第24話 闇の一分
伯爵の声が天井の高いところへ吸われていくのと同時に、柱という柱の陰で、真鍮の椀が一斉に掲げられた。四日前、使用人頭が何度も手を打って揃えさせていた動きは、今夜は一度で揃った。椀が燭台の上へ下りると、広間を照らしていた無数の灯はひと息に落ち、楽団の弦が途切れて、笑い声だけが行き場をなくして宙に残った。
一。ウロは、数え始めた。闇の一分は六十を数えるあいだのことだと、子爵家の女中から聞いている。灯守の砂時計がどんな速さで落ちるのかは知らないが、格子の縁から雫が落ちる間隔なら、体が覚えていた。その間隔で六十を数えれば、それが一分になるはずだった。
ウロは手にしていた盆を、柱の根元へ音を立てずに下ろした。それから目を閉じる代わりに、目だけを獣のものに変えた。瞼の裏が熱を持ち、目の縁がひりつく。暗さには、慣れていた。生まれた場所は、ここよりずっと暗かったのだ。
二、三。高窓から落ちる細い星明かりが、獣の目には十分だった。灯の色を失った広間は灰色の濃淡だけでできていて、胸に手を当てた五十と少しの影が、石の床の上で同じ向きに頭を垂れている。衣擦れの音と、誰かの小さな咳払い。香水の甘さに消えたばかりの蝋の匂いが混ざり、人いきれの熱が薄れて、高窓の隙間から入る夜気が、首筋をゆっくりと撫でていった。
その夜気の向こうで、庭の木の枝が鳴った。乾いた音が一度だけ、高窓の外から降ってくる。首筋に触れる夜気は、枝を鳴らすほどには動いていなかった。広場でも子爵家の洗い場でも、同じ音を聞いた気がしたが、ウロは耳をそちらへ向けなかった。数を、乱したくなかった。
フィナは、リタの空いた椅子の隣に座ったまま、目を閉じずに手提げの口を探っていた。ドーラは壁際の卓で年嵩の婦人たちに挟まれて立ち、言われたとおりに胸へ手を当てている。奥の布の前には伯爵の大きな影があったが、その脇にいたはずの白い服の影は、もうなかった。灰色の影が一つ、立ち並ぶ客たちのあいだを縫って、真ん中の卓のほうへ進んでいる。灯が戻ったとき、誰よりも先にリタの椅子の前に立っているためだろう。
四。ウロは柱の陰を出て、楽団の壇の端を横切った。石の床の中で、そこだけが板張りになっている。足の下で板が一枚、短く鳴ったが、誰も目を開けなかった。祈りの最中に目を開けるのは、行儀の悪いことだからだ。茶会の卓で誰もリタの三つ目の息を待たなかったように、今は誰も、自分の閉じた瞼の外で何が動いているのかを、確かめようとはしなかった。
◆
五。フィナの手が、手提げから抜けた。指先に、白く小さな布がつままれている。小客間で、ヴェラがカミラのハンカチと呼んだものだった。フィナはそれをリタの椅子に置こうとして身を乗り出し、その袖の先が、卓の上の細い杯に触れた。杯は卓の縁を転がって、石の床で弾けた。くすり、とどこかで誰かが笑う。暗がりで手を滑らせた粗忽者を、暗がりのまま笑う声だった。
ウロは、そのときもうフィナの後ろに立っていた。灰色の袖の下で、右の腕の形を変える。一日じゅう同じ形を保ってきた肩の付け根に、焼けた針を差し込まれたような痛みが走り、ウロは息を細く吐いてそれをやり過ごした。フィナの髪から、乾いた花のような匂いがした。フィナはまだ、自分の手元だけを見ていた。
六。
重く、柔らかい音がした。厚い布に包まれた何かが、石の床に倒れ伏す音だった。広間の空気が、一拍だけ止まる。白いハンカチはリタの椅子には届かずに、ひらりと床へ落ちていった。さっきの杯とは違う鈍くて短い響きを、ウロは頭の中で一度だけなぞった。それに続くはずの声は、どこからも聞こえない。曲げた指の先に温かいものが残っていて、それを高窓からの夜気が、ゆっくりと冷やしていった。
七。卓の向こうから、手が伸びてきた。
「……フィナ?」
ヴェラの声だった。ヴェラは目を閉じたまま、倒れた音のしたほうへ手を探らせ、その指が、ウロの右の腕に触れた。柔らかい指は一度、何かを確かめるように腕を握り、それから凍りついた。人の腕ではないものを、指が先に知ったのだ。ウロは左の手で、その手首を掴んでいた。細い手首の内側で、脈が速く打っていた。
まだだ、とウロは思った。ヴェラには、灯が戻ってから見てもらわなければならない。空いた椅子を。笑っていた口が、笑えなくなったところを。ウロが指の力を緩めると、ヴェラは腕をもぎ離し、その拍子に、細く冷たい輪がウロの手のひらの中へ滑り落ちてきた。
最初の悲鳴は、遅れてやってきた。ヴェラの喉から出た高い声が二つになり、四つになり、波になって広間の端から端まで打ち寄せる。椅子が倒れ、皿が落ちて、白い服の影は悲鳴の中へ紛れていった。「灯を!」「灯をつけて、早く!」と叫ぶ声が重なっても、灯は戻らない。火打ち石も付け木も、今夜は広間から下げられていた。
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暗がりの中で、人の熱だけが急に濃くなった。目を開けても何も見えない客たちが手探りで押し合い、肩や袖がウロの体に何度もぶつかっては離れていく。その中に、名を呼ぶ声があった。
「フィナ? ……ヴェラ?」
ドーラの声だった。茶会の卓ではいつも頷くばかりで、自分からは何も言わなかった口が、今は二つの名を何度も呼んでいる。返事はなかった。ドーラは壁際の卓から離れ、目を開けたまま、見えない広間へ両手を差し伸べていた。見ている者の目は、今夜はじめて、何も見えていなかった。
ウロは押し合う影のあいだを抜けて、その声のほうへ進んだ。壁の上で四つ目の丸から空っぽの丸へ引いた一本の溝を、爪の先が覚えていた。
「どなた……? そこに、どなたか」
ドーラの声は、そこで途切れた。今度の音は、悲鳴に紛れて、誰の耳にも届かなかった。
二十、三十。悲鳴の波の下で、自分の数だけが正しく進んでいく。「やめて」「誰か」「どこ、どこにいるの」という声に、ウロは耳を澄ませた。悲鳴はいくつもの声が重なってできていて、怯え方の高さも長さも、一つ一つ違っている。それを聞き分けたうえで、ウロは首を傾げた。叫んでいる者たちは、誰も何もされていない。それなのに、なぜあんなに叫ぶのだろう。
目の奥が、白く縁取られ始めていた。目と腕の二つを変えたまま動き続けたせいで、指の先から力が抜けていく。ウロは柱の陰まで戻り、右の爪を柱の石の継ぎ目に掛けた。かり、と石を噛む硬い音は、格子の下の壁を刻むときと同じだった。高窓の脇を過ぎ、吊り灯の鎖が掛かる太い梁の上へ、体を引き上げる。どこか遠くで小さな掛け金の外れる音がした気がしたが、それはすぐに、扉を叩く音に呑まれた。
四十。下では裾を踏まれた誰かが転び、両開きの扉に人が押し寄せて、取っ手が激しく鳴っていた。蝶番が軋み、誰かの爪が木の扉を掻く音が、悲鳴の合間に混じる。押す者と引く者がぶつかり合って、扉はなかなか開かなかった。廊下の向こうの灯守の間の扉も、最後の砂が落ちるまでは、何があっても開かないのだ。
五十。あと、十。
梁の上で、ウロは左の手を開いた。手のひらに、ヴェラの手首から抜けた細い銀の輪が載っていた。持っていても、ウロには使い道のないものだ。ウロはそれを、暗い広間へそっと落とした。床に当たる音は、悲鳴に紛れて誰の耳にも届かない。指先には握っていた輪の形がまだ残っていて、それが消えるまでの短いあいだ、ウロは自分の手をじっと見下ろしていた。
五十一、五十二。右の腕を、人の形へ戻していく。骨が縮む痛みが肘から肩へ駆け上がり、目が元に戻るにつれて、広間は何も見えない暗がりへ沈んでいった。灯が戻れば、皆が見る。ここで何があったのかを。見れば分かるはずだ、とウロは思った。ウロがずっと分からなかったことも、きっと。
五十八。
五十九。
灯が――




