第32話 記録
どれだけの時が過ぎたのか、ウロには分からなかった。昼と夜は、格子から差す光の色で分けてきた。その格子は、今はどれも上から塞がれている。水路の底には季節がないだけでなく、昼も夜もなくなった。聞こえるのは、足首を撫でるほどの細い水の音と、壁を伝う雫の音だけだった。雫の落ちる間隔だけは塞がれる前と変わらず、ウロは初めのうちそれを数えていたが、千を過ぎたあたりでやめた。数え続けても、灯が戻る六十のようなものは、どこにもなかった。
肩の傷の熱は、塞がれた水路の冷えに少しずつ吸われていった。ウロは素の形のまま、板の上に伏せていた。形を借りる力は、もうどこにも残っていない。それでも、長いあいだ伏せているうちに、指を一本だけ鉤爪に変えるくらいの力が、指の付け根に少しずつ戻ってきた。ウロは板から這い下り、湿った石に手のひらを当てて、壁を探した。
見えなくても、壁の場所は手が覚えていた。水の跡の少し上の、乾いた石。指先で撫でていくと、浅い溝が丸く途切れずに続いているのが分かった。一つ目の丸の、まっすぐ下へ引いた太い線。二つ目の、細かく並んだ短い線と、その上に引いた横線。三つ目の波の線と、それを隠した横線。四つ目の、深く彫った目と、そこから空っぽの丸へ続く一本の溝。五つ目の、途中から離れていく二本の線。割れ目に指を入れると、畳んだ紙の角が、まだそこにあった。ウロはそれを抜き取って、手のひらの上で広げてみた。見えはしなかったが、何度も折り直された角の手触りは、指が覚えているとおりだった。焦がした砂糖の匂いは、もう、煙と苔の匂いの下に沈んでいた。ウロは紙を元のとおりに畳み、割れ目に戻した。
ウロは鉤爪の先を、一つ目の太い線の上に当てた。かり、と石を噛む硬い音が、塞がれた水路の暗がりに響いた。横線を一本。それから、四つ目の深い目の上に一本。五つ目の離れていく二本の上に、一本。三本を引き終えると、壁の上の印は、どれも横線の下に隠れた。大きい声も、早い口も、よく笑う口も、見ている目も、昔の友も。笑っていた口は、一つ残らず、笑えなくなった。
見せれば、分かると思っていた。分からない者には、見せればいい。そのとき何を言うのかを、ウロは聞いてみたかった。けれど、広間の誰も何も言わず、リタは喪服で名前を呼び、松明の男たちは石を積んだ。分かったという顔をした者は、一人もいなかった。見せたウロ自身も、何一つ、分からないままだった。
ウロは、五つの丸から少し離れたところに、爪の先を当てた。もう一つ、丸を刻む。誰の丸なのかは、刻む前から決まっていた。
丸の下に付ける印を、ウロは探した。大きい声なら、ヴェラの声を借りて、カミラを路地へ呼んだ。早い口なら、ノエラの顔を借りて、百年と言った。カミラの笑い方も、借りて使った。見ている者なら、格子の下で、ずっと見ていた。昔の友なら、朝の台所で、パンの端を半分こした。どの印も、少しずつ当てはまった。ウロの体が、あらゆるものの継ぎ接ぎでできているのと同じように、ウロのしたことも、借りたものの継ぎ接ぎでできていた。どの印を刻んでも、それはウロの印ではない気がした。
ゴブリンの巣の、窪みの一匹のことを、ウロは思い出した。揃った目でできた壁の内側に、あの一匹はずっと座っていた。壁の上には、リタの丸を刻まなかった。窪みに座らされていたのはリタだと、選定の夜にウロは思ったのだ。けれど、窪みが今どこにあるのかは、手探りでも分かった。
ウロは、丸の内側を爪で削り始めた。線を引くのではなく、内側の石を、少しずつ掻き出していく。爪の先が欠け、指の付け根まで痺れても、手を止めなかった。やがて丸の中は、指先がすっぽりと沈むほどの窪みになった。光の届かない水路の奥の、空っぽの洞。広場の老人に名前を訊かれた日に、思い出せたのは、それだけだった。
最後の分類には、名前を一つしか付けられなかった。ウロ。
ウロは、その名前を声に出してみた。借りた娘の声は、もう組み上がらなかった。喉から出てきたのは、いくつもの声の欠片が擦れ合った、低く濁った音だった。広場で初めて名乗った日の夜も、こうして自分の名前を言ってみた。あのときは、振り返る者がいなかった。今は、振り返る者のいる場所が、石の向こうにさえなかった。濁った音は塞がれた水路の壁に当たって、何度か薄く返り、それから雫の音の中へ消えていった。
なぜリタが泣いたのか。なぜ男たちが待たなかったのか。なぜ、同じ種族なのに、居場所のない者がいるのか。ウロは窪みに指先を当てたまま、雫の音を聞いていた。答えを降らせる格子は、もうどこにもなかった。
◆
灯の夜の件が、騎士団の帳面に書き終えられたのは、古い水路の口が塞がれてから数日後のことだった。詰所の奥の棚に収められた帳面には、ほかの年のほかの件と同じ硬い字で、こう記されている。
「灯の夜、伯爵家大広間にて、下水より入り込みし害獣、居合わせし者を襲う。死者三名。害獣は旧水路の奥に追い込み、石をもってこれを封ず。以後、被害の届けなし」
屋敷街のカミラ嬢の件も、同じ害獣によるものと書き添えられた。その数行あとに、行方知れずの者の欄がある。子爵家見習い、ウロ。害獣に襲われしものと見なす。書かれているのは、それだけだった。
古い水路の口に積まれた石は、継ぎ目の漆喰が数日で白く乾き、石の前には、騎士団の印を押した札が一枚打ち付けられた。洗い場の格子の上の鉄の板には、土が盛られ、春になれば草が生えるだろうと言われた。市場の掲示板からは駆除の触れが剥がされ、褒美の銀貨は、水路に入った者たちで分けられた。分け前を受け取った荷運びの一人は、それで、屋敷街に奉公に出ている娘に、新しい靴を買ってやったという。
帳面は短かったが、屋敷街の客間で語られる話は長かった。灯の夜に散った三人は、悲劇の令嬢と呼ばれるようになった。ヴェラ嬢は最後まで友を気遣っていた、フィナ嬢は旧友の隣に寄り添っていた、ドーラ嬢は誰にでも分け隔てなく会釈をした、と。話は語られるたびに少しずつ形を整え、整うほどに、誰の耳にも優しく聞こえるものになっていった。伯爵はあの夜から一度も客を招かず、ノエラ嬢の屋敷では、今も鏡という鏡に布が掛けられたままだと囁かれた。
子爵家の令嬢が帳面に出てくるのは、一度きりである。熱が下がってから、騎士団の者が一度だけ子爵家を訪ねた。その日の欄には、子爵家令嬢、当夜の記憶定かならず、とだけあり、それ以上の言葉は書き留められていない。三人の弔いの日、リタは喪服を着て、参列の列の端に立っていた。誰も声をかけなかったが、半歩下がる者もいなかった。
魔女という言葉は、いつの間にか聞かれなくなった。誰が最初に言い出したのかを覚えている者も、それを打ち消した者も、どこにもいなかった。害獣という名前が付いたとき、王都の者たちは、それで安心したのだった。
年が明けるころ、子爵家が屋敷街の屋敷を手放し、川に近い通りの小さな家へ移るらしいという話が、台所口から台所口へと伝わっていった。そのころには、粉屋の荷運びも、また袋を台所の中まで運び込むようになっていた。
灯の夜の飾りは、どの家でも箱に仕舞われた。伯爵家の大広間で、闇の一分が行われることは、もうない。それでも冬至が来れば、王都じゅうの軒先に、また灯が吊るされるだろう。広場の板絵の前では、子供たちが灯の夜まであと幾つ寝ればいいのかを、また指を折って数え始める。白く塗られた英雄の顔は、何も言わずに、その指を見下ろしている。
地上の祭は、次の年も行われる。




