの騎士団駐在所に詰める隊員のうち、バルト肉店にいちばんよく顔を出すのは、ジルという三十になる騎士団員だった。週の初めと半ばの二度、昼の鐘が鳴るより少し前に、市場通りの石畳を規則正しい足音で上ってくる。その足音が店の前で止まると、帳場のミーナは顔も上げずに、腸詰を二本、と呟いて帳面に筆を下ろす。行商人が町を抜けていった翌日も、足音はいつもの刻限にやってきた。
台の前に立ったジルは、額に浮いた汗を手の甲で拭い、鉤に吊るされた腸詰の列を端から端まで眺めた。騎士団の制服は夏の日差しをよく吸うらしく、襟元が汗で色を濃くしている。右の袖口は糸がほつれて白っぽく擦り切れ、腰の剣の柄も、握りの革がすっかり艶を失っていた。巡回のたびに同じ場所が擦れるのだろうと、バルトは見るたびに思う。
「バルトさん、いつもの二本を。それと塩漬けも、いつもの厚さで」
「駐在所の分は、昼過ぎに届けるよ」
「助かります。駐在所のネッドが朝から、今日は肉の日だって騒いでて」
バルトは鉤から腸詰を二本外し、乾いた皮を指の腹でなぞった。張りに偏りがないのを確かめてから、油の染みにくい厚手の紙に二本を揃えて寝かせる。紙の端を折り込んで転がすように巻き、両端をひねって、最後に麻紐を一巻きだけ掛けた。台に身を乗り出してその手元を見ていたジルが、感心したように息を吐いた。
「何度見ても、その包み方だけは真似できません。私がやると、紐を結ぶ前に中身が逃げるんです」
「逃げる腸詰は、まだ若いんだ。うちのは、もう落ち着いてる」
ジルは声を立てて笑い、包みを受け取った。それから台に肘をつき、少しだけ声を落とした。
「ところで、何か変わったことはありませんか。見慣れない人がうろついていたとか、夜中に妙な物音がしたとか」
「強いて言えば、昨日の行商人の話くらいかな。王都の下水道には、顔のない女が出るそうだ」
「王都のことは、王都の騎士団に任せます」
ジルは真顔で首を振ると、肘をついたまま肩を落とした。
「正直に言うと、暇なんですよ。この町でいちばんの事件は、犬の迷子です。それも、この夏で三度目の同じ犬。昨日なんか、粉屋の荷車の車輪が外れた件で、日誌を一枚まるごと書きました。車輪がどっちへ転がったか、図まで描いて」
「粉屋も心強いだろう」
「オルド分隊長には、紙がもったいないと言われました」
帳場のミーナが、筆を持ったまま肩を揺らした。ジルは少しばつが悪そうに頭を掻いたが、目だけは通りのほうへ向けたままでいる。向かいの靴直しの戸は、昼前だというのに、まだ半分しか開いていなかった。
「靴直しの親父さん、今朝は遅いですね。昨日、しきりに膝をさすってたから、そのせいかな」
何気ない口調だったが、バルトは包み紙の束を揃える手を一瞬だけ止めた。この隊員は、暇を持て余して空回りすることはあっても、町の暮らしの小さなずれを見落とさない。どの店がいつ戸を開け、誰がどの道を通って帰るのか、巡回の足が自然と覚えてしまうのだろう。刃の角度を指が覚えているのと、たぶん同じことだった。
ジルは身を起こし、腸詰の列の奥の、まだ何も掛かっていない鉤のあたりを指さした。
「秋の熟成のは、いつごろから並びますか」
「秋口に仕込んで、三週間ほど乾かしてからだ。まだ少し先だな」
「じゃあ、その初物を一番に取っておいてください。予約です。ミーナさん、帳面に書いてもらえますか」
ミーナが笑いながら筆を走らせると、ジルは満足そうに頷き、包みを胸の前で抱え直した。
「バルトさんの腸詰を食わないと、一日が始まらないんですよ。朝に一切れ、薄く切ってパンに載せるんです。それがないと、どうも巡回の足が重くて」
「そいつは光栄だ。初物は、いちばん出来のいいのを残しておく」
バルトがそう返すと、ジルは嬉しそうに敬礼の真似をして、市場通りを広場のほうへ下っていった。規則正しい足音が遠ざかり、通りのざわめきに紛れて聞こえなくなる。ミーナは帳面の新しい一行を指でなぞり、熟成の初物、ジルさん、と小さく読み上げた。
◆
昼過ぎ、バルトは塩漬けの塊を三つ籠に詰め、布をかぶせて店を出た。駐在所は、市場通りを下りきった広場の脇に建っている。石を積んだ平屋で、戸口の上には騎士団の紋を彫った木の板が掛かっているが、その線は長年の雨に洗われて、ほとんど読めなくなっていた。戸口の脇の日陰では、茶色の毛の犬が一匹、縄につながれたまま腹を出して眠っていた。
中に入ると、机の向こうで年配の男が腰を浮かせかけ、すぐに顔をしかめて座り直した。分隊長のオルドだった。腰の後ろに手を当てたまま、すまんな、と片手を上げる。奥の窓辺では若いネッドが鍋を火にかける支度をしていて、籠を見るなり、待っていたとばかりに駆け寄ってきた。
「バルトさん、今日は角猪ですか、豚ですか」
「豚だ。分隊長の腰のことを考えて、脂の少ないところにしておいた」
オルドが、ありがたい、と渋い声で言った。この駐在所に詰めているのは、オルドとジル、それにネッドの三人きりだ。それで足りるほど、ハルゼの町は静かだった。奥の壁際には鉄の格子をはめた牢が一つあるが、オルドに言わせれば、最後に鍵を回したのは、酔って広場で寝込んだ男を一晩泊めてやったときだという。
バルトが籠の布を外し、塩漬けを机の端の板に並べていると、戸口が開いてジルが戻ってきた。巡回の途中で立ち寄ったらしく、額にはまた汗が浮いている。ネッドが塩漬けの端を早くも切り取って、戸口の犬に放ろうとしていたので、バルトは手を伸ばしてその手首を押さえた。
「犬に塩漬けはやめておけ。喉が渇いて、また逃げ出すぞ」
「逃げられたら、また私が日誌を書くことになります」
ジルが真面目な顔で言い、オルドが腰をさすりながら笑った。ジルは机の上の受け取りの帳面を引き寄せ、塩漬けの目方と数を一つずつ確かめてから、自分の名を書き入れた。店先で包みを抱えていたときとは違い、筆を運ぶ指に迷いはなく、字は角張って几帳面だった。書き終えると帳面を閉じ、ジルは背筋を伸ばしてバルトに向き直った。
「バルトさん。もし何か困ったことがあったら、いつでも言ってください」
そこで一度口を閉じ、ちらりとオルドのほうをうかがってから、言い直す。
「……困ったことがあれば、言ってくれ。町の人には頼もしく話せと、分隊長に言われているので」
バルトは笑い、ああ、と答えた。困ったこと、と言われて頭の中の棚をひととおり探してみたが、思い当たるものは一つもなかった。店の帳面は合っていて、子供たちは今朝も階段を駆け下りてきた。困るほどのことは、この町では何も起きない。目の前の三人は、それを毎日、自分の足で確かめて回っているのだった。
空になった籠を腕に掛けて駐在所を出ると、戸口の犬が薄目を開け、またすぐに閉じた。広場を横切り、市場通りを上り始めたところで、後ろから小走りの足音が追いついてきた。振り返ると、ジルが少し息を弾ませて立っていた。
「そういえば、言い忘れてました。診療所のカイ先生が、バルトさんに会いたがってましたよ」
「カイが?」
「ええ。私が塗り薬をもらいに寄ったら、手の傷を一度診せに来るよう伝えてくれ、と。幼なじみなんでしょう。先生、昔の話を何か言いかけて、結局やめてましたけど」
ジルはそれだけ言うと、巡回の続きがあるからと、また広場のほうへ駆け戻っていった。バルトは籠を左の腕に移し、空いた右手を目の前にかざしてみた。親指の付け根に、若いころ刃を滑らせた白い痕が一本、細く残っている。もう何年も、痛んだことはなかった。
市場通りの先には、干した薬草の束を軒に並べた診療所がある。最後にあの戸をくぐったのはいつだったかと、バルトは坂を上りながら考えた。季節を一つずつ遡ってみても、すぐには思い出せなかった。




