第23話 糾弾
九つの鐘からの一時間は、ウロが思っていたよりも長かった。楽団は休みなく弦を鳴らし、客たちは杯を手に卓から卓へ渡り歩いて、広間の熱は少しずつ濃くなっていく。ウロは盆の杯を配っては空の杯を下げ、そのたびに柱の陰の同じ場所へ戻った。真ん中に近い卓で、リタの前の杯は一度も減らず、皿の菓子にも、リタの指は一度も伸びなかった。夏の日除けの下と、同じだった。
二度目に杯を下げに出たとき、ウロはリタの卓のそばを通った。リタは顔を上げ、盆を持ったウロを見つけると、膝の上で握り合わせていた手を、少しだけほどいた。
「……大丈夫、です」
誰に訊かれたわけでもないのに、リタはそう言った。居間で縁談の手紙が読み上げられた日と、同じ言葉だった。ウロは何か返そうとしたが、隣の卓の客がこちらを見ているのに気づいて、黙って盆を持ち直した。フィナは、リタの隣で手提げを膝に載せたまま、一度もこちらを向かなかった。
奥の布の前でヴェラが立ち上がったのは、ウロが三度目に杯を下げに出たときだった。ヴェラが軽く片手を上げると、楽団の弦が一つずつ止み、広間の話し声も、端のほうから順に静まっていった。決して大きくはないのに、皆がそちらを向く。壁に太い線を刻んだ夜に、ウロが大きい声と呼んだものだった。
「闇の一分の前に、皆さまのお胸のつかえを、下ろしておきたいの」
ヴェラはそう言って、真ん中の卓のほうへ手を差し伸べた。
「リタ様。こちらへ、いらしてくださる?」
◆
リタは立ち上がり、広間の真ん中まで歩いた。歩くあいだ、客たちはまた半歩ずつ下がり、リタのまわりに空いた床が、さっきよりも大きくなった。ヴェラはリタの前に立ち、困ったように眉を寄せて、柔らかく微笑んだ。
「皆さま、ご不安なの。カミラのこと、ノエラのこと。リタ様のお口から、何もご存じないと、そうおっしゃっていただければ、それでいいのよ」
広間の誰も、声を立てなかった。楽団の弓は弦の上で止まったままで、杯を置く音さえしない。リタは唇を開き、そして閉じた。手袋をはめた両手が、胸の前で互いを握り、握ったまま細かく震えている。言葉を探している顔だった。息を一つ吸い、二つ吸う。
「答えられないのかしら」
客の誰かが言い、別の誰かが小さく笑った。三つ目の息を吸ったところで、ヴェラはリタではなく、卓のほうを振り返った。
「フィナ。あなた、何かリタ様から伺っていたのではなくて?」
フィナが立ち上がった。手提げを胸に抱え、顔は灯の下でもはっきり分かるほど白い。フィナは一度だけリタのほうを見て、それから床に目を落としたまま、言った。
「……リタは、眠れない夜には、灯をともして。その日に、意地悪をした人の名前を、一人ずつ、呼ぶのだと。……わたしに、そう、話してくれました」
フィナの口は、そこで閉じた。続きがあることを、ウロは知っていた。小客間の扉の向こうで、フィナ自身がその続きを言いかけたのだ。その人が、明日は優しくありますようにって。けれどフィナの唇は、それ以上動かなかった。言葉を一つ置くたびに息を詰まらせるその話し方は、格子の上から降ってきたリタの声に、どこか似ていた。
広間の静けさが、ほどけた。名前を、と誰かが言い、呼ぶのですって、と誰かが続ける。カミラ様の。ノエラ様の。窓に夜中まで灯が。囁きは卓から卓へ渡り、渡るたびに少しずつ形を変えて、広間の端まで届いていった。続きは、皆さんが考える。ヴェラの言ったとおりだった。壁際の婦人の一人が、灯の夜にこんな、と言って胸に手を当て、隣の男は、だから子爵家はと言いかけて口をつぐんだ。誰も、リタに向かっては何も言わなかった。言葉はどれも、リタの頭の上を通って、別の誰かの耳へ渡されていった。
「ちが……それは、あの……」
リタの声が、囁きの中で細く揺れた。
「お祈り、で……」
その声は、誰の耳にも届かなかったように見えた。届いた者がいたとしても、聞こえない顔をしていた。ヴェラが皆を静めるように手を上げると、手首の細い銀の腕輪が、天井の灯を受けて一度だけ白く光った。ヴェラは、微笑んでいた。壁際の卓では、ドーラが口元に手を当て、困ったような顔でリタを見ていた。何も言わなかった。
◆
ウロは知っていた。台所の窓辺で、リタは小さな灯をともし、両手を組んで、カミラ様が無事に帰っていらっしゃいますように、と言ったのだ。笑った口のために、リタは祈っていた。その祈りが今、半分に切られて、広間じゅうの口に配られている。
言えば、続きは届くだろうか。ウロの喉の奥で、言葉が組み上がりかけた。あれは祈りだ。帰ってきてほしいと言っていた。けれど、言うのは魔女の家の侍女見習いで、ここにいる者たちは、誰も続きを待っていない。リタの三つ目の息を待たなかった者たちが、ウロの言葉だけを待つはずがなかった。
盆の上で、杯が鳴った。かち、かち、と細かく、途切れずに。盆を支える指の節が内側から押し広げられるように鳴り、爪の付け根が、焼けるように熱くなった。見下ろすと、右手の指が一本、人のものより長く伸びて、爪の先が黒く尖りかけていた。
隣に立っていたこの屋敷の若い使用人が、盆の音に気づいて振り向いた。その目がウロの手の上で止まり、怪訝そうに細くなる。ウロは盆を胸のほうへ引き寄せ、右手をその縁の下へ隠した。一つ、二つ、三つ。息を数えるあいだ、骨が元の形へ戻ろうとして軋み、指の奥に鈍い痛みが残った。使用人はしばらくウロの顔を見ていたが、やがて、気のせいだったというように前へ向き直った。
広間の真ん中で、リタの体が小さく揺れた。手袋の指が、空を掴むように動く。ヴェラがすぐにその腕を取り、心配そうに顔を覗き込んだ。
「まあ、お顔の色が。……控えの間で、少しお休みになって。灯が戻りましたら、続きを伺いますわ」
年配の侍女が一人進み出て、リタの肩を支えた。リタは何か言おうとして、結局何も言えないまま、広間の脇の小さな扉の向こうへ連れられていった。扉が閉まり、青い服の裾が見えなくなる。ウロは一歩、そちらへ踏み出しかけた。その肩を、後ろから使用人頭の手が押さえた。
「持ち場を離れるな。もうすぐ、鐘だ」
ウロは足を止めた。間もなく、リタを連れていった侍女だけが、一人で広間へ戻ってきた。小さな扉は、広間の灯から外れた壁の陰にあった。灯が落ちれば、あの扉の向こうからは、この広間は見えない。そのことを、ウロは扉を見つめたまま確かめた。リタは今ごろ、あの向こうで一人、言えなかった続きを探しているのだろう。もう誰も、それを待っていない部屋で。
◆
「さあ、暗いお話は、灯が戻るまでお預けにしましょう。今夜は、灯の夜ですもの」
ヴェラが手を打つと、楽団が再び弦を鳴らし始めた。広間に、ほっとしたような笑い声が広がっていく。一人を扉の向こうへ送り出したあとで、皆がまた笑っていた。夏の日除けの下でも、そうだった。誰かを笑いの外へ出すと、残った者たちは、前よりも楽しそうに笑うのだ。なぜなのかは、やはり分からなかった。
フィナは椅子に座り直し、手提げの口を指先で探っていた。ドーラは杯を手に、隣の婦人の話に頷いている。ヴェラは奥の布の前に戻り、腕輪のある手首をもう一方の手で包むようにして、広間を見渡していた。柱という柱の陰で、若い使用人たちが真鍮の椀の棒を手に取り、壁から離れて静かに構えた。
開いたままの両開きの扉の向こうに、角灯を提げた灯守がもう一度姿を見せ、広間へ深く一礼してから廊下の奥へ歩み去った。二人の使用人が、左右から扉を閉じた。種火の小さな光が、閉じていく扉の隙間で細くなり、見えなくなった。
高窓の外で、鐘が鳴った。ウロは数えた。一つ、二つ。十を数え終えたとき、奥の布の前に、ヴェラの父の伯爵が進み出た。楽団の弦の上に、低く通る声が落ちる。
「闇の一分を、始めます」




