第31話 古い水路
洗い場から戻った夜、ウロは板の上で鼠の形を解いたきり、朝まで目を閉じなかった。格子の上からは、もう声は降ってこない。戸の閉まる前に落ちてきた小さな言葉だけが、水の音の合間に、何度も耳の奥へ戻ってきた。ごめんなさい。誰に向けられたのか分からない言葉を、ウロは格子の下で、息の詰まり方まで同じにして、一度だけ自分の口でなぞってみた。なぞっても、宛先は出てこなかった。
煙は、明け方に来た。古い水路の入口のほうから、黄色く濁ったものが低い天井を舐めるように流れ込んできて、足首ほどの細い水の上を、ゆっくりと奥へ這ってくる。焦げた草と腐った卵を混ぜた匂いが、苔の匂いを押しのけて、板の上のウロの鼻先まで届いた。ウロは息を浅くして、壁の五つの丸に背を向けた。この水路の奥には、もう逃げる道がない。灯の油が尽きたあの部屋で、水の道は行き止まりになっていた。
煙の向こうに、松明の光が揺れた。一つ、二つ、四つ。天井が低いせいで、男たちは背を丸め、濡れた布で口を覆ったまま、一歩ずつ足元を確かめて進んでくる。槍の穂先が、松明の光を受けて鈍く光っていた。ウロは板から下り、光の届かない壁際へ体を寄せたが、そこにも煙は満ちてきて、喉の奥を棘が引っかいた。咳を一つ、こらえきれなかった。
「いたぞ」
光の輪が、ウロの上で止まった。
男たちの足が、揃って止まった。松明が高く掲げられ、煙の中で、ウロの素の形が照らし出される。鱗の生えた場所と、毛に覆われた場所と、そのどちらでもない湿った場所が、まだらに繋がった暗い塊だった。濡れた布の上から覗く男たちの目は、どれも赤く充血していて、煙のせいなのか、眠っていないせいなのか、ウロには分からなかった。先頭の男が、何だ、あれは、と言った。それから、誰も何も言わなかった。茶会の卓で、ウロが笑ったときと同じだった。いくつもの目が揃ってこちらを向き、揃って、同じ形に固まっていた。
◆
人間は、言葉で話す。訊かれたら答え、頼まれたら待つ。リタの屋敷の者たちは、言葉を探している者を、いつまでも待った。だから、言葉で話せばいいのだと、ウロは思った。そのためには、人間の口が要る。
ウロは、宿の女中の形を呼んだ。一つ目の息で骨が縮み始め、背が丸くなっていく。男たちの松明が、一歩ぶん後ろへ下がった。二つ目の息で、肌の上に前掛けの形が浮かび、節の太い指が伸びる。煙が胸の奥まで入り込み、息が咳で崩れかけた。三つ目の息を吐き終えたとき、松明の光の中には、腰の曲がった年寄りの女が立っていた。
「化けやがった」
誰かが、掠れた声で言った。
「見たか、今の。骨が、動いて……」
ウロは、男たちのほうへ手を差し出した。人の形のままの手だった。それから口を開き、ウロが知っているなかで、いちばん人を待たせることのできる言葉を探した。皿の欠片が散らばった朝の台所で、床の上から差し出された言葉だった。
「……待って。大丈夫、です」
年寄りの女の口から出てきたのは、リタの声だった。細くて、ところどころで息が詰まる、角の残った声。
「何も、しない。……ゆっくり、ね」
松明の炎が、大きく揺れた。後ろのほうの若い男が、短く悲鳴を上げて壁に背をぶつけた。
「娘の声で、鳴きやがる」
「耳を貸すな。あの晩も、こうやって人を呼んだんだ」
先頭の男が、槍を構え直した。その手は震えていたが、穂先は、まっすぐウロの胸のあたりを向いていた。ウロは、待った。ゆっくりなら、切れない。リタはそう言って、丸いほうの縁を指で挟んだのだ。言葉を一つ置いたら、相手の三つ目の息を待つ。リタの屋敷では、そうすれば、言葉はちゃんと届いた。
ウロが一つ目の息を吐いたところで、槍の穂先が前に出た。ウロの二つ目の息を待つ者は、いなかった。
ゆっくり、ね。その言葉は、ウロに向けられたときには、ちゃんと届いた。割れた皿の前で前掛けの紐に指をかけていたウロの手を、あの言葉は止めたのだ。同じ声で、同じ言葉を、同じ息の詰まり方で言った。それなのに、ウロの口から出た同じ言葉は、松明の下で、獣の鳴き声に変わっていた。
◆
左の肩口を、熱いものが走った。穂先が肉を裂いて抜けていき、その痛みに引きずられるように、借りていた形が崩れ始めた。丸くなっていた背が、骨の軋む音とともにもとの暗い塊へ戻っていく。年寄りの女の顔の半分が、まだ顔の形をしているうちに、もう半分が鱗に沈んだ。松明の光の中で、男たちの誰かが吐く音がした。
「どうして」
ウロは言った。リタの声と、宿の女中の声と、ゴブリンの喉の短い音と、鼠の擦れた鳴き声が、一つの口から重なって出てきた。
「どうして。ウロは、何も、まだ、言っていない」
答えはなかった。代わりに、二本目の槍が突き出された。ウロは水の上を這って後ずさり、天井がさらに低くなる奥の暗がりへ、体を押し込んだ。肩の傷から流れ出たものが、細い水に混じって、男たちの足元のほうへ流れていった。
鼠の形でも、格子の上で叩かれた。素の形には、槍が向いた。人の形を借りて、人の言葉で話しても、松明の下では、鳴き声と呼ばれた。どの形を借りても、男たちの目に映るものは、触れに書かれた一つの名前にしかならないのだった。
男たちは、追ってこなかった。
「奥は狭い。入れば、こっちがやられる」
「仕留めたかどうか、分からねえぞ」
「封じちまえば、同じことだ。もう誰の娘も、夜中に呼ばれずに済む。そのための石だ」
松明の光が、入口のほうへ引いていった。かわりに、重いものを運ぶ足音と、桶の水を掻き回す音が近づいてくる。石が一つ、水路の口に据えられる音がした。それから、二つ目、三つ目。石と石のあいだを何かで塗り込める、湿った音がそれに続いた。石が一段積まれるたびに、入口から差し込む松明の光が、細くなっていった。
ウロは、暗がりの奥で、それを見ていた。肩の傷は、脈を打つたびに熱くなり、熱くなったところから、冷えた水が体の芯へ染み込んでくる。形を戻そうとしても、指の先さえもう言うことを聞かず、鱗と毛と湿った肌のまだらな体が、水の上に重く沈んでいた。ゴブリンの長老は、出ていけ、と言った。宿の主人は、今日で終わりにしてくれ、と言った。どちらも、出ていく先はあった。今度の男たちは、出ていけとは言わなかった。ここから、どこへも出ていくなと、石で言っていた。
頭の上でも、音がした。洗い場の格子の上で、いくつもの足音が止まり、家令の低い声が、こちらでございます、と言った。その後ろで、年配の女中の掠れた声が、誰に言うともなく言った。
「獣を封じちまったら……あの子は、もう、帰ってこられないんだねえ」
家令は、何も答えなかった。鉄の板を引きずる音がして、横穴の先の四角い光が、ふっと消えた。帰ってこられないと言われたのは、ウロだった。けれど、女中の言うあの子と、今ここで塞がれようとしているものとは、上の街では、もう別々のものになっていた。続いて、真上の格子にも何かが被せられ、上から土を落とす音がした。月の色も、光の色も、もう落ちてこなかった。
「どうして」
ウロは、もう一度言った。何度言っても、答えを返す声はどこからも降ってこない。入口の石の隙間から漏れていた最後の光が、塗り込められて、細い線になった。
その線が、消えた。
石の向こうで、男たちの足音が遠ざかっていく。誰かが、これで眠れる、と言い、誰かが短く笑った。その笑いは、茶会の卓の笑いとは違って、疲れきった者の、息を一つ吐くような笑い方だった。やがて足音も笑いも聞こえなくなり、細い水の音だけが残った。灯の油が尽きた夜も、こうだった。灯芯がじじ、と小さく鳴って、それきり何も見えなくなった。あのときウロは、怖いというものを、まだ知らなかった。今、胸の奥で縮んでいるものがそれなのかどうかも、ウロには分からなかった。
暗闇に戻った。最初と同じ暗闇だった。




