第29話 水路の封鎖
騎士団が下の水路に入ってきたのは、家令の言ったとおり、翌日の朝だった。最初に届いたのは、川のほうの遠い出口で鉄を打つ音で、それが水路の天井を伝い、格子の下の板の上まで細く響いてきた。かん、かん、と間を揃えて続く音は、格子から差す光が白くなりきるまで止まなかった。ウロは板の上で体を起こし、湿った壁に耳を当てた。生まれて間もないころ、水の流れを辿って初めて天井のない川べりへ出たのは、あの出口からだった。
ウロは素の形のまま、流れに沿って出口のほうへ下りていった。人の形を借りる力は、まだ体のどこにも戻っていない。曲がり角をいくつか過ぎると、水路の先が橙色に明るんでいて、松明の煤の匂いと、男たちの声が流れてきた。出口の大きな口には、真新しい鉄の格子が嵌められようとしていた。その手前で、腰まで水に浸かった男たちが、太い杭を一本ずつ打ち込んでいる。
「こっちの口を塞いじまえば、獣は川へは逃げられねえ」
「娘が、屋敷街に奉公に出てるんだ。夜になると、怖くて眠れねえって泣くんだよ」
「伯爵様のお嬢様方だけじゃない。次は、誰の娘か分からないからな」
男たちの中には、鎧を着けた騎士団の者のほかに、前掛けをしたままの職人や、腕の太い荷運びらしい者も混じっていた。駆除の触れを見て、自分から集まってきた者たちなのだろう。誰も笑っておらず、冷たい水に震えながらも、杭を打つ腕を止める者はいなかった。茶会の卓のまわりでは一度も見たことのない、まっすぐな力が、その腕にはこもっていた。若い男が一人、流れに足を取られて水の中へ倒れかけると、両脇の者がすぐに腕を伸ばして引き起こし、肩を叩いて持ち場へ戻した。
ウロは、角の陰で動かなかった。あの者たちは、ウロを探しているのだ。闇の一分の中で何があったのかを、上の街の者は誰も見ていない。それでも、見ていないものを捕まえるために、これほど大勢が冷たい水へ入ってくる。闇の一分の中で叫んでいた者たちも、何もされてはいなかった。分からない、とウロは思った。
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昼を過ぎると、屋敷街のほうから煙が来た。
頭の上の格子が一つ、軋みながら開けられた。光の四角が水路の底に落ち、そこを伝って梯子が下ろされる。下りてきた男たちは、口と鼻を濡れた布で覆い、片手に松明を、もう片方の手に、口から煙を吐く素焼きの壺を提げていた。煙は黄色く濁っていて、水の上を這うように広がり、焦げた草と腐った卵を混ぜたような匂いを運んでくる。男たちが通り過ぎると、梯子は引き上げられ、格子が下ろされて、上で鎖を巻く重い音がした。一つ閉まると、少し先でまた一つ、格子の開く音がした。
煙は、ウロのいる角まで届いた。息を吸うと、喉の奥を細い棘で引っかかれたような痛みが走り、目の縁が熱く濡れる。奥の横穴から鼠たちがいっせいに走り出てきて、ウロの足の上を越え、流れの向こうへ逃げていった。その先に松明の光があり、棒が石を叩く音と、短い鳴き声がいくつも続いた。
「鼠一匹、通すなよ。獣の巣には、何が潜んでるか分からねえ」
ウロは、狭い横穴の一つに体を押し込んだ。この先には、路地の小さな格子がある。夏の初めに鼠の形で顔を出し、犬に吠えられて、なんだ、鼠か、と言われた格子だった。素の形のままでは、通れない。ウロは息を吸い込んで、骨を縮め始めた。
一つ目の息で、煙が胸の奥まで入ってきた。二つ目の息は、咳になって途切れた。変わりかけた骨が、どちらの形にも定まらないまま内側で軋み、視界の縁が一気に白く染まる。形を変えるには、三つの息が要る。けれど、三つ吸えば、煙のほうが先に体を満たしてしまうのだった。ウロは息を止めたまま、横穴の奥の煙の薄いところまで這い進んでから、ようやく三つ目を吸った。
鼠になって格子の下まで辿り着くと、格子の向こうには人の脚が二本立っていて、その脇で犬が低く唸っていた。鼻先を出したとたんに、犬が吠えた。
「鼠だ」
「鼠でも構わん。叩け」
棒の先が格子の鉄を打ち、細かい錆がウロの背中に降った。二度目の棒は、格子の隙間を抜けて、ウロの背を打った。ウロは横穴を転がり落ち、底の水に叩きつけられた。夏の初めには、鼠なら見逃してもらえた。今は、鼠でも見逃してはもらえなかった。
水の中で鼠の形を解きながら、ウロは、自分の持っている形を一つずつ数えた。旅の娘の形は、使えない。あの腕をリタが見ているし、その名前は、行方の知れない者として紙に載っている。宿の女中の形なら、市場の人混みは歩けた。けれど、駆除の者が立つ格子から年寄りの女が這い出してくれば、それが何に見えるのかは、ウロにも分かった。煙の中の男たちの形も、借りられなかった。濡れた布で顔を覆い、松明の向こうで背中ばかりを見せていた男たちの、布の下の顔を、ウロは一つも見ていない。見ていない顔は、作れない。先生に化けたときと同じ、正面に何もない形が、格子の上に出ていくだけだった。
◆
それから二日のあいだに、水路は一本ずつ閉じられていった。
朝になるとどこかで格子が開いて梯子が下り、昼には煙が流れてきて、夕方には、その道の先で格子の閉まる音がした。夜のあいだだけは煙が止み、男たちの足音も上の街へ引き上げていったが、明け方になれば、また別の格子で鉄の音が始まった。閉じられた道の格子からは、もう光が落ちてこない。ウロが匂いで覚えていた分かれ道は、黄色い煙の残り香と鎖の重さで、一つ、また一つと塞がれていった。食べるものも拾えず、伏せても煙の匂いが鼻の奥から抜けない。鼠の形で打たれた背中の痛みは、素の形に戻っても消えず、鈍い熱を持ったままだった。
どこへ逃げても、その先で鉄の音がした。川への出口も、屋敷街の路地の格子も、市場の下の太い水路も、男たちの松明がもう通ったあとだった。鼠の形を三度借りただけで、指先は痺れたまま戻らなくなった。ウロは煙の来ていない道だけを選び、狭いほうへ、暗いほうへと押されていった。
一度だけ、松明の光がすぐそばまで来た。ウロは壁の崩れた窪みに体を押し込み、息を止めた。光の輪が水の上を撫で、窪みの縁を撫で、ウロの足先の一歩手前で止まる。犬が鼻を鳴らし、男の一人が、何かいるのかと言った。別の男が、鼠の死骸だろうと答え、光は引いていった。その足音が遠ざかるまで、ウロは止めた息を吐かなかった。胸の中で、煙の残りが焼けるように疼いていた。
二日目の夕方、遠くで男の声がした。
「この先は、王都でいちばん古い水路だそうだ。図面にも、半分しか載っていない」
「明日は、そこからだな」
ウロが選んできた道は、気づけば、知っている道になっていた。天井が低くなり、壁の石が小さく丸くなって、苔の匂いが濃くなる。水は細く、足首を撫でるほどしか流れていない。この先には、灯の油が尽きた部屋がある。先生が背中しか見せずに出ていった部屋だ。そしてその手前に、板切れ三枚の、ウロの場所があった。
板の上に伏せると、格子の真下の壁に、五つの丸がぼんやりと見えた。大きい声と、見ている者と、昔の友の印には、まだ横線が引かれていない。その少し上の石の割れ目に指を入れると、小さく畳んだ紙の角が、湿気を吸ったまま指先に触れた。花壇から拾ってきた菓子の包みは、夏のときと同じ場所に、同じ畳み方のまま挟まっていた。煙の匂いはここまでは届いておらず、格子の閉まる音も、ずっと遠くに聞こえるだけだった。王都の下に張りめぐらされた水の道の中で、光の落ちてくる場所は、もうこのあたりしか残っていないようだった。
ウロは、水路の壁に開いた細い横穴を見上げた。苔に覆われた細い道の先で、小さな四角い灯が、かすかに揺れている。
最後の格子の向こうに、リタの屋敷の洗い場の排水口が見えた。




