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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
精肉屋編

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第34話 仕込みの朝

 ハルゼの町でいちばん早く灯がともるのは、市場通りの中ほどにある肉屋の作業場だった。王都から延びる街道沿いの、これといって名の知れたもののない町で、バルト肉店は父の代から同じ場所に、牛と角猪(つのいのしし)を描いた看板を掛けている。夜明け前、通りの石畳がまだ夜の湿りを残しているうちに、バルトは裏口の戸を開け、作業場の灯に火を入れた。夏の終わりの夜気は石の床の上に一段低く沈んでいて、前掛けの紐を結ぶ指先に、ひやりと触れた。


 仕込みは、刃を研ぐところから始まる。砥石(といし)を桶の水に浸し、掬(すく)った水を表に垂らして、包丁の腹を寝かせる。しゃっ、しゃっ、と石を擦る音が、まだ眠っている店の中に同じ間隔で響いた。刃を当てる角度は指が覚えていて、目で確かめる必要はない。三本の包丁と骨すきを研ぎ終えるころには、桶の水は灰色に濁り、浸した指の先は冷たさで少しかじかんでいた。


 作業場の奥の梁(はり)には、昨夜のうちに血を抜いた豚の半身が二つと、角猪が一頭、皮を付けたまま鉤(かぎ)に掛けて吊るしてある。豚は柵の中で育った家畜で、角猪は森で狩られた魔物だった。並べて吊るすと、角猪のほうが脂は黄色く、筋は太い。魔物の肉を嫌う客もいるが、煮込みには家畜より味が出ると言って、わざわざ角猪を選んでいく客も少なくなかった。


 バルトは鉤から豚の半身を外し、台の上に寝かせた。肩、背、腿と、刃を入れる場所に迷いはない。関節の継ぎ目に刃先を当てて手首を返せば、骨はほとんど抵抗もなく肉から離れていく。外した骨は骨の桶へ、端肉は腸詰(ちょうづめ)用の鉢へ、形のいい塊は店に並べる板の上へ。手が先に動き、頭はその少し後ろから、黙ってついていくだけだった。


 角猪の皮は、家畜よりも厚く硬い。首の付け根に刃を入れ、皮と脂のあいだに指を差し込んで、少しずつ引き剥がしていく。若いころは、これに半刻(はんとき)かかった。毛の流れを読み違えて皮を破り、父に無言で顎をしゃくられて、一からやり直したこともある。今は、窓の外の空が藍から灰色に変わるあいだに一頭ぶんが剥がれ、床の上で重たく丸まっていた。


 バルトは手を止め、刃を布で拭った。父から店を継いで、もう十年を越える。来る朝も来る朝も、同じ鉤から同じ肉を下ろし、同じ継ぎ目に刃を入れてきた。初めて一人で牛を割った朝には、骨の外れる音を聞くたびに胸の奥が鳴ったものだが、その音はいつのまにか、桶の水が跳ねる音と区別がつかなくなっていた。手が覚えたことは、考えなくてもできる。考えなくてもできることのあいだには、考えることが何も残らなかった。


 牛も、豚も、羊も、角猪も。この台に載るものなら、どこに刃を入れればいいかを、バルトの手はもうすべて知っている。


 切れないものは、もう無い。


 裏庭のほうで、乾いた音がした。古い胡桃(くるみ)の木の枝が、一度だけ鳴ったのだ。窓越しに見える枝先では葉が数枚揺れていたが、裏庭に風はなかった。バルトはそちらへ一度目をやり、鳥でも飛び立ったのだろうと考えて、すぐに台の上の肉へ視線を戻した。


 空が白み始めるころ、二階の床板が軋(きし)み、階段を下りてくる足音がした。妻のミーナが作業場の戸口から顔を出し、お湯を沸かしておくわね、とだけ言って奥へ消える。うちの子供たちが起き出すのは、もう少しあとだ。バルトは腸詰用の鉢に布をかぶせ、塊肉を並べた板を両手に抱えて、店の表へ運んでいった。


◆


 昼前になると、市場通りには人が出る。粉屋の荷車が石畳を鳴らして通り、向かいの靴直しの店からは、木槌の音が途切れ途切れに聞こえてきた。バルト肉店の台には、朝に切り分けた豚の肩と背、角猪の塊、それに吊るして乾かした腸詰が並び、ミーナは店の奥の帳場で帳面を開いている。


 ミーナの帳場は、客が品物を受け取るより先に締まる。バルトが目方を告げたときには、もう帳面に一行が書き終えられていて、受け取った硬貨は種類ごとに箱の仕切りへ落とされていく。釣り銭が客の手に戻るころには、ミーナは次の客の名前を呼んでいた。仕立て屋の娘だったころから、糸の一本も数え違えたことがないというのが、ミーナの自慢だった。


 洗濯屋の女房は、豚の背を一切れ頼んだあとで、亭主の膝の話を始めた。雨の前になると痛む、薬を飲んでもさっぱり効かない、そのくせ酒だけは減らない。先週も、その前の週も、同じ台の前で聞いた話だった。バルトは包みの紐を結びながら最後まで頷き、膝なら角猪の脛(すね)を骨ごと煮込むといい、と言い添えた。女房は、効くかしらね、と笑い、脛を一本足して帰っていった。


 昼の鐘が鳴ってしばらくしたころ、店の前に荷車が止まった。轅(ながえ)を肩から下ろしたのは、日に焼けた年嵩(としかさ)の男と、ひょろりと背の高い若い男で、月に一度街道を回ってくる行商人の、ガノとペトだった。二人は荷台に積んだ布や小間物(こまもの)を町の店へ卸し、ついでに道中の食べ物を買っていく。


「旦那、干し肉を十枚。塩のきついほうで頼むよ」


 ガノが額の汗を拭いながら言った。バルトは棚から干し肉の束を下ろし、一枚ずつ数えて紙に包んでいく。ペトは台の端に肘をつき、吊るされた腸詰を値札と見比べながら眺めていた。


「王都はどうだった」


 何の気なしにバルトが訊くと、ガノの目が、待っていたとばかりに光った。


「それがな、旦那。王都の下水道には、何かいるらしいぜ」


「ほう」


「夜中に格子の上を通ると、娘の声で呼ばれるんだ。振り返ったら最後、顔のない女が立ってる」


「違うって」


 ペトが台から肘を浮かせた。


「おれが聞いたのは、毛だらけの大男だ。宿の親父が、自分の目で見た奴から聞いたって」


「その親父は、三つ前の宿の親父だろうが。古い話だ」


「古くたって、王都の話には違いねえ」


 二人は干し肉の包みを挟んで、どちらの化け物が本物かを言い合い始めた。顔のない女は声が細い、大男は足が速い、いや女のほうが足は速い。言い返すたびに、化け物の背丈が少しずつ伸びていく。帳場からミーナが顔を上げ、どちらでもいいから先にお代を、と言うと、二人は揃って口を閉じ、揃って懐を探った。


「物騒だね」


 バルトは笑って、包みを渡した。


「王都の人は、夜道も楽じゃないな。この町じゃ、夜中に出歩いて会うのは酔っぱらいくらいのもんだ」


「違えねえ」


 ガノも笑い、受け取った包みを荷台の箱へしまった。ペトはまだ何か言い足りなそうだったが、ガノに轅を指さされて、渋々肩を入れた。二人は次の店へ荷を卸しに、市場通りを広場のほうへ下っていく。荷車の車輪が石畳を鳴らす音が遠ざかると、王都の石の下で誰が呼んでいるのかという話も、それと一緒に通りの向こうへ運ばれていった。


 バルトは台の上の包み紙を揃え直した。顔のない女も、毛だらけの大男も、街道のずっと先にある大きな町の、石の下の話だ。この町の石畳の下から誰かに呼ばれたことは、生まれてこのかた一度もない。次の客が台の前に立ち、バルトはいつもの顔で、いらっしゃい、と言った。


◆


 日が傾くと、市場通りの影は長く伸び、店先の台は少しずつ空いていった。売れ残った端肉を腸詰の鉢へ戻し、台を水で流して、看板の下に戸板を立てる。ミーナは帳場で今日の売り上げを数え直し、帳面の最後の行の下に、線を一本引いた。並んだ数字は、昨日のものとほとんど変わらなかった。


 ミーナは筆を置き、両腕を上へ伸ばした。肩の骨が、小さく鳴った。


「今日も、何もない日だったわね」


 疲れの混じった、満ち足りた声だった。二階からは、子供たちが階段を駆け下りてくる足音が聞こえてくる。バルトは戸板の閂(かんぬき)を下ろしながら、ああ、と答えた。


 何もない日。店を守る者にとって、それは一日の終わりに口にできる、いちばんの褒め言葉のはずだった。明日も今日と同じであればいいと、ミーナの声はそう言っていた。バルトは閂に手を掛けたまま、その言葉を一度、胸の中でなぞってみた。褒め言葉にも聞こえた。灰色に濁った桶の底に沈む、砥石の重さのようにも聞こえた。


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