第2話 先生の最後の言葉
声を聞くより、ずっと前のことだ。最初にあったのは匂いで、鼻の奥を刺す薬液の匂いと、濡れた石の匂い、それに何かが焦げてそのまま冷えたような匂いが混ざっていた。
次に、冷たさが来た。背中の下に平らで硬いものがあり、それが石の床だと知るのは、もう少し後のことになる。ウロは目を開けた。開けたつもりだったが、自分の目がどこに付いているのか、まだよく分からなかった。瞬きをするたびに、視界の端で何かが滲んだり縮んだりして、光の輪郭が定まらない。耳の奥では、自分の中を流れる液体の音が、ごぼごぼと低く鳴っていた。
薄暗い部屋だった。天井は低く壁は湿っていて、机が一つ置かれ、その上に硝子の器や細い管が並んでいる。灯は一つきりで、小さな炎が頼りなく揺れていた。壁の隅には黒ずんだ染みが広がり、天井からは水滴が一定の間をおいて落ちて、床の窪みに小さな水たまりを作っている。机の脚には、何かで削ったような傷が幾筋も残っていた。体は濡れており、とろりとした薬液が肌の上をゆっくり流れ落ちていく。もっとも、それを肌と呼んでいいのかは怪しかった。持ち上げた腕は暗い色で、鱗の生えた場所と毛に覆われた場所と、そのどちらでもない湿った場所が、まだらにつながっている。指を数えようとしたが、数えるたびに本数が違った。指先で触れた石は冷たく、爪で引っ掻くと、粉のようなものが少し剥がれて落ちた。それが自分の爪なのか、別の何かなのかも、ウロには区別がつかなかった。
「起きたか」
声がした。机の前に人間が一人立っていて、こちらに背を向けている。くたびれた上着の背中が、器具を一つずつ取り上げては足元の鞄へ詰めていた。上着の肩は片方だけ下がっていて、長いあいだ同じ鞄を同じ側で提げてきた人間の背中に見えた。器具を取る手つきだけが、声の素っ気なさに似合わず、妙に丁寧だった。顔は見えず、最後まで見ることはなかった。
「聞こえているなら、それでいい。言葉は分かるはずだ」
分かった。なぜ分かるのかは分からないが、耳に入った音が勝手に意味へと変わっていく。それは水が器に満ちていくのに似ていて、止めようとしても止まらなかった。
「お前には、あらゆる魔物の因子を入れてある」
言葉のあとに、短い間があった。硝子の触れ合う小さな音がその隙間を埋め、ウロは、その音が止むのを待った。人間は振り向かず、手も止めない。
「牙も、鱗も、翼も、毒も。足りないものはない。だから、どんな姿にでもなれる」
そこで先生は、いったん口を閉じた。何か続けようとしたのかもしれないが、器具が鞄の底に当たる乾いた音が、その先を遮った。ウロにはそれが、言い残したことなのか、言うまでもないことなのか、見分けられなかった。
ウロはその言葉を体の内側で確かめた。確かに何かがあった。無数の形が折り畳まれて眠っていて、どれも呼べば起きてきそうな気がする。何か言おうと口らしき場所を動かすと、喉の奥で音が組み上がっていった。
「あなたは」
出てきたのは、目の前の人間とまったく同じ声だった。ウロがそれまでに聞いた声は、その一つしかなかったからだ。人間の手が一瞬だけ止まり、短く息を吐く。笑ったのかもしれない。
「先生、とでも呼べ。もう呼ぶ機会もないだろうがな」
鞄の口が閉じられた。人間――先生は、灯を一つ机に残したまま鞄を持ち上げる。
「好きな形になれ」
それが、ウロに向けられた最初の言葉だった。
「あとは、世間に学べ」
それが、最後の言葉になった。ウロは口を開きかけたが、続ける言葉が見つからず、喉から出てきたのは息だけだった。足音が部屋の外の暗がりへ一定の調子で遠ざかり、やがて水の音に紛れて聞こえなくなる。先生は名前をくれなかったが、それが足りないものだということも、ウロはまだ知らなかった。
◆
好きな形になれ、と言われたので、なってみることにした。最初は鼠で、床の隅を走っていくのを見たから、それにした。体の内側で骨が順番を入れ替え始め、小石を一つずつ並べ直すような、こつ、こつという音が頭の中まで響く。痛くはないが、くすぐったいような気持ちの悪いような感覚が、背骨に沿って這い上がっていった。最初に縮んだのは手足で、指が一本ずつ溶けるように短くなり、爪が細く尖っていく。視界はぐんと低く広がって、さっきまで見上げていた机の脚が、太い柱のように見えた。息を一つ吸い、二つ吸い、三つ目を吐き終えるころには、床がずいぶん近くなっていた。
鼠にはなれたが、尻尾だけが体の三倍ほどの長さになっていて、三歩進んだところで自分の尻尾に足を取られて転んだ。次は、天井の隅にぶら下がっていた蝙蝠をそのまま真似た。背中から生えた翼の膜は薄く、空気のわずかな動きまで肌が拾って、背中がむず痒かった。翼は生えたものの羽ばたき方が分からず、床に落ちて、冷たい石に頬を押しつけたまま、しばらく天井を見上げていた。
その次は、先生にした。いちばん長く見ていた形だったからだ。骨が伸びて背が高くなり、くたびれた上着の皺まで、それらしく皮膚の上に浮かび上がる。足の裏に石の冷たさが戻り、二本の脚で立っているという感覚が、鼠のときとはまるで違うことに、ウロは少し驚いた。机の上の硝子の器に姿が映ったが、背中はよくできていても、正面には何もなかった。目も鼻も口もなく、のっぺりとした肌が灯の光を鈍く照り返しているだけだった。ウロは、先生の背中しか見ていなかったのだ。元の形に戻ると、どっと体が重くなり、床に伏せたまましばらく動けなかった。
◆
それから何日か、ウロは部屋で形を試し続けた。鼠の尻尾は正しい長さにできるようになったが、蝙蝠はまだ飛べず、先生の顔も作れないままだった。腕だけを鉤爪に変えることはできたし、目だけを暗がりでよく見える獣の目にすることもできた。けれど、鼠でいながら蝙蝠の翼を持つことはできず、形は一度に一つずつしか選べないらしい。疲れてくると、まず指先から力が抜け、次に視界が白く縁取られていく。そうなる前に戻ることを、ウロは何度目かの失敗で覚えた。眠りは浅く、目覚めるたびに、体にまとわりついていた薬液の匂いが、少しずつ薄れているのが分かった。
声も試した。出せるのは先生の声だけで、鼠の鳴き声は、一度聞いたあとで出せるようになった。一度も聞いたことのない声は、どうやっても喉から出てこない。形を変えても頭の中身は変わらず、蝙蝠になっても飛び方は分からなかった。知らないことは、知らないままなのだ。
やがて机の灯の油が尽きた。灯芯が最後にじじ、と小さく鳴り、炎が豆粒ほどに縮んで消える。部屋は真っ暗になったが、ウロは怖いというものをまだ知らなかったので、そのまま目を開けていた。先生は、戻らなかった。ウロは暗闇の中で、先生の言葉を思い返した。好きな形になれ、というのは、やってみた。あとは世間に学べ。だが、世間が何なのか、先生は言わなかった。
考えて、考えて、ウロは一つの答えに辿り着いた。世間というのは場所の名前で、先生はそこへ行ったのだろう。先生の足音を、頭の中で何度も再生してみる。調子は一定で、途中で迷う気配がなかった。迷わない足音は、行き先を知っている者のものだろう、とウロは考えた。足音はどちらへ向かっていたか。水の音に紛れる直前、わずかに上のほうへ響いていた気がする。世間は、上にある。
ウロは暗がりの中で体を起こし、足の形を、濡れた石の上でも滑らないものに変えた。数呼吸のあいだ骨が鳴り、それから、階段を探しに出た。




