第1話 灯が戻る前に
灯が消えた。大広間を照らしていた無数の灯がひと息に落ち、楽団の弦が途切れて、笑い声だけが行き場をなくして宙に残った。
今宵は灯の夜、その中ほどに置かれた闇の一分である。客たちは目を閉じて胸に手を当て、遠い昔に世界を救った誰かを想う。短い沈黙の儀礼だった。誰も怖がってはいない。暗闇は一分で終わると、決まっているからだ。
ウロは、数を数えていた。一。暗さには慣れている。生まれた場所は、ここよりずっと暗かった。
二、三。高窓から落ちる星明かりが細く残る中で、衣擦れの音と誰かの小さな咳払いが聞こえる。香水の甘さに、消えたばかりの蝋の匂いが混ざり合っていた。灯を落とした広間は、思っていたより冷える。人いきれの熱が薄れて、高窓の隙間から入る夜気が、首筋のあたりをゆっくりと撫でていった。四。床板が一枚、短く鳴ったが、誰も目を開けない。祈りの最中に目を開けるのは、行儀の悪いことだからだ。
五。硝子の割れる音がした。細い杯が石の床で弾けた音で、くすり、と誰かが笑う。暗がりで手を滑らせた粗忽者を、暗がりのまま笑ったのだった。祈りの空気を壊さない程度に、誰もが声を抑えている。その小さな笑いも、すぐに衣擦れの中へ溶けて消えた。
六。二つ目の音は、硝子ではなかった。重く、そして柔らかい。厚い布に包まれた何かが床に倒れ伏す音で、広間の空気が一拍だけ止まった。ウロはその音を、頭の中で一度だけなぞってみた。さっきの杯とは違う、鈍くて短い響きだった。それに続くはずの声は、まだどこからも聞こえない。
七。最初の悲鳴は、遅れてやってきた。高い声が二つになり、四つになり、波になって広間の端から端まで打ち寄せる。椅子が倒れ、皿が落ち、誰かが誰かの名を呼んだが、返事はない。「灯を!」「灯をつけて、早く!」と叫ぶ声が重なっても、灯は戻らなかった。闇の一分は、まだ終わっていない。
暗がりの中で、人の熱だけが急に濃くなった。誰かの荒い息がすぐ近くで聞こえ、肩や袖が何度もぶつかっては離れていく。香水の甘さに汗の匂いが混ざり、先ほどまでの静けさは、もうどこにも残っていなかった。
ウロは数え続けた。二十、三十。悲鳴の波の下で、自分の数だけが正しく進んでいく。「やめて」「誰か」「どこ、どこにいるの」という声を聞きながら、耳を澄ませた。悲鳴は一つの声ではなく、いくつもの声が重なってできていて、怯え方の高さも長さも、一つ一つ違っている。それを聞き分けたうえで、ウロは首を傾げた。分からない。叫んでいる者たちは、誰も何もされていないのに、なぜあんなに叫ぶのだろう。
四十。裾を踏まれた誰かが転び、扉に人が押し寄せて取っ手が激しく鳴る。蝶番が軋み、誰かの爪が木の扉を掻く嫌な音が、悲鳴の合間に混じって聞こえた。押す者と引く者がぶつかり合って、扉はなかなか開かなかった。五十。あと、十。
ウロは、手の中にあったものをそっと放した。それが床に落ちる音は、悲鳴に紛れて誰の耳にも届かない。指先には、握っていた形がまだ残っていて、それが消えるまでの短いあいだ、ウロは自分の手をじっと見下ろしていた。五十一、五十二。灯が戻れば、皆が見る。ここで何があったのかを。見れば分かるはずだ、とウロは思った。ウロがずっと分からなかったことも、きっと。
五十八。
五十九。
灯が――
◆
半年前。
王都の下には、水の道が通っている。石を積んだ古い水路で、上の街が流したものはすべてここへ落ちてくる。雨水も、洗い物の水も、誰かの食べ残しも。光はほとんど届かず、天井のところどころに嵌められた鉄の格子から、細い月明かりが差し込むだけだった。ここには季節がなく、昼と夜の区別も、格子から差す光の色でしか分からない。
ウロは、その格子の一つの下にいた。水音は絶えることがない。壁を伝う雫の音、足元を流れる黒い水の音、遠くで何かが鼠を追い回す音が、石の壁に反響して混ざり合っている。空気は冷たく湿っていて、息をするたびに苔と泥の匂いが喉の奥に貼りつくようだった。
ウロは人間ではなく、魔物でもない。どちらの形にもなれるが、どちらの群れにも長くはいられなかった。だからここにいる。ここなら、誰にも何も言われないからだ。格子を通ると、上の街の音は丸くなって届く。馬車の車輪や人の足音、遠い鐘の響きを聞き分けることはできても、それが何を意味するのかを、ウロはほとんど知らなかった。
その夜、頭上の格子から水が落ちてきた。ぬるい水で、石鹸の匂いがする。上で誰かが洗い物をしているらしく、ウロは場所を少しずらした。濡れるのは構わないが、石鹸の匂いはいつまでも鼻に残るのだ。
水が止み、そのあとに声が落ちてきた。
「……どうして」
女の声だった。若く、細くて、ところどころで息が詰まる。上の人間の声なら、ウロは何度も聞いてきた。笑い声も怒鳴り声も、格子を通るうちに丸くなって落ちてくる。だがこの声は、丸くならずに角を残したまま、まっすぐ耳に届いた。
「どうして、わたし、うまく返せないの」
ウロは顔を上げた。格子の向こうに人の姿は見えず、月明かりと石の縁と、そこから垂れる雫があるだけだった。
「考えていたの。ちゃんと、考えていたのに」
誰かに話しかけている声ではなく、答えを待つ間もなく次の言葉が落ちてくる。
「何か言わなきゃって。気の利いたことを、言わなきゃって。それで、やっと言葉が見つかったころには……みんな、もう次のお話をしていて」
小さく、鼻をすする音がした。
「笑われるの。いつも。悪いのは、わたしなの。わたしが、遅いから」
ウロは黙って聞いていた。言葉の意味は分かる。分からないのは、その並び方のほうだった。遅い、だから笑われる、だから悪い。それがなぜ一本の糸のように繋がるのか、ウロには見えなかった。自分の胸のあたりを押さえてみたが、そこに何があるのかは分からない。ただ、声が詰まるたびに、その場所が小さく縮むような気がした。
「わたしも、同じなのに」
声が、少しだけ強くなった。
「同じように生まれて、同じように教わって、同じ場所にいるのに。どうして、わたしだけ……」
そこで声は途切れ、しばらくして、格子の上のどこかで戸の閉まる音がした。それきりだった。ウロは声の主の顔を知らない。ただ、息の詰まり方や、鼻をすする間の取り方を、耳が勝手に覚えていた。月明かりが格子の端から端へ移り終えるまで、ウロは長いあいだ上を見上げていた。
◆
次の夜も、声は来た。先に水が落ちて石鹸の匂いがし、それが止むと声が降ってくる。「今日も、だめだった」と。その次の夜には「ごめんなさいって、言えばよかったのかしら。でも、何に謝ればいいのか、分からなくて」と言い、そのまた次の夜も、声は来た。月が格子の真上に来るころに水が落ちて、止んで、声が来る。毎夜、同じ順番で、同じ時刻に。
ウロはいつしか、格子の下で待つようになった。水のかからない位置に体を丸め、石の冷たさを背中で受けながら、声の言葉の数や息を詰まらせる回数を数える。雫が肩に落ちても、ウロは動かなかった。声の調子は夜ごとに違い、高い日もあれば、ほとんど囁きに近い日もあって、そのたびに数え直さなければならなかった。数えても答えが出ないことは分かっていたが、他にすることもなかった。
声の主は人間で、声が口にする「みんな」も人間だ。同じ場所にいる、と声は言った。同じように生まれた、とも。ウロは、自分が群れから弾かれる理由を知っている。形が違い、作法を知らず、当たり前のことが当たり前にできないから、追い出されるのだ。それは分かる。何度もそうされてきたからだ。
けれど、この声の主は違う。同じ形をして、同じ言葉を話し、同じ場所に生まれている。それなのに。
同じ種族なのに、なぜ居場所がないのか。
ウロには分からなかった。




