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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第30話 洗い場の声

 次の朝、古い水路に煙は来なかった。代わりに、遠くの入口のほうから、男たちが何かを運び込む音と、石を打つ音が聞こえてきた。図面に半分しか載っていない道へ、松明(たいまつ)を持って奥まで入ってくる者はいない。入口のあたりで声が行き来し、何かを測るような短い掛け声が続いて、日が傾くころには梯子(はしご)の引き上げられる軋(きし)みが一つ聞こえ、水路はまた水の音だけになった。


 昼すぎには、上の街で鐘が鳴った。灯(ともしび)の夜の翌日に聞いたのと同じ、間を長く取った重い鳴り方だった。格子の上を通り過ぎていく足音の中で、誰かが、伯爵様のお屋敷で三人の弔(とむら)いだと言った。灯の夜に散ったお嬢様方の、と。


 ウロは板の上で、その鐘を数えた。数え終えても、胸のあたりの痛みは、窓辺の灯の前で知ったときのまま変わらなかった。頭の上の格子から差す光は、白から黄色へ、黄色から橙へと、いつもと同じ順に色を変えていく。ここには季節がなく、昼と夜の区別も、その色でしか分からない。煙の届かない古い水路の底で、光の色だけが、上の街に今日という一日があることを知らせていた。


◆


 夕方、ウロは鼠の形を借りて、洗い場の横穴を上がった。形を変える三つの息のあいだに、打たれた背中が鈍く疼(うず)き、骨が縮みきるまでに、いつもの倍ほどの時間がかかった。横穴の途中には、屋敷の裏の渡り廊下の端から、雨水を落とすための細い枝道が下りてきている。洗い場まで上がりきる前に、その枝道の口から、人の声が降ってきた。


「詰所(つめしょ)から、正式に知らせがあった。あの夜のことは、すべて、下水から入り込んだ害獣の仕業だと」


 旦那様の声だった。少し掠(かす)れていたが、居間で破談の手紙を読み上げた日よりは、低く落ち着いていた。


「では、リタへの疑いは」


「晴れた。もう誰も、あの子を魔女とは呼ばんだろう」


 奥様は、しばらく何も言わなかった。渡り廊下の板を踏む音が一つして、止まった。


「晴れた、と言っても……あの子は、今日も、何も話さなかったわ。弔いの席でも、ずっと、列の端に立ったままで」


「ああ」


「わたし、あの子に、よかったわね、とは……どうしても、言えなかった」


 足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。


 害獣、という言葉が、ウロの耳の奥に残った。駆除の触れに書かれていた名前で、紙の上では、闇の中の毛だらけのものも、背の高い男も、天井へ上る影も、その一言になっていた。怖いものには名前が要る、とヴェラは言っていた。名前がつけば、皆さん安心なさるのよ、と。リタに付けられるはずだった名前は、今は、ウロに付けられた名前のほうへ移っていた。


 ウロは、枝道の口の下で、今聞いた言葉を並べ直した。疑いは、晴れた。リタを魔女と呼ぶ口は、もうない。百年と言った口も、三つ続けて笑う口も、菓子を花壇へ放った手も、もうリタのまわりにはいない。それなら、今夜の声は、違う声になるはずだった。夏の格子の下で何十回も聞いた、謝ってばかりの声ではなく。喜ぶ声か、それとも、ほっと息をつく声か。どちらなのかは分からなかったが、ウロは、そのどちらかを待っていた。


◆


 洗い場は、灯の夜の翌々日に覗いたときと同じように暗く、石の流しは乾いていた。壁の棚には燭台(しょくだい)が一つ置かれたままで、甕(かめ)の水には薄い氷が張りかけている。横穴を吹き上がってくる水路の冷えと、格子の上から下りてくる冬の夜気とが、鼠の薄い毛皮の上でぶつかり合っていた。打たれた背中が、冷えるほどに疼きを増していく。


 月が洗い場の真上に来るころ、木の戸が開いた。


 ウロは格子の縁に爪をかけ、隙間から目だけを覗かせた。出てきたリタは、黒い服を着ていた。灯の夜に着ていた青い服ではなく、袖口まで黒い、喪服だった。結い上げた髪は崩れていなかったが、頬は、朝の台所でパンの端を差し出していたころよりも、ずっと薄く削(そ)げている。リタは片手の灯を壁の棚に置き、もう片方の腕に抱えていた鉢を、流しの縁に下ろした。


 リタは袖をまくらずに、鉢の布を取った。中の生地を板の上に出し、両手の付け根で押す。畳む。向きを変える。ことん、と板が流しの縁に当たって鳴った。その音は、格子の下で毎夜聞いていた音と同じだった。黒い袖口が生地に触れるたびに、白い粉が袖の縁に移って、灯の下で小さく光った。


 二度目に押したところで、リタの手が止まった。


「……ヴェラ様」


 声は、上から降ってくるのではなく、すぐそこにあった。息の詰まり方も、言葉と言葉のあいだの長さも、初めて格子の下で聞いた夜と同じ声だった。


「フィナ。……ドーラ様」


 一人ずつ、間を置いて呼んだ。フィナだけは、やはり様を付けなかった。リタは生地の上に両手を置いたまま、灯のほうではなく、足元の格子のあたりを見下ろしていた。


「フィナは……あの夜、昔みたいに、隣に、座ってくれたのにね。ドーラ様は、いつも、会釈を、してくださったわ。何もなかった日みたいに」


 ウロの爪が、格子の縁の石を掴(つか)んだ。かり、と小さな音がしたが、リタは顔を上げなかった。


「……あんなに、笑って、いらしたのに」


 リタの肩が、小さく揺れた。それから、また間を置いて、二つの名前が続いた。


「カミラ様。……ノエラ様」


 カミラ様は、まだ、寒いところに、お一人で、いらっしゃるのかしら。ノエラ様は、まだ、お言葉が、見つからないのかしら。リタはそう言って、黒い袖口の粉を、指先で一度だけ払った。払っても、粉は袖の縁に白く残った。


「暗くて……怖かった、よね。みんな。灯が、なくて。誰も、手を、握って、くれなくて」


 生地の上に、雫(しずく)が一つ落ちた。リタはそれを拭わずに、もう一度だけ生地を押そうとして、やめた。


「ヴェラ様は、あの夜……灯が戻りましたら、続きを伺いますって、おっしゃったの。わたし、まだ、お答え、していないの。魔女じゃ、ありませんって。お祈り、だったんですって。……でも、もう、お答え、できないのね。誰も、もう、待って、いらっしゃらないのね」


 ウロは、格子の下で動けなかった。リタは、喜んでいなかった。ほっと息をついても、いなかった。リタを笑った者たちのために、リタは喪服を着て、ひとりずつ名前を呼んでいた。窓辺の小さな灯の前で、カミラのために手を組んだときと同じだった。あのときウロは、笑った口がいなくなれば、リタの嘆きは一つ減るはずだと思っていた。今夜の声は、減っていなかった。格子の上から降ってくる名前の数は、夏よりも増えていた。夏には、ひと月のあいだに、ヴェラ様が二十一回、カミラ様が十四回だった。今夜は一晩のうちに、壁に刻んだ五つの名前が、一つ残らず呼ばれた。どの名前も、責める声では呼ばれなかった。


 夏の声は、自分のことを嘆いていた。うまく返せない、遅いから笑われる、どうしてわたしだけ、と。今夜の声は、一度も、自分のことを言わなかった。同じ声で、同じ場所で、同じ息の詰まり方をしているのに、中身だけが入れ替わっていた。なぜ入れ替わったのかを、ウロは並べようとしたが、どこから並べればいいのかが分からなかった。


 リタは生地を鉢に戻し、布をかぶせた。灯を取り、戸のほうへ一歩踏み出してから、足を止める。黒い背中が、灯の中で少しだけ丸くなった。


「……ごめんなさい」


 誰に謝ったのかは、分からなかった。名前を呼んだ者たちになのか、ほかの誰かになのか。戸が閉まり、洗い場が暗くなって、格子の下から、水の音だけが上がってきた。


 ウロは、格子の縁を掴んだまま、長いあいだ暗がりを見ていた。許せない、と、花壇の菓子を拾った日に、ウロは口の中で言った。その言葉を連れて、ここまで来たのだった。カミラの路地にも、ノエラの鏡の前にも、闇の一分の広間にも。


 自分の怒りは、彼女の嘆きを止めなかった。


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