第20話 疑いの矢
ノエラの話は、カミラの話よりも速く屋敷街を巡った。三日もしないうちに、台所口へ出入りする者は皆、それを知っていた。ノエラ様は口がきけなくなり、屋敷じゅうの鏡には布がかけられた。部屋の小卓には、誰も運んだ覚えのない水差しが一つ置かれていて、夜番の侍女は、鈴が鳴らなかったから上がっていないと、泣きながら言い張っているという。
「口のきけないかわりに、紙に字を書きなさるんだと。鏡、わたし、百年。それっきり、同じ字ばかりだそうだ」
薪売りの男は竈の前でそう言って、自分の腕をさすった。女中は今度は、滅多なことを言うもんじゃないよ、とは言わなかった。代わりに、もう十分に燃えている竈の火を火掻き棒で何度も掻き立て、それから階段のほうへ目をやった。
屋敷街の娘たちは、昼でも外へ出なくなった。茶会は次々に取りやめになり、どうしても出かける家の馬車には、御者のほかに剣を下げた男が二人ずつ付いた。魔王が討たれてから長い年月が経っても、王都の者は闇と呪いの話を、子供のころと同じように恐れている。人さらいや駆け落ちなら騎士団が捜せばいいが、鏡の中から出てくるものは、誰にも捜しようがなかった。
ウロは薪を積みながら、それを聞いていた。鏡に布をかけても、鏡の前に立っていたものには、布はかからない。上の街はまた、上から見えるものだけを話していた。
◆
リタが見舞いに行くと言い出したのは、その翌朝だった。旦那様は首を横に振り、奥様は今はおやめなさいと言ったが、リタは長いあいだ黙って、それから同じことをもう一度言った。
「……ノエラ様、お話が、できないって。お話が、できないのは……とても、苦しいの。わたし、少しだけ、知っているから」
旦那様は、それ以上止めなかった。リタはその夜、洗い場で生地を捏ね、翌朝、小さな丸いパンを三つ、布を敷いた籠に入れた。付き添いは、今度もウロだった。
ノエラの屋敷の玄関先には、馬車が三台並んでいた。一台の扉には、茶会の招待状の封蝋と同じ紋が付いている。玄関広間の大きな鏡は黒い布で覆われ、壁の燭台の脇の小さな鏡にまで、同じ布が掛けられていた。出迎えた家令の目の下には、旦那様と同じ色の影が溜まっている。家令はリタを廊下の脇の小部屋へ通し、ほかのお客様がお帰りになるまでこちらで、と言った。
付き添いのウロは、小部屋の外の廊下に立つことになった。戸は開いたままで、籠を膝に載せて座るリタの横顔が、廊下からも見えた。リタは籠にかけた布の端を、何度も指で整えていた。
屋敷の中は、ひどく静かだった。侍女たちは足音を殺して廊下を行き来し、すれ違うときにも目を上げない。階段の上のほうから、ときおり、喉の奥で何かを形にしかけてはほどけていくような声が降りてきた。言葉になる手前で、いつも途切れる声だった。ウロはその声を、格子の下で何度も聞いたことがあるような気がした。
廊下の突き当たりに、閉じた扉が一つあった。その奥から、話し声がかすかに漏れてくる。ウロは髪をまとめた布の上から、そっと耳に手を当てた。息を三つ数えるあいだに耳の骨が鳴り、布の下で薄い膜が大きく広がっていく。生まれて間もないころに覚えた、蝙蝠の耳だった。廊下の空気の震えが、急に細かく、近くなった。
「……鏡の中に、ご自分がもう一人いたのですって。それが、ノエラの声で、百年と言ったそうよ」
柔らかい声だった。
「百年って……あの、お茶会の」
「ええ。リタ様のときの」
カップを受け皿に戻す、小さな音がした。
「カミラは、リタ様の内緒を皆さんに話した子。ノエラは、百年と言った子。……偶然かしら」
「まさか。リタ様が、そんな。呪いだなんて」
「わたし、呪いだなんて、一言も言っていないわ、ドーラ」
しばらく、誰も話さなかった。それから、ほとんど聞こえないほど小さな声がした。
「……リタは、そんなこと、できる子じゃない」
「そうね。フィナは、リタ様のことをいちばんよくご存じだもの。……内緒も、たくさん」
フィナは、何も答えなかった。ウロは扉の木目を見つめたまま、今聞いた言葉を並べ直した。呪いという言葉を口にしたのは、ヴェラではなかった。何もしない者の口から、その言葉は出てきたのだ。
◆
扉の開く気配がして、ウロは急いで耳を元に戻した。骨が縮む痛みが、こめかみの奥に鋭く残った。
出てきたのは、ヴェラだった。後ろにドーラとフィナが続き、三人は廊下を歩いてきて、開いたままの小部屋の前で足を止めた。籠を膝に載せて座っていたリタが、慌てて立ち上がる。
「まあ、リタ様。……お見舞い?」
ヴェラの目は、リタの顔ではなく、膝から下ろされた籠のほうを見ていた。夏の東屋で、何度も折り直した包みの角を見ていたのと同じ目だった。けれど今日の目には、あのとき細めていた柔らかさがなかった。
「また、焼いていらしたのね。……ノエラは、どなたにもお会いにならないわ。特に、今は」
リタは口を開いたが、言葉は出てこなかった。ヴェラはそれを待たずに微笑んで、廊下を玄関のほうへ歩いていった。ドーラは目を伏せて会釈し、その後ろを足早に追った。最後に通り過ぎたフィナだけが、一度だけリタの顔を見た。茶会の日から、初めてのことだった。けれどその目は、リタが顔を上げるより先に、床の上へ落ちた。
籠は、ノエラの家の家令が受け取った。両手で持ったまま、どこへ置けばいいのか迷うように、しばらく廊下に立っていた。帰りの馬車の中で、リタは空になった膝の上を見下ろして、ぽつりと言った。
「ノエラ様……お一人で、言葉を、探していらっしゃるのかしら。誰も、待って、くれないところで」
ウロは答えなかった。階段の上から降りてきた、言葉になる手前の声を思い出していた。あの声を聞いたことがあるような気がしたのは、格子の上から、何十回も降ってきた声と、同じ途切れ方をしていたからだった。
◆
七日と経たないうちに、噂はリタの屋敷の台所口まで届いた。子爵家のお嬢様は、自分を笑った人を順に呪っている。夜中に灯をともして、何かを唱えているらしい。あれは魔女だ、と。台所の窓辺の小さな灯のことだ、とウロは思った。カミラの無事を祈ってリタがともした灯は、塀の外から、別のものに見えたらしかった。粉屋の荷運びは台所口に粉の袋を置くと、中へは一歩も入らずに帰るようになり、女中は袋を抱えて戻るたびに、聞こえないように何かを毒づいていた。
旦那様の書き物机には、断りの手紙が溜まっていった。冬の集まりへのお誘いは一通も来ず、奥様の膝の上の刺繍は、何日経っても同じ花びらのところで止まっていた。旦那様は一度だけ騎士団の詰所へ出向いたが、帰ってくると、噂を罰する決まりはないそうだ、とだけ言って、書き物机の前に戻った。誰もリタを責めなかった。ただ、屋敷の中の話し声が、日ごとに少しずつ小さくなっていった。リタは食事のたびに、皿の上のものを半分ほど残すようになった。
その夜、格子の上から水は落ちてこなかった。代わりに、声だけが降ってきた。
「わたし……何も、していないのに。カミラ様のことも、ノエラ様のことも、ずっと、お祈り、していたのに。どうして、わたしの、せいに」
声は途中で崩れ、長いあいだ、鼻をすする音だけが続いた。
ウロは板の上で、格子を見上げていた。リタを笑った口は、二つ静かになった。リタを笑う声は、減るはずだった。それなのに、上の街ではリタの名前が、前よりもずっと多くの口に上っている。笑い声の代わりに、囁き声がリタを囲んでいた。笑い声なら、茶会が終われば止む。囁き声は、どこへ行っても止まなかった。
ウロは、リタのためにしたのだった。それなのに、格子の上で、リタが泣いている。どこで何を間違えたのか、それとも何も間違えていないのか、ウロには分からなかった。




