第35話 家の肉
バルト肉店の二階が、一家の住まいになっている。階段を上がってすぐの食卓には通りに面した窓が一つあり、夜になると、向かいの家々の灯がその窓に小さく映った。戸板の閂を確かめてから上がっていくと、昼のうちに仕込んでおいた鍋がもう台所で湯気を立てていて、先に上がった妻のミーナが木の匙で中身をゆっくりとかき混ぜていた。鶏と根菜を香草で煮込んだ、この家でいちばん出番の多い鍋だった。
店じまいの途中で階段を駆け下りてきた子供たちは、ミーナに追い立てられて、一足先に二階へ戻っていた。食卓の端では、ヨナが四人分の皿を並べている。九つになる息子は、背丈はまだ母親の肩にも届かないが、皿を置く手つきだけは一人前のつもりでいる。その向かいでは、五つになる娘のピアが布の人形を椅子に座らせ、自分は踏み台に乗って、木箱を店の台に見立てていた。人形はミーナが仕立ての端切れで縫ったもので、刺繍の目が少し右に寄っている。
「いらっしゃいませ。今日は、いい鶏が入ってますよ」
ピアは人形の手に小石を一つ握らせ、それを自分で受け取った。
「はい、ちょうど五百。おつりは、ありません」
人形が何を買ったのかは、最後まで誰にも分からなかった。いらっしゃいませ、の抑揚が店先の自分にそっくりで、バルトは戸口で口元を手で覆った。ヨナが「ちょうどなら、おつりはないよ」と言うと、ピアは「だから、ないって言ったの」と胸を張った。
「ピア、お店はおしまい。お客さんにも夕ご飯を食べさせてあげて」
ミーナが鍋を食卓へ運びながら言うと、ピアは人形を抱えて踏み台から下り、自分の椅子によじ登った。ミーナは四つの皿に順に煮込みをよそい、最後に自分の皿を置いて、前掛けを外した。
「はい、座って。冷めないうちに」
その一言で、食卓はいつも締まる。ヨナは背筋を伸ばし、ピアは人形を膝に移し、バルトも匙を取った。掬った煮汁は熱く、朝から冷えた作業場に立ち通しだった体の芯へ、ゆっくりと落ちていった。香草の匂いの奥に、鶏の脂の甘い匂いがかすかにあった。
バルトは皿から鶏の腿を取り上げ、指先で継ぎ目を探って、軽くひねった。骨はするりと抜け、柔らかく煮えた肉だけが皿に残る。外した骨を皿の縁に置くと、隣で見ていたヨナが、匙を持ったまま顔を上げた。
「父さんは、どうして骨の場所が分かるの」
どうして、と訊かれたのは久しぶりだった。分かるから分かる、としか言いようのないことを、バルト自身はもう何年も考えたことがない。それでもヨナの目は真剣で、笑って流していい問いには見えなかった。バルトはヨナの皿の腿を指さし、その上に息子の指を添えさせた。
「押してごらん。硬いところが骨だ。そのまま、端のほうへ指を滑らせていく」
ヨナの指が、煮えた皮の上をおそるおそる進んでいく。ミーナは匙を止めて、二人の手元を眺めていた。食卓で包丁の話はしないで、といつもなら言うところを、今夜は黙って笑っている。
「ほら、少しへこんで、動くところがあるだろう。骨と骨の継ぎ目だ。刃は骨には当てない。ここに入れる。鶏でも牛でも、それは変わらない」
「でも、牛は大きいよ」
「大きいだけだ。継ぎ目は、ちゃんと同じ場所にある。父さんも最初は分からなかった。お祖父さんの横で何年も見て、何百と外して、そのうち目より先に指が覚えたんだ」
ヨナは言われたとおりに腿をひねった。煮込んだ鶏の骨は子供の力でもあっさり外れ、ヨナはそれを指でつまみ上げて、しばらく黙って見つめていた。やがて父親を見上げた目には、骨が外れた驚きよりも、父の仕事が本物だったという誇らしさのほうが、ずっと強く浮かんでいた。
「ぼくも、父さんみたいになれる?」
「なれるさ。ただし包丁を握るのは、手がもう少し大きくなってからだ」
ヨナは外した骨を皿の縁に並べ、それから湯気の立つ鍋を不思議そうに覗き込んだ。
「でも、なんでうちは店のお肉を食べないの。父さんの肉が町でいちばんだって、みんな言ってるのに」
「肉屋が自分の店の肉に飽きたら、商売にならないだろう」
バルトが真面目な顔で言うと、ミーナが吹き出した。所帯を持った最初の晩から、この家の食卓に上るのは隣村の農家ヤンの鶏で、下の店の肉が階段を上がってきたことは一度もない。そのわけを訊かれるたびに、バルトは同じ冗談を同じ顔で返してきた。
「そういうこと。それに、お店のお肉はお客さんのものですからね。家で食べたら、帳面が合わなくなるでしょう」
ミーナはそう言って、ピアの口元を布で拭った。ヨナは納得したような、していないような顔で頷き、皿の縁の骨をもう一度指でなぞった。
◆
子供たちを寝かしつけるのは、たいていミーナの役目だった。奥の部屋から聞こえていた昔話の声がやがて途切れ、ミーナが足音を忍ばせて戻ってくる。ピアは人形を抱いたまま、ヨナは骨の外し方の続きを訊きたそうな顔のまま、二人ともあっけなく眠ってしまったらしい。
ミーナはランプを食卓の真ん中に寄せ、繕い物の籠を膝に引き寄せた。ヨナの上着の肘が、また擦り切れかけている。仕立て屋の娘の針は迷いなく布を渡り、糸を引くたびに小さな音がした。バルトは窓辺の椅子に腰を下ろし、そのかすかな音を背中で聞いていた。
「ヨナ、明日には学校で話すわよ。父さんは骨の場所が分かるんだって」
「骨の場所くらい、肉屋なら誰でも分かる」
「あの子にとっては、誰でもじゃないのよ」
ミーナは糸を歯で切り、繕い終えた肘を指でならした。それから針を針山に戻し、ランプの灯越しにバルトのほうを見た。
「あなたって、出会ったころから少しも変わらないわね。朝は誰より早く起きて、同じ時刻に灯を入れて、同じ顔でいらっしゃいって言う。町の人にもよく言われるの。バルトさんの店は、いつ来ても同じだって」
責める口ぶりではなかった。一日の終わりに帳面の最後の行へ線を引くときと、同じ静かな声だった。
「子供たちもね、あなたの足音だけは、階段の下から聞き分けるのよ」
ミーナは膝の上で指を組み、少しだけ間を置いた。
「あなたが変わらないでいてくれるから、安心する」
「変わりようがないさ。毎朝、同じ肉を切ってるんだ」
バルトが笑って返すと、ミーナも小さく笑い、籠から次の繕い物を取り出した。ピアの靴下の踵に、指が一本通るほどの穴が開いていた。
バルトは窓の外へ目を移した。市場通りはもう暗く、向かいの靴直しの店も戸を閉ざしている。通りに並ぶ家々の窓では、灯が一つ、また一つと落ちていった。どの窓の向こうでも、昨日と同じ夕食が片づけられ、昨日と同じ寝床が敷かれているのだろう。
昼間の行商人が話していた王都の石の下の化け物は、この窓から見える闇のどこにもいなかった。明日の朝になれば、自分はまた誰より早く起き、同じ鉤から同じ肉を下ろし、同じ継ぎ目に刃を入れる。鶏でも牛でも、それは変わらないと、さっき息子に教えたばかりだった。
骨が外れたときのヨナの目を、バルトは思い出していた。初めて一人で牛を割った朝には、自分の胸の奥もあんなふうに鳴っていたはずだった。息子はこれからその音を覚え、何年もかけて、いつか忘れていくのだろう。
ミーナの言葉に、嘘は一つもなかった。自分の返した言葉にも、嘘はない。妻は安心していて、子供たちは眠っていて、店の帳面は今日も合っている。煮込みの残り香とランプの油の匂いが、背中のほうから静かに漂ってくる。
窓枠に置いた指が、いつのまにか、砥石を擦るのと同じ間隔で木を叩いていた。バルトはその指を止め、もう一度、暗い通りを見下ろした。
変わらない、というのは褒め言葉で、いちばん重い言葉でもあった。




