第26話 控室の扉
廊下の奥には、扉が三つ並んでいた。そのうちの一つの下の隙間から、細い光が床へ漏れている。広間の灯がまだ届かない暗がりの中で、その光の筋だけが、石の床の上に短く白く引かれていた。広間の悲鳴は、壁を何枚も隔てて、遠い水音のように背中のほうから流れてくる。廊下の石は冷えていて、ここまで歩いてきた足の裏から、体の重さがそのまま床へ沈んでいくようだった。ウロは壁に手を当てたまま、光の手前で足を止めた。扉の向こうから、息を詰まらせた女の声が聞こえてくる。
「助けて……お願い、リタ様、助けて……」
ヴェラの声だった。けれど、あの柔らかさはどこにもなかった。言葉は一つずつ途中で崩れ、崩れたところを荒い息が埋めている。それに重なって、もう一つの声がした。
「大丈夫、です……ここには、誰も。……大丈夫、ですから」
リタの声だった。糾弾のあと、年配の侍女に連れられて出ていった扉の先が、ここだったのだ。
扉に手をかける前に、ウロは裾の下で、もう一つ形を作った。闇の一分の中で、ヴェラの手首は一度、ウロの指から抜けていった。灯の下で見てもらうはずだったものを、見ないまま逃げていったのだ。それに、扉の内側で起きることは、リタの目に入る。扉の外なら、入らない。だから今度は、扉の外にも手を置いておく。細く、長く、床を這うもの。それを廊下の暗がりの壁際に沿わせて伸ばすあいだ、腰の奥の骨が軋み、白い縁取りが視界の半分まで迫ってきた。ウロは三つ目の息を吐き、扉を押した。
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控えの間は、狭かった。壁際に小さな卓が一つと、椅子が二つ。卓の上の燭台に灯が一本だけともっていて、誰かが廊下の灯より先に、ここへ火を置いていったらしかった。突き当たりの窓には厚い布が下ろされ、布の裾から入る夜気が、炎をかすかに傾けている。布の合わせ目の隙間からは、庭の冬の木々の影が黒く覗いていた。椅子の上には、手袋が一組、きちんと揃えて置いてあった。リタはここで一人、手袋を外して、言えなかった続きを探していたのだろう。
扉が開いた瞬間、ヴェラが悲鳴を上げた。白い服の裾は黒く汚れ、結い上げていた髪は片側だけ崩れて、肩に落ちている。ヴェラはリタの腕にしがみついていて、その手首には何もなかった。細い銀の輪が抜けていった跡が、赤く擦れて残っているだけだった。香水の甘さに冷えた汗の匂いが混じり、震える指が、リタの青い袖に深い皺を作っている。ヴェラの目は扉のほうを向いていたが、そこに立った侍女が誰なのかは、すぐには分からないようだった。侍女の顔を、ヴェラは覚えない。
リタの顔は、灯の下でも分かるほど白かった。目の縁が赤く、頬には乾いた涙の跡が細く光っている。結い上げた髪からは、ピンが一本外れかけていた。
リタは、考えるより先に動いていた。しがみつくヴェラを自分の背中へ押しやり、扉のほうへ一歩出て、両手を少しだけ横へ広げる。青い服の背中が、ヴェラの前に立った。茶会の卓ではいつも言葉が遅れて届いたリタの体が、今は誰よりも速かった。
それから、リタはウロの顔を見た。
「……ウロ、さん?」
広げていた手が、ゆっくりと下りた。リタの肩から、力が抜けていくのが分かった。
「よかった……。ウロさん、ヴェラ様が、ひどく、怯えていらして。何か、恐ろしい、ことが……。広間で、何か、あったの、ですか。悲鳴が、ずっと……」
ウロは、答えなかった。広間で何があったのかを、リタに言う言葉を、ウロは一つも持っていなかった。
「お嬢様。こちらへ」
リタがヴェラから離れれば、それでよかった。ウロは一歩、二歩と、部屋の奥へ進んだ。けれど、リタは動かなかった。背中の後ろで、ヴェラの手がリタの袖を握っている。リタはその手を振りほどかずに、困ったように首を振った。
「でも……ヴェラ様が、お一人に、なってしまう、から」
ウロは、その手を見ていた。リタの祈りを半分に切って、広間じゅうの口に配った手だった。その手が今、リタの青い袖を握り、リタの背中に隠れている。リタはそれを背に庇ったまま、ウロに向かって立っていた。ゴブリンの巣の窪みの一匹は、骨を差し出されても、壁の外へは出てこなかった。リタは今、その壁を作っていた者を、自分の背中で隠している。なぜなのか、ウロには分からなかった。
右の肘の奥で、骨が鳴った。
広間の柱の陰で指が伸びたときと、同じだった。止めようとして息を吸ったが、一つ目の息より先に、腕のほうが形を変えていた。腕の内側を、熱い砂が流れていくような痛みが走る。灰色の袖が肘のところで裂け、燭台の光の中に、人のものではない腕が出てくる。鈍い色の硬い皮が手首から指先まで続き、長い指の先で、黒い爪が灯を映さずに尖っていた。
ヴェラの悲鳴が、喉の奥で途切れた。ヴェラは、その腕を知っていた。闇の中で、自分の指が先に知ったものだった。リタはウロのほうを向いたまま、まだウロの顔だけを見つめていた。腕は、リタの目の高さよりずっと下にあった。
次の瞬間、ヴェラはリタの背を両手で突いた。
◆
リタの体が前へ泳ぎ、ウロの足元に倒れ込んだ。床に手をつく鈍い音と、短く詰まった息。外れかけていたピンが石の上で跳ねて、卓の脚の陰へ転がっていった。ヴェラはその隙に壁沿いを走って卓を回り込み、ウロの背中の向こうの扉へ飛びついた。
ウロは振り向いた。追うには、一歩を踏み出さなければならない。けれど、その一歩の先には、床に広がった青い裾と、そこから伸びたリタの手があった。踏めば、触れる。爪の先は、その手から指一本ぶんのところで止まった。今、リタに触れれば、この腕で触れることになる。扉が叩きつけるように閉まり、その縁が、床を這わせておいたものを敷居の上で挟んだ。焼けた針をもう一本差し込まれたような痛みが、腰の奥まで走った。
扉の外の暗がりで、床を這うものが、駆けていく足に触れた。
短い声が、扉の向こうで上がった。一度だけ高くなり、すぐに途切れる。廊下の先からは広間の悲鳴がまだ絶え間なく流れてきていて、途切れた声の上に、いくつもの声が重なっていった。どれが廊下の声で、どれが広間の声なのか、壁一枚こちら側からは聞き分けられないほどだった。ウロは扉の下の隙間から、伸ばしていたものをゆっくりと引き戻した。敷居を越えて戻ってくるそれは、廊下の冷えを吸って、出ていったときよりも冷たかった。裾の下でそれが元の形へ戻っていくと、腰の奥の痛みは鈍い重さに変わり、膝の裏まで下りてきた。
リタの肩は、その声にびくりと揺れた。けれど、リタは扉のほうを見ていなかった。燭台の灯はウロの前だけを照らしていて、ウロの足元から扉へ伸びる影の中は、床に倒れたリタの目の高さからは、ウロの裾に隠れて見えない。リタは床に手をついたまま顔を上げ、その目は、灯の中のウロの右腕に留まって動かなかった。
ウロは、左の手を差し出した。人の形のままの手だった。リタを起こそうとして身を屈めると、右の腕も一緒に下りてきて、黒い爪の影がリタの頬の上に落ちた。
「やめて」
ほとんど、息だけの声だった。リタの体が、床の上でわずかに後ろへずれた。
ウロは、手を止めた。何か言わなければならない気がしたが、何を言えばいいのかが分からなかった。リタが言葉を探すとき、ウロはいつも待ってきた。今は、言葉を探しているのはウロのほうで、待っている者は誰もいない。燭台の炎が揺れるたびに、爪の影がリタの頬の上で伸びたり縮んだりする。リタの目は、その影の持ち主を辿るように、腕からウロの顔へとゆっくり上がってきた。顔はウロのままで、声もウロのままだった。違うのは、腕だけだった。
「……ウロ、なの?」




