第3話 群れの作法
世間は上にあるはずだったが、階段は見つからなかった。代わりにウロは、水の流れていく先を辿ることにした。水は低いほうへ行く。低いほうへ、低いほうへと進むうちに、石の天井がふいに途切れた。上を探していたのに、下へ下へと進んだ先で、空に出たのだ。背後で水の音が遠のくにつれて、代わりに、聞いたことのない細かな音が周りに増えていった。
出た先は川べりで、背後には高い石の壁がそびえていた。夜だった。頭の上には何もなく、天井のない場所に、ウロは初めて立った。風が肌を撫でていくのも、草の匂いがするのも初めてで、足の下の土は石よりずっと柔らかかった。星は数えきれないほど多く、どれも動かずに光っている。見上げていると首が痛くなり、ウロは自分が上を向いたまま歩いていたことに、しばらく気づかなかった。最初に出会ったのは、人間ではなかった。
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丘の斜面に横穴が口を開けていて、そこがゴブリンの巣だった。ウロは二晩、近くの藪に潜んで群れを眺めた。巣の周りの草は踏み固められて低く、斜面の下には骨や皮を捨てる窪みがあるらしく、風向きによって酸っぱい匂いが流れてくる。小柄な体に灰色がかった緑の肌、尖った耳。言葉は短く、身振りが多い。聞いた声なら真似られるので、二晩のあいだに群れの言葉をいくつか覚えた。「来い」「待て」「食え」「違う」。それから、怒鳴るときの調子と、笑うときの調子も。すれ違うゴブリンたちは、互いの肩や頭を軽く小突いて挨拶を交わしていたが、その小突き方には強いものと弱いものがあって、強く小突かれる者はいつも同じだった。
三晩目、ウロはゴブリンになった。骨が縮んで耳が伸び、肌の色が藪の葉と同じ暗さに沈んでいく。視線がずいぶん低くなり、藪の枝が顔の高さに来て、葉先が頬を引っ掻いた。数呼吸ののちに、ウロは藪から這い出した。
横穴の入口には見張りが二匹立っていて、その手前の地面に、白い布を結んだ杭が一本打ち込まれていた。布には墨で何かの印が書かれている。ゴブリンたちはその杭を見ないようにして出入りしていたので、ウロも見ないようにした。皆がそうしているからだ。
「誰だ」
見張りの一匹が、槍の穂先をこちらへ向けた。節くれだった手は柄を握る指が白くなるほど力んでいて、穂先はかすかに震えている。向こうも怖いのかもしれない、とウロは思ったが、確かめる方法は分からなかった。
「群れに、入りたい」
覚えたての言葉を、ウロは一つずつ並べた。見張りたちは顔を見合わせ、鼻をひくつかせている。匂いを嗅いでいるのだ。藪の葉を体に擦りつけておいてよかった、とウロは思った。
やがて穴の奥から、背が曲がって片目が白く濁った年老いたゴブリンが、獣の骨を削った杖をついて現れた。杖が地面を突く音が、一歩ごとに穴の奥から近づいてきて、気がつけば見張りたちは揃って背筋を伸ばしていた。他の者たちが揃って頭を下げたので、長老だ、とウロは思った。「頭を下げろ」と見張りが小声で言い、ウロは言われたとおりに下げたが、下げすぎて額が地面につき、ついでに腹まで地面についた。見張りの一匹が喉の奥で笑ったが、長老は笑わず、濁っていないほうの目で、地面に伸びたウロをしばらく見下ろしていた。その目は、ウロの爪の先から耳の形までを順に辿っていく。擬態の粗を探しているようにも、ただ値踏みしているようにも見えたが、ウロにはどちらなのか分からなかった。
「……痩せているな」
「はい」
「狩りはできるか」
「できる」
できるかどうかは知らなかったが、牙も爪も、出そうと思えば出せる。
「一晩だ」
長老は杖で地面を突いた。
「一晩、様子を見る」
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横穴の中は、思っていたよりも広かった。煙の匂いと湿った毛皮の匂い、それに干した肉の、鼻の奥に残る匂いが満ちている。奥に向かって、獣の骨を組んで枠を作り、枯れ草を厚く敷いた寝床がいくつも並んでいた。寝床は奥ほど大きく、入口に近いほど小さい。ウロに与えられたのは、入口のすぐ脇の、いちばん小さな寝床だった。
群れには順番がある。寝る場所にも、話す順にも、通り道の端と真ん中にも。ウロがそれを知ったのは、その夜の食事のときだった。狩りに出ていた者たちが、四匹がかりで大きな猪に似た獣を引きずって戻り、肉が切り分けられて、穴の真ん中の平たい石の上に積まれていく。焚き火の上で脂が滴り、じゅ、と音を立てる。誰もがそれを横目で見ながら、何も言わなかった。いい匂いがした。ウロはもう何日も何も食べていなかったので、いちばん手前の肉を掴んで口に入れた。脂が舌の上で溶け、噛むたびに腹の底がじんわりとあたたかくなる。
二口目を噛んだところで、穴の中が静かなことに気がついた。全員がウロを見ている。誰も肉に手を伸ばさず、狩りから戻った者たちでさえ、石の前に膝をついたままじっと動かなかった。待っていたのだ。長老が、最初の一切れを取るのを。
骨の杖が、ウロの手の甲を打った。乾いた音がした。穴の中の誰も、声を上げなかった。焚き火の爆ぜる音だけが、やけに大きく響いた。
「誰が、食えと言った」
ウロは、打たれた手の甲と長老の顔を見比べた。じんと痺れる痛みよりも、意味が分からないことのほうが気になった。
「腹が、減っている」
「皆、減っている」
「肉は、まだたくさんある」
「だから何だ」
「たくさんあるなら、腹が減っている者から食べればいい。なぜ、待つ」
長老の濁った目が、ゆっくりと細くなった。
「長が先だ。次に、狩った者。それから、それ以外だ」
「なぜ」
「それが、群れだからだ」
答えになっていない、とウロは思ったが、それを口にする前に、周りの空気がさっきまでと違っていることに気づいた。誰もウロの隣に座ろうとしない。長老が一切れを取り、狩った者たちが続き、それから、それ以外の者たちが取る。ウロの番はいちばん最後で、石の上には骨と筋しか残っていなかった。それでもウロはそれを食べた。冷めた筋は固く、噛むたびに歯の間に挟まって、さっきの一口とはまるで違う味がした。今度は、食べてよいと言われたからだ。
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夜が更けると、入口では見張りが交代した。月が丘の端にかかると短い口笛が一つ鳴り、それを合図に新しい二匹が杭の脇に立つ。白い布が、夜風にかすかに揺れていた。
ウロは骨の寝床の上で丸くなった。枯れ草の下で骨の角が背中に当たり、少し痛い。穴の奥からは、誰かの寝息といびきが重なって聞こえてくる。煙の匂いがまだ天井に溜まっていて、目を閉じても、喉の奥にその苦さが残った。隣の寝床の者が、わざわざ寝床を引きずってウロから離れていった。ウロはそれを不思議に思った。肉を先に食べたのは、もう済んだことだ。その肉も、今はもう誰かの腹の中にある。それなのに、なぜ今になって離れていくのだろう。分からないまま、眠った。
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朝、入口から差し込む白い光で目が覚めた。群れはもう起きていて、昨夜の残りの肉が、昨夜と同じ順番で配られている。長老、狩った者、それ以外。ウロにも小さな切れ端が回ってきて、今度は誰も怒らなかった。
切れ端を噛みながら穴の中を見回して、ウロは気づいた。群れのいちばん端、光の届かない岩の窪みのような場所に、一匹だけ座っている者がいる。片方の足を引きずるように投げ出していて、その前には何もなかった。その一匹は膝を抱えて壁のほうを向いたまま、誰とも目を合わせようとせず、入口から伸びる細い光も、そこまでは届いていなかった。肉の切れ端は、その一匹の前だけを素通りしていく。まるで、そこには誰もいないかのように。




