第21話 灯の夜の招待状
冬至が近づくと、王都は灯の支度で忙しくなった。下町の軒先には灯を吊るす鉤が新しく打たれ、市場の屋台には、魔物の串の隣に色硝子の小さな灯籠が並ぶ。広場の板絵の前には毎日のように子供たちが集まって、灯の夜まであと幾つ寝ればいいのかを、指を折って数えていた。
「どうして、灯の夜には、灯をいっぱいつけるの」
「英雄さまが、迷わずに帰ってこられるようにさ。だから一つでも、勝手にともしたり消したりしちゃいけない。英雄さまの灯を盗むことになるからな」
板絵の前で、いつかの老人が子供たちにそう話していた。台所口へ向かう朝の道で、ウロはそういう声を何度も聞いた。数を数えるのは、ウロにも分かることだった。けれど、指を折って待つことがあんなに楽しそうなのは、分からなかった。
リタの屋敷だけが、その忙しさの外にいた。噂が台所口まで届いてから、下男は来なくなり、出入りの商人は品物を戸口に置いて帰るようになった。旦那様が書き物机の前に座っている時間は日ごとに長くなり、リタは、パンを焼かなくなった。
朝の台所は、前と同じように冷えていた。竈に最初の火を入れるのは今もウロの役目で、薪の皮のささくれが指先に引っかかるのも、前と変わらない。変わったのは、竈の脇の台に、布をかぶせた鉢がもう置かれていないことだった。焼きたての端を二つに分けることも、リタの帳面にウロの言葉が増えていくことも、半月ほど前から途絶えている。ウロは毎朝、空いた台の上を一度だけ見てから、皿を出しに行った。
その手紙が届いたのは、灯の夜の四日前の午後だった。持ってきたのは、ヴェラの屋敷のお仕着せの男で、封には夏と同じ紋の赤い蝋が押してあった。灯の夜の夜会への招きで、添え書きには、皆さまのお心のつかえを下ろす場として、リタ様にもぜひ、とあった。
旦那様は、断ろうと言った。リタは手紙を膝の上で揃え直し、端が揃うまで何度もやり直してから、顔を上げた。
「……行きます。行かなかったら、わたしが、何かをしたことに……なって、しまうから」
夏の格子の下で、行かなくちゃいけないの、と言っていた声と同じ高さだった。返事の手紙は、その日のうちに書かれた。下男のいない屋敷で、それを伯爵家まで届ける役は、ウロに回ってきた。
◆
ヴェラの屋敷は、夜会の支度の最中だった。表の門から玄関までの長い道には灯籠を据える台が等間隔に並べられ、館の窓という窓が開け放たれて、中から床を磨く音と、男たちの掛け声が聞こえてくる。台所口へ回る途中、ウロは開いた窓の一つから大広間を覗いた。天井から下ろされた大きな燭台を、梯子に乗った男たちが布で拭いていた。
壁際では、白髪の男が若い使用人たちを並ばせ、長い棒の先に真鍮の椀をつけた道具を持たせていた。男が手を打つと、使用人たちは揃って棒を掲げ、それぞれの前の燭台に椀をかぶせる。揃わなかった者がいると、男はもう一度手を打った。広間の隅の卓には、硝子の砂時計が一つ置かれていた。
台所口で手紙を渡すと、侍女頭はそれを持って奥へ消え、しばらくして戻ってきた。お嬢様がすぐにお返事を書かれるそうよ、そこで待っていなさい。ウロが立たされたのは、小客間の扉が見える廊下の端だった。扉の向こうからは、女の声が三つ聞こえていた。
ウロは髪をまとめた布の上から耳に手を当て、息を三つ数えた。布の下で、薄い膜が広がっていく。
「いらっしゃるそうよ。よかったわ」
ヴェラの声だった。
「皆さん、怖がっていらっしゃるの。カミラが消えたのは、わたしの家の裏の道よ。次はわたしの番だって、口には出さなくても、皆さん目でそうおっしゃるわ。……怖いものには、名前が要るの。名前がつけば、皆さん、安心なさるのよ」
柔らかい声の終わりが、ほんのわずかに掠れていた。茶会の卓でも東屋でも、ヴェラの声が掠れるのを、ウロは聞いたことがなかった。
「それで、リタ様を……」
小さく訊いたのは、ドーラの声だった。
「ドーラは、何もしなくていいのよ。いつもどおり、見ていてくださればいいの」
ドーラは、それきり黙った。
「フィナには、お話をしていただくわ。いつかの、リタ様の内緒。夜中に灯をともして、その日に意地悪をした人の名前を、一人ずつ呼ぶっていう、あれ」
「でも、あれは……お祈りで。その人が、明日は優しくありますようにって――」
「最後まで言わなくていいのよ。続きは、皆さんが考えてくださるわ」
扉の向こうで、紙を広げるような音がした。
「それから、闇の一分。あの一分のあいだは、誰も目を開けないし、誰も動かないわ。種火は廊下の向こうの灯守の間で、砂時計の前に置かれるの。灯守は最後の砂が落ちるまで、何があっても扉を開けない。早く灯をともすのは、英雄さまの灯を盗むことだもの。……そのあいだに、フィナ、これをリタ様の椅子に」
「それ、カミラの……」
「あの晩、カミラがうちに忘れていったハンカチよ。灯が戻ったら、わたしが見つけるわ」
◆
灯の夜の中ほどには、家じゅうの灯をひと息に落とす決まりがあるのだと、ウロは前に女中から聞いていた。灯の英雄は魔王の闇の中を、灯を持たずに歩いたのだという。その闇を一分のあいだ皆で思い、それから、ただ一つ残しておいた種火から、すべての灯をともし直す。その夜ばかりは、火打ち石も付け木も、広間から下げられるのだとも聞いた。
リタの祈りは、半分に切られて、別のものにされるのだ。窓辺の灯が、塀の外から別のものに見えたように。
侍女頭が、封をした返事を持って戻ってきた。ウロは耳を戻した。今度は、骨の縮む痛みが首の付け根まで下りてきた。
帰り道、ウロは前掛けの物入れの上から、返事の手紙を何度も押さえた。中に何が書いてあるのかは知らない。けれど、柔らかい声で書かれたものだということは分かっていた。夏に花壇から拾った包み紙も、同じ物入れに入っていたことがある。小客間で聞いたフィナの声を、ウロは歩きながら頭の中でなぞった。その人が、明日は優しくありますようにって。そこで切られた言葉の続きを、あの部屋の誰もが知っていた。知っていて、切ったのだ。
ヴェラも、怖がっていた。怖いから、リタに名前を付けるのだという。怖いものに名前が付けば安心するのなら、ウロが広場で自分に名前を付けたとき、誰か安心した者はいたのだろうか。ウロには、思い当たる顔が一つもなかった。
◆
その夜、ウロは格子の下の壁に向き合った。三つ目の波の線は、横線の下に隠れている。二つ目の細かい線の上にも、ノエラの屋敷から戻った夜に、同じ横線を引いてあった。残っているのは、一つ目の太い線と、四つ目の深く彫った目と、その隣の空っぽの丸、それに五つ目の、離れていく二本の線だった。
一つずつでは、間に合わない。カミラから十日かけて、ノエラに辿り着いた。そのあいだに、リタの名前は王都じゅうの口に上り、窓辺の灯は呪いになり、リタはパンを焼かなくなった。夜会まで、残りは幾日もない。
けれど、あの夜には一分の闇がある。誰も目を開けず、誰も動かず、誰も灯をつけられない一分が。暗さには、慣れていた。生まれた場所は、どんな広間よりもずっと暗かった。
ウロは鉤爪の先で、残った三つの印を順になぞった。大きい声、見ている、昔の友。笑っていた口が、笑えなくなるところを、一晩で全部見る。それをリタには見せたくないということだけは、石の上をなぞる爪よりも、はっきりしていた。
翌朝、台所口で家令に呼び止められた。夜会には付き添いが一人要る。お嬢様が、ウロさんにと言っている、と。家令は少し迷うような顔をしてから、伯爵家では付き添いの者も給仕を手伝わされるだろうから粗相のないように、と付け足した。夏の茶会と同じだ。広間の中に立っていられるのなら、それでよかった。
灯の夜まで、あと三日。




