第27話 来ないで
控えの間の燭台の炎は、窓の布の裾から入る夜気に、ときどき細く傾いた。廊下の先からは、広間の悲鳴がまだ途切れずに流れてきている。床に座り込んだリタと、その前に立つウロの影が、狭い部屋の壁の上で、炎が傾くたびに一緒に揺れた。
「……ウロ、だ」
答えると、喉の奥がわずかに軋んだ。訊かれたら、答える。宿の窓際でも、市場の屋台の前でも、ウロはずっとそうしてきた。声は、いつもの借りた娘の声のままだった。
リタは、その声を聞いて、いっそう目を見開いた。顔も声もウロのままで、腕だけが違う。そのことが、リタの目の中で、どうしても一つに繋がらないようだった。リタの視線は、灯の中の黒い爪とウロの顔とのあいだを、行っては戻り、戻ってはまた行く。床についた指が、石の継ぎ目を掻くように縮んだ。
「あなたは……何?」
リタは床の上を後ずさりながら、そう言った。青い裾が石の上を擦り、背中が椅子の脚に当たって、椅子が小さく鳴った。
何、と訊かれたのは、初めてだった。名前なら、訊かれたことがある。広場の老人に訊かれ、台所口で家令に訊かれて、ウロは自分で付けた名前を答えた。けれど、何なのかを訊いた者は、これまで一人もいなかった。ゴブリンの長老は、違う、と言った。宿の主人は、察しろ、と言った。誰もが、ウロが何ではないのかだけを言って、何なのかは言わなかった。ウロは、知っていることを並べようとした。人間ではない。魔物でもない。水路の底の、暗い洞で生まれた。先生は、どんな姿にでもなれると言った。
「ウロ、は」
そこで、声が崩れた。借りた娘の高い声の下から、別の声が浮かび上がってくる。低く素っ気ない男の声で、それが途中でゴブリンの喉の短い音に変わり、さらにその下で、鼠の細い鳴き声が擦れた。一つの口から、いくつもの声が重なって出てくる。一晩じゅう形を変え続けた体には、喉の形を一つに保っておく力さえ、もう残っていなかったのだ。ウロは、自分の声が崩れていく音を、自分の耳で聞いた。水路の天井から落ちた雫が、石の上で割れて散る音に似ていた。
リタが、両手で口を覆った。その指のあいだから、詰まった息が細く漏れた。
「来ないで」
ウロは、口を閉じた。ほめてほしかったのではない。分かってほしかった。何を、と訊かれても、ウロにも答えられない。それでも、格子の下で何十回も聞いた声の主にだけは、分かってほしかった。
ウロは、右の腕を人の形へ戻し始めた。この腕のせいなら、腕を戻せばいい。一つ目の息で爪が縮み、二つ目で硬い皮が肌の色へ沈んでいく。骨の縮む痛みが肩から首の付け根まで駆け上がり、目の縁がまた白くなった。三つ目の息を吐き終えたとき、腕は借りた娘の細い腕に戻っていて、裂けた袖から、肘の下だけがむき出しになっていた。千切れかけていた灰色の布が、ひらりとリタの足元へ落ちた。
リタは、その腕を見た。それから、ウロの顔を見た。人の形に戻った腕を見ても、リタの目の中のものは、戻ってこなかった。
「来ないで……来ないで」
ウロは、待った。台所の床で皿の欠片を前にしたときも、窓辺の小さな灯の前でも、ウロはそうしてリタの言葉を待ってきた。ゆっくりなら、切れない。リタはそう言って、丸いほうの縁を指で挟んだのだ。だから今も、リタの三つ目の息を、ウロは待った。
リタの息が、一つ、二つと震えた。三つ目の息は、吸われるより先に、声になった。
「化け物!」
リタの叫びが、狭い部屋の壁に当たって跳ね返った。茶会の卓でも、居間でも、洗い場でも、リタの声がこんなに大きくなるのを、ウロは一度も聞いたことがなかった。咄嗟の言葉が出てこない、と、格子の上の声はいつも嘆いていた。その言葉が今は、何も探さずに、まっすぐウロへ向かって飛んできた。
怖いものには、名前が要るの。小客間の扉の向こうで、ヴェラの声はそう言っていた。名前がつけば、皆さん、安心なさるのよ、と。リタは今、ウロに名前を付けたのだろうか。けれど、床の上で体を縮めているリタの顔は、少しも安心しているようには見えなかった。広場で自分に名前を付けた日と同じように、それで安心した者は、ここにも一人もいなかった。
◆
廊下の先で、いくつもの足音が向きを変えた。
「こっちだ、声がしたぞ」
「灯を回せ、奥の部屋だ」
剣の鞘が壁に当たる音と、金具の擦れる重い足音が近づいてくる。カミラの一件から屋敷街を見回っていた騎士団の者たちが、広間の騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。足音はもう、扉の外の廊下に入っていた。
ウロは、リタを見た。リタは椅子の脚に背を押しつけたまま、もうウロを見ていなかった。顔を伏せ、両手で耳を塞いで、小さく体を丸めている。ゴブリンの巣の窪みで、あの一匹が座っていた形に、どこか似ていた。お嬢様、とウロは呼ぼうとした。けれど、崩れた喉から出てきたのは、鼠の鳴き声に似た細く擦れた音だけで、リタの肩がまた一度、大きく震えた。
ウロは窓の布を払い、掛け金を外した。冷えた夜気が一度に流れ込み、燭台の炎が大きく傾く。窓枠に手をかけると、指先が氷のような木の冷たさを拾った。体を引き上げるだけで膝が震え、裂けた袖の端が窓枠の木に引っかかって小さく鳴ったが、ウロは窓枠を越え、庭の暗がりへ下りた。霜の降りかけた土が、足の裏で小さく鳴った。
頭の上で、庭の古い木が枝を鳴らした。乾いた音が一度だけ、冬の夜に響く。風はなかった。ウロは木の根元の、灯の届かない影の中に身を沈めた。
庭から見上げる館は、高窓という高窓に灯を戻して、夜の中に白く浮かんでいた。表の車寄せのほうからは、馬のいななきと、家の名を呼び合う声と、まだ止まない泣き声が、塀を越えて聞こえてくる。冷えた土が膝から体の芯へ染みてきて、あれほど熱かった肩の付け根が、今は凍えたように痺れていた。吐いた息が白く、目の前で崩れて消えた。
◆
窓の布の隙間から、控えの間が見えた。扉が開き、角灯の光と一緒に、鎧を着けた男たちが入ってくる。先頭の騎士が床の上のリタを見つけて、膝をついた。リタは何か言おうとして顔を上げたが、言葉は出てこなかった。唇が二度動いて、それから、体が騎士の腕の中へ崩れ落ちた。
ウロの体が、木の影から前へ出かけた。洗い場の夜と同じだった。呼ばれていないのに、体が勝手に前へ出ようとする。けれど、あの部屋でリタが最後に呼んだのは、ウロの名前ではなかった。ウロは根に爪を立てるようにして、その場に留まった。
騎士はリタを抱え上げた。リタの目は閉じていて、青い裾が騎士の腕から力なく垂れている。別の騎士が床から灰色の布の切れ端を拾い上げ、開いた窓を見て、何か短く言った。その声は、ウロのいる場所までは届かなかった。騎士は窓辺へ歩み寄り、角灯を庭の暗がりへ突き出した。光の輪は霜の白さだけを照らして、木の根元の一歩手前で止まった。椅子の上には、リタの外した手袋が、揃えて置かれたままだった。
そのとき、廊下のほうから、別の声がはっきりと聞こえた。
「こちらにも犠牲者が! 廊下だ、灯を持ってこい!」
リタを抱えた騎士は、その声のほうへ歩きながら、リタの顔を自分の胸に伏せさせるように抱え直した。
ウロは、木の根元から這い出した。庭の奥の塀際に、雨水を落とす格子があるはずだった。体じゅうが重く、指の一本さえ、自分のものではないようだった。土の上を三歩進んだところで、ウロは一度だけ振り返った。
扉の向こうへ消える直前、角灯の光が、リタの顔を照らした。閉じた目の端から、頬を伝って、細いものが光っていた。
リタは、泣いていた。ウロには、誰のために泣いているのか分からなかった。




