第28話 獣の証言
灯の夜から丸一日、ウロは格子の下の板の上から動けなかった。一晩のうちに形を変えた回数を、ウロは数えていなかった。目と、腕と、裾の下のものと、喉と。どれも少しずつだったはずなのに、解いた体は水を吸った土のように重く、指の先に力を入れようとするたびに、肩の付け根の奥で鈍いものが軋んだ。格子から差す光が白くなり、黄色くなり、また暗くなるのを、ウロは伏せたまま見ていた。格子の真下の壁には、大きい声と、見ている者と、昔の友の印が、刻んだときのまま残っている。その上に横線を引こうとしても、爪を出すだけの力が、指のどこにも戻ってこなかった。
そのあいだも、上の街の音は格子を通って降ってきた。いつもより足音が多く、話し声は低い。昼のあいだに、遠くで鐘が何度も鳴った。祭りの夜の鐘とは違う、間を長く取った重い鳴り方だった。洗い場の格子の上を通り過ぎていく声は、どれも同じ夜の話をしていたが、どれ一つとして同じ話ではなかった。
「獣だったってさ。闇の中で、毛だらけの何かが脚に触ったって」
「いや、男だ。背の高い男が、楽団の壇の脇に立ってたのを見たって奴がいる」
「影だよ。灯が戻る前に、天井のほうへ黒い影が上っていったって」
「見た奴なんかいるもんか。真っ暗だったんだ。聞こえたのは、悲鳴だけだよ」
「伯爵様は、お嬢様の腕輪を握ったまま、一晩じゅう広間から動かれなかったそうだ」
ウロは、板の上でそれを聞いていた。毛は、生やしていない。背の高い男の形も、借りていない。影は、天井へ上ったかもしれない。闇の中で起きたことを、上の街は、それぞれが見たかったものの形にして話していた。
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二日目の朝、ウロは形を借りて地上へ出た。旅の娘の形は、使えなかった。あの形の腕を、リタが見ている。代わりに選んだのは、下町の宿の洗い場にいた年配の女中の形だった。一日と少しのあいだ、前からも後ろからも見ていた顔で、節の太い指や赤い手の甲まで、体が覚えていた。三つの息のあいだに骨が縮み、背が少し丸くなる。疲れの残った体には、それだけで額に汗が浮いた。
灯の夜が明けた王都は、灯を片付ける手も止まったままだった。下町の軒先には火の消えた灯籠が吊るされたままで、色硝子に溜まった煤が、朝の光の中で黒ずんで見える。広場の板絵の前には、指を折って数を数えていた子供たちの姿が一つもなく、白い顔の英雄だけが、誰もいない石畳に灯を掲げていた。
市場の掲示板の前には、カミラのときよりもずっと大きな人だかりができていた。板の真ん中に新しい紙が二枚並び、前のほうにいた男が、それを声に出して読み上げている。人の肩が何度もぶつかってきたが、年寄りの女の形に、どこ見てんだ、と言う者はいなかった。
「灯の夜、伯爵家の大広間に、下水より害獣入り込み、居合わせし者を襲えり。命を落とせし者、伯爵家ヴェラ嬢、フィナ嬢、ドーラ嬢」
人だかりが、低くざわめいた。男は咳払いを一つして、続きを読んだ。
「行方知れずの者、子爵家見習い、ウロ。同夜、控えの間より姿を消す。心当たりある者は、騎士団詰所まで申し出よ」
ウロ、と、知らない男の声が、人だかりの真ん中で読み上げた。広場で名乗ってから、ウロの名前をこんなに大きな声で呼んだ者は、一人もいなかった。周りの誰も、振り返らなかった。ウロも、振り返らなかった。呼ばれているのは、いなくなった見習いの娘で、ここに立っている年寄りの女ではないからだ。紙の上のどの黒い形がウロなのかは、ウロには分からなかった。名前は、初めて紙に載った。行方の知れない者の名前として。
「うろ、だとさ。変わった名前だ」
「見習いの娘は、窓から引きずり出されたんだと。袖の切れ端だけ、部屋に残ってたってよ」
「魔女の呪いだなんて言ってた連中は、どこへ行ったんだか」
「うちの旦那様もあの晩、扉の前で押されて腕を折ったんだ。獣を見たかって訊いたら、何も見えなかった、悲鳴しか覚えてないって」
隣の紙は、駆除の触れだった。王都の格子に近づくべからず。獣を見し者は詰所へ。仕留めし者には、褒美を取らす。読み上げた男は、紙を指で叩いて言った。
「熊だろうが魔物だろうが、人を襲った獣は、触れでも詰所の帳面でも、害獣の一言で済ませるのさ。名前を付けりゃ、片が付いたことになる」
獣の巣は下水だろう、と人だかりの誰かが言った。カミラの貼り紙の前で同じようなことを言った男は、周りに笑われていた。今度は、誰も笑わなかった。
王都の記録では、そういうものは皆、害獣と書かれるのだという。闇の中の毛だらけのものも、背の高い男も、天井へ上る影も、紙の上では一つの言葉になる。その言葉の隣に、ウロの名前は、襲われた側として並んでいた。リタは控えの間で、ウロに化け物という名前を付けた。触れは、害獣という名前を付けた。どちらも、ウロが広場で自分に付けた名前とは、別の場所に書かれていた。
人だかりの後ろを、黒い服の列が通っていった。黒い布を掛けた馬車が三台、ゆっくりと屋敷街のほうへ進み、その後ろを、黒い外套の男女が俯いて歩いていく。一台目の馬車の窓に、伯爵の横顔が見えた。闇の一分を告げた低い声の持ち主は、窓の外を見ずに、膝の上の何かを両手で包んでいた。最後の馬車の後ろでは、穏やかな顔立ちの年嵩の婦人が、両脇から支えられて歩いていた。何度も頷くように首を揺らしていたが、誰かの話に頷いているのではなかった。列が通り過ぎるまで、市場のざわめきは止んでいた。
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その夜、ウロは鼠の形で、子爵家の洗い場の横穴を上がった。格子の隙間から覗くと、流しの前で、年配の女中が手桶を洗っていた。そばの椅子には家令が腰を下ろし、膝の上で両手を組んでいる。洗い場の灯は一つきりで、二人の影が壁の上で動かずに伸びていた。リタが生地を捏ねていた石の流しは乾いていて、粉の匂いは、もうどこにも残っていなかった。
「まだ、お熱が下がらないんだよ。あの晩から、ずっと」
女中の声は、掠れていた。
「騎士団の方が、お話を伺いに見えたがな。旦那様がお帰しになった。お嬢様は、何もお話しできるご様子ではないと」
「お医者様は、怖い目にお遭いになったからだって。目が覚めても、あの晩のことは覚えていらっしゃらないかもしれないってさ」
女中は手桶を置き、前掛けで手を拭いた。それから、少しだけ声を落とした。
「うわごとでね……ウロさん、って。一度だけ、呼んでいらしたよ」
「一緒にいたのだからな。あの子が獣にさらわれるところを、見てしまわれたのかもしれん。混乱していらっしゃるのだろう」
家令がそう言うと、女中は返事をしなかった。代わりに、鼻をすする音がした。
「今度は、ちゃんと一緒に帰っておいでって……言ったのにねえ」
ウロは、格子の下で動かなかった。リタは、ウロさん、と呼んだのだという。控えの間の床の上で最後に聞いたのは、さんの付かない呼び方だった。熱の中で呼ばれたのがどちらのウロなのか、ウロには分からなかった。リタは、腕のことを誰にも話していない。それが、ウロを庇ったということなのか、何一つ伝わっていないということなのか。格子の上の灯を見上げても、その答えはどこにも書かれていなかった。朝の台所でパンの端を二つに分けたとき、リタの指はかさついていて、ウロの借りものの指よりもずっと温かかった。あの指が今、熱の中で何を握っているのかを、ウロは知らない。
家令が椅子から立ち上がり、戸口のほうへ歩きかけて、足を止めた。
「そういえば、詰所の者が言っていた。明日から、騎士団が下の水路に入るそうだ。格子を一つずつ開けて、獣の巣を探すと」




