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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第22話 灯の夜、開幕

 灯(ともしび)の夜の王都は、日が落ちても暗くならなかった。下町の軒先にも、屋敷街の塀の上にも、灯が隙間なく並んで、石畳の上に影の落ちる場所がほとんどない。魔王を討ち、世を闇から救った灯の英雄を祝う夜で、英雄の顔を見た者は誰もいないから、どこの町の板絵(いたえ)でも顔は白く塗られているのだと、馬車の中でリタが教えてくれた。窓の外を流れていく灯の列を、ウロは一つも数えきれなかった。


 出がけに、年配の女中(じょちゅう)が台所口でウロの前掛けの紐を結び直した。夏の茶会の朝と同じように、太い指で紐をきつく引き、それから一度だけ腕を叩く。


「お嬢様のこと、頼んだよ。今度は、ちゃんと一緒に帰っておいで」


 今度は、何を頼まれたのかが分かった。ウロは「はい」と答えた。


 馬車の中のリタは、夏に選んだのと同じ青い服を着ていた。手袋を何度もはめ直す指は、あのときよりも細く見える。この半月、リタはほとんど食事を残していた。リタは窓の外の灯を見たまま、ほとんど聞こえないほどの声で言った。


「ウロさんが、いてくれて……よかった」


「いる」


 ウロがそう答えると、リタの口の端が、片方だけ少し上がった。それからリタは、窓の硝子(ガラス)に指先を当てて、初めて灯の夜の夜会に出た年の話をした。その夜、闇の一分が怖くて、お母様の手を一分のあいだずっと握っていたのだという。


「目を、閉じていなさいって……言われたのに。わたし、開けて、しまったの。真っ暗で、何も、見えなかったけれど」


 リタは、自分の話に少しだけ笑った。目を開けても何も見えないのなら、閉じていても同じではないか、とウロは思ったが、言わなかった。


◆


 ヴェラの屋敷の門から玄関までの長い道には、四日前に見た台の上に灯籠(とうろう)が据えられ、その光の列の中を、馬車が一台ずつ進んでいった。玄関の前で馬車を降りると、リタは家の者に案内されて広間のほうへ向かい、付き添いの者たちは、別の戸口から廊下の奥の控えの場所へ集められた。


 控えの場所には、ほかの家の侍女や従者たちが十人ほどいた。ウロが入っていくと、話し声が一度途切れ、それから前よりも小さな声で、また始まった。あの家の、と誰かが言い、魔女の、と誰かが言った。夏の茶会の木陰の列と同じように、皆が半歩ずつ、ウロから離れていった。


 そこへ現れたのは、銀の鎖を首から下げた白髪の男だった。四日前、窓の向こうで使用人たちに真鍮(しんちゅう)の椀(わん)を掲げさせていた男で、この屋敷の使用人頭だという。男は付き添いたちを見回し、夏の茶会の侍女頭と同じことを言った。


「手の空いている者は、杯(さかずき)を運べ。それから、闇の一分は十の鐘のあとだ。灯が落ちたら、どこにいてもその場で止まり、目を閉じろ。灯守(ともしもり)が種火を持って戻るまで、決して動くな」


 ウロに渡されたのは、細い杯を八つ載せた銀の盆だった。杯は脚が長く、指でつまむと折れそうなほど薄い。使用人頭は最後に、笑顔でな、と付け足した。ウロは笑顔というものを、口の端を同じ高さに上げて止めることだと知っていたので、そうした。最初に杯を受け取った客が、少しだけ身を引いた。


◆


 ヴェラの屋敷の大広間は、夏の庭の東屋(あずまや)が十も入りそうなほど広かった。天井からは燭台(しょくだい)を幾重にも組んだ大きな灯がいくつも吊るされ、壁際の柱という柱にも灯がともって、磨かれた石の床にその光が映り込んでいる。壁の上のほうには細長い高窓が並び、その外だけが夜の色をしていた。奥の壁には灯の英雄を織り出した大きな布が掛けられ、掲げた灯の下で、英雄の顔はやはり白かった。


 板張りの低い壇の上で楽団が弦を鳴らし、客たちの声と笑いが、天井の高いところで一つの音になって揺れていた。ウロは広間を見渡し、癖のように数を数えた。客は五十を少し超えるくらいで、子供の姿は一つもない。灯の夜の夜会に招かれるのは、大人だけらしかった。


 ウロは杯を配りながら、広間の隅の柱の陰に、自分の立つ場所を決めた。高窓の真下で、そこからは広間のほとんどが見える。廊下へ通じる両開きの大きな扉と、奥の布の前に置かれたヴェラの家の者たちの席、壁際に並ぶ小さな丸い卓と、それを囲む椅子。柱の陰には、真鍮の椀をつけたあの長い棒が一本ずつ立てかけてあり、その脇に、この屋敷の若い使用人が一人ずつ控えていた。


 両開きの扉の外の廊下には、小さな灯を一つだけ入れた古い角灯(かくとう)を提げて、年老いた男が立っていた。もう片方の手には、四日前に広間の隅で見た砂時計を持っている。男は広間の中には入らず、しばらく扉の内側を眺めてから、廊下の奥へゆっくりと歩いていった。あれが灯守で、あの角灯の中にあるのが、種火なのだろう。広間に何百とある灯のどれよりも小さな炎だった。けれど今夜、闇のあとで灯をともし直せるのは、あの炎だけなのだ。ウロは、角灯の光が廊下の角を曲がって見えなくなるまで、それを目で追った。


 ドーラはもう来ていて、壁際の卓で年嵩(としかさ)の婦人たちに囲まれ、穏やかな顔で頷いていた。フィナは扉の近くに一人で立ち、小さな手提げの紐を、指に何度も巻きつけてはほどいている。カミラとノエラの名前は、広間のあちこちで小さく交わされていた。


 広間の熱は、人の数だけ濃くなっていった。何百もの灯が空気を温め、香水と蝋(ろう)と焼いた菓子の匂いが混ざって、高窓の隙間から入る冬の夜気を押し返している。楽団の弦が鳴るたびに、盆の上の薄い硝子がその音を拾って、指先に細く震えを返してきた。朝から同じ形を保っているせいで、その指先には、もう薄い痺(しび)れが溜まり始めていた。


 扉のところで、案内の声が子爵家の名を告げた。


◆


 広間の声が、一度に低くなった。止んだのではなく、低くなったのだ。リタが扉の内側に一歩入ると、その近くにいた客たちが、示し合わせたように半歩ずつ身を引いた。誰も何も言わず、誰も押しのけず、ただ揃って半歩下がる。リタのまわりに、丸く床が空いた。下がった客たちの口元で、扇の陰の囁(ささや)きが交わされる。あの方が。灯の夜に、よくも。ウロの耳は、蝙蝠(こうもり)のものに変えなくても、その一つ一つを拾った。


 ゴブリンの巣の目と、同じだった。揃ってこちらを向き、揃ってよそを向く目。窪みの一匹は、その目でできた壁の内側に座っていた。今、リタは、灯に照らされた石の床の上で、同じ壁の内側に立っている。


 リタは手袋の指を握り合わせたまま、その場で動けずにいた。どちらへ歩けばいいのかを探して、目が床の上を行き来している。ウロは柱の陰で、盆の縁を握った。盆が傾き、杯が一つ、隣の杯に触れて小さく鳴った。


 空いた床を、まっすぐに横切ってきた者がいた。


「まあ、リタ様」


 ヴェラだった。白い服の裾を揺らして歩いてきて、リタの両手を取る。広間じゅうの目が、その手の上に集まった。


「来てくださって、嬉しいわ」


 夏の日除けの下で聞いたのと、同じ言葉だった。同じ柔らかさで、同じ笑みで、ヴェラはリタの手を引き、広間の真ん中に近い卓まで連れていった。それから振り返り、扉のそばに立っていた娘を呼んだ。


「フィナ。昔のように、リタ様のお隣に」


 フィナは手提げを胸に抱えて歩いてきて、リタの隣の椅子に腰を下ろした。リタは驚いたように隣を見て、フィナ、と小さく呼び、それから、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。フィナは、リタのほうを見なかった。手提げの口を握る指が白くなっているのが、柱の陰からも見えた。卓の向こうでは、ドーラが穏やかに微笑んで、リタに小さく会釈をした。何もなかった日の茶会と、少しも変わらない会釈だった。奥の布の前の席では、ヴェラの父である伯爵が、灯の色に染まった顔で客たちと杯を合わせていた。


 柱の陰に戻ったとき、遠くで鐘が鳴り始めた。高窓の外から届く音を、ウロは一つずつ数えた。九つ目で鐘は止み、使用人頭が誰かに、九つが鳴った、と小声で告げるのが聞こえた。


 闇の一分まで、あと一時間。


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