第33話 木と腕輪と噂
灯の夜から、半年が過ぎた。
王都の下には、今も水の道が通っている。石を積んだ古い水路で、上の街が流したものはすべてここへ落ちてくる。雨水も、洗い物の水も、誰かの食べ残しも。そのいちばん古い一本は、口を石で塞がれ、上の格子にも鉄の板と土を被せられたまま、半年のあいだ一度も光を通していない。水路の底は、もともと格子から差す光の色でしか昼と夜の分からない場所だったが、その一本には、もう光の色さえ落ちていかなかった。板の上に盛られた土には、言われていたとおり、春のうちに草が生えた。その下に何が残っているのかを確かめに行った者は、一人もいなかった。
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市場の通りの先に、開け放した窓から甘い匂いのあふれるパン屋がある。夜明け前に窯へ火が入り、空が白み始めるころには、店先の台に、丸いのや長いのや、表面に艶のあるパンが並ぶ。川に近い通りへ越してきた子爵家の娘がその店の裏口に立つようになったのは、春の初めのことだった。娘は袖の細い簡素な服に前掛けを着け、髪を一本の紐で後ろにまとめている。粉を量る手も、生地を捏ねる手も遅かったが、店の主は、それについて何も言わなかった。
朝、粉屋の荷車が店の前に止まると、リタは裏口から出てきて、小麦の袋を両腕に抱える。荷運びの男は、一つ目の袋を渡すと、もう次の袋を荷台から下ろしていて、娘の礼の言葉が出てくるころには、たいてい通りの角を曲がっていた。店の前の石畳には、雨水を落とす小さな格子が一つ嵌まっていて、リタは毎朝、その上を通って店へ戻る。足は止まらない。袋の重さに少しだけ体を傾けたまま、格子の上を、ほかの石畳と同じように踏んで過ぎていく。
格子の下は暗く、水の音は細かった。古い水路が塞がれてから、この辺りの下を流れる水は量が減ったのだと、下町の者は言う。その細い流れに耳を澄ませている者は、格子の上にも下にも、誰もいなかった。
窯の前は、夏の朝でも額に汗が滲むほど熱かった。リタは店の奥の台で、主に言われた分の生地を、両手の付け根で押していく。押す、畳む、向きを変える。板が台の縁に当たるたびに、ことん、と小さな音がして、それが窯の中で薪のはぜる音に混じった。灯の下で捏ねる者は、もういない。生地は朝の光の中で捏ねられ、捏ねる者の頬には、いつのまにか粉が白く付いていた。
窯の熱が店の奥から通りまで流れ出し、焼き上がったパンが台に並ぶと、客が来た。客は紙に包んだパンを受け取って硬貨を置き、ありがとう、と言って帰っていく。払ったほうが礼を言うのを、不思議に思う者はいない。リタも、ありがとうございます、と言う。言葉が出てくるまでに、ほかの者より少しだけ長くかかった。それを待ってから店を出ていく客もいれば、待たずに硬貨だけを置いていく客もいて、リタは、どちらの背中にも同じように頭を下げた。
昼前、リタは店先の掃除を済ませ、桶の水を格子へ流した。粉と土を含んだ水が鉄の棒のあいだを抜け、暗がりの中へ落ちていく。落ちた先で、その水を浴びる者はいない。リタは空になった桶を提げて、店の中へ戻った。
焼き上がりの端を切り落としていると、隣の店の下働きの子が、窓の外から台を覗き込んでいた。リタは切り落とした端を一つ、紙にも包まずにその子の手に載せた。子供は熱さに手のひらの上でそれを何度か持ち替え、一口かじってから、走っていった。リタはもう、次のパンを窯から出していた。
夕方、窯の火が落とされると、リタは前掛けを外して、川に近い通りの家へ帰っていく。店の前の格子の上を、朝と同じように過ぎ、川沿いの道へ出る。川沿いには二階建ての古い宿があり、その裏の洗い場では、指の節の太い年配の女中が、黙って皿を洗っていた。流れた水は、道の端の格子へ落ちていく。リタはその格子の上も、ほかの石畳と同じように踏んで過ぎた。子爵家が屋敷街を離れたことを、屋敷街の客間で話題にする者は、もうほとんどいない。川に近い通りの小さな家の窓には、灯が一つともっていた。
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市場の裏通りには、古い品物ばかりを並べた古物商の店がある。埃をかぶった燭台や、柄の欠けた銀の匙や、持ち主の名を削り取った指輪の並ぶ棚の、いちばん奥に、細い銀の腕輪が一つ置かれていた。新しい品の隣に置けば不釣り合いなほど古びた色をしていて、内側には、細かな傷がいくつも走っている。
店の奥は、乾いた木と錆の匂いがした。腕輪の隣には、灯の夜に軒先へ吊るされていたらしい色硝子の灯籠が一つ、煤を拭われないまま置かれている。店の主は耳の遠い年寄りで、客が入ってきても、帳場の上の品物から顔を上げなかった。主は、ときどき腕輪を手に取って布で磨き、また棚に戻した。いつ、誰の手から、どういう道を辿ってこの棚まで来たのかは、店の帳面のどこにも書かれていない。通りがかりの娘が一度足を止め、ほかの銀の品と変わらない値の書かれた札を覗き込んだが、しばらく眺めてから、何も言わずに行き過ぎた。腕輪は、棚の奥で、窓から差す昼の光を細く返していた。
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広場の古木の下では、杖を持った老人が、今日も子供たちを集めていた。板絵の英雄は灯を高く掲げ、その顔は、変わらず白く塗りつぶされている。
「灯の夜って、まだ?」
「まだまだ、冬になってからだ。いい子にして待ってな」
「去年の灯の夜は、怖いことがあったんでしょう。お母さんが言ってた」
「下水の獣のことか。あれは、騎士団の方々が封じなすった。もう、怖いことは何もない。今年の灯の夜も、英雄さまの灯で、王都じゅうが明るくなるさ」
子供たちは歓声を上げて散っていった。老人は木の根に腰を下ろし、膝の上で杖を握り直した。そのとき、頭の上で、古木の枝が一度だけ鳴った。乾いた音で、葉が数枚揺れていたが、広場には風もなかった。老人も、走っていく子供たちも、顔を上げなかった。
この根元で、老人は一度、見ない顔の娘に名前を訊いたことがある。うろ、と聞き返して、変わった名前だと笑った。その名前が、灯の夜のあとで市場の掲示板に貼り出され、行方の知れない者として読み上げられたのを、老人が聞いたのかどうかは分からない。老人は膝の上で杖を握ったまま、日の当たる石畳を眺めていた。
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翌朝、大門が開くのを待って、荷車を引いた行商人が二人、街道へ出ていった。門の脇の槍を持った男は、通る者の顔をちらりと見ては、顎で先へ促している。分厚い壁の下をくぐる短いあいだ、日の光が途切れてひやりと涼しくなり、抜けた先には、刈り入れを待つ麦が、道の両脇で朝の風に揺れていた。
「王都の下水道には、何かいるらしいぜ」
年嵩のほうが、荷車の轅を肩に掛け直しながら言った。
「お触れじゃ、害獣は封じたってことになってる。けど、夜中に格子の上を通ると、娘の声で呼ばれるんだそうだ。振り返ったら最後、鏡の中みたいに、顔のない女が立ってるってな」
「この前は、毛だらけの大男だって聞いたぞ」
「話す奴ごとに違うのさ。見た奴は、誰もいねえんだから」
「封じたってのは、仕留めたってことか」
「さあな。石で蓋をしたってだけだ。蓋の下のことは、誰も知らねえ」
年嵩のほうは、そこで一度言葉を切り、背中の向こうの王都の壁を振り返った。朝の光の中で、壁は灰色に長く伸び、その下にどんな水の道が通っているのかは、ここからでは何も見えない。
若いほうが笑い、年嵩のほうも笑った。二人の笑い声は、麦の上を渡って、すぐに街道の先へ流れていった。王都の下で何が封じられたのかを、二人は知らない。知らないまま、次の町で話す話が、一つ増えただけだった。
行商人の荷車が向かう次の町では、肉屋が一日の仕込みを始めている。




