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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第19話 鏡の中のノエラ

 カミラの馬車が空で見つかってから、十日が過ぎた。屋敷街の夜警は二人一組から四人一組に増え、連れている犬も二匹になって、格子の上を通り過ぎるたびに、鼻を鳴らす音が二重に降ってくる。角の格子の脇には、片方の靴が落ちていたあたりを囲むように白い縄が張られたままで、昼のあいだも騎士団の男たちが細い道を歩き回っていた。上の街は、上から見えるものを念入りに見張っていた。


 その五日ほど前から、ウロは夜ごとにノエラの屋敷の下にいた。ノエラの家はヴェラの屋敷から通りを二本隔てた先にあり、裏手の洗い場の格子の下では、侍女たちが皿を洗いながら、屋敷の中の話をこぼしていく。手が足りない、腰が痛い、お嬢様が今日も。リタの屋敷の女中(じょちゅう)たちと、話すことはあまり変わらなかった。違ったのは、そのお嬢様の話の中身だった。


「また、鏡よ。わたしたちを下がらせて、一刻(いっとき)も鏡に向かってお話しなさるの」


「次のお茶会で言うことを、先に言ってみていらっしゃるのよ。早口で、一人で笑って」


「湯を下げに上がっても、こっちの顔なんて見もしないんだから。鈴が鳴るまでは上がるなって、それだけ」


 最後の声の主は、夜番を務める若い侍女だった。ウロは格子の隙間から目だけを覗かせ、その侍女が流しで手桶を洗うのを、三晩かけて見た。そばかすの散った頬と、少し上を向いた鼻、手桶を持ち上げるときに右の肩だけが下がる癖。ノエラの家の侍女たちが着る、襟の高い紺の服の形も覚えた。茶会の日の木陰の列にも、同じ紺が一つ混じっていたのを、ウロは格子の下で思い出した。


 カミラのときのように、帰り道を待つことはできなかった。カミラが消えてから、屋敷街の娘たちは日が暮れると門の外へ出なくなり、ノエラも例外ではなかった。外へ出てこないのなら、中へ入るしかない。そして中へ入るなら、あの家の者が毎晩見ているのに、誰も顔を見ない形がいちばんよかった。


◆


 六日目の夜、ウロは鼠(ねずみ)の形で洗い場の横穴を這い上がった。ノエラの家の横穴はリタの家のものより狭く、苔の代わりに古い油の膜が石を覆っていて、腹がそこを擦るたびに、ぬるりとした冷たさが毛皮の奥まで染みてくる。格子を抜けると洗い場は暗く、侍女たちはもう奥へ引き上げたあとで、壁の向こうから食器を片付ける音と、誰かのあくびが聞こえてきた。


 ウロは桶の陰で、鼠の形を解いた。骨の伸びる音が石の床に響かないよう、息を細く吐きながら、一つ、二つ、三つ。手足が伸びきると、肌の上に紺の服の形を浮かべ、襟を高く立てる。頬にはそばかすを散らし、鼻を少しだけ上へ向けた。水桶に映った顔は暗くてよく見えなかったが、右の肩を下げてみると、桶の中の影も同じように肩を下げた。


 棚に伏せてあった銅の水差しに竈(かまど)の残り湯を汲み、ウロは使用人の細い階段を上った。階段は一段ごとに軋(きし)む場所が違っていて、ウロはそれを、侍女たちの上り下りする足音から聞き覚えていた。軋む段は端を踏み、軋まない段は真ん中を踏む。二階の廊下には灯が一つだけ残され、奥の扉の隙間から、細い光と甘い香水の匂い、それに早口の声が漏れていた。


 ウロは扉の前で一度だけ息を整え、二度、扉を叩いた。


「まだ鳴らしていないわよ」


 返事は、叩いた音が消える前に来た。


「いいわ、入って。そこに置いて、すぐに出ていって」


◆


 ノエラの部屋の窓には重い緑の布が引かれ、厚い絨毯(じゅうたん)の奥に、天蓋(てんがい)のついた寝台が沈んでいた。その手前の壁際に、大きな鏡台が据えてある。楕円の鏡の両脇に燭台(しょくだい)が一本ずつ立ち、台の上には色も形も違う硝子(ガラス)の小瓶が隙間なく並んでいて、いくつもの甘さが重なり合い、部屋の空気を重くしていた。


 ノエラは鏡の前に座り、寝間着の上に薄い肩掛けを羽織って、鏡の中の自分に話しかけていた。


「駆け落ちですって。カミラに、そんな度胸があったなんて。それとも人さらいのほうが、あの子には似合うかしら。さらったほうが、すぐに返したくなるわよね、あの笑い声じゃ」


 言い終えると、ノエラは鏡に向かって短く笑い、首を傾げて、同じ言葉をもう一度、今度は少し速く言った。言葉を速くするのにも練習が要るのだということを、ウロは初めて知った。リタの三つ目の息より先に来たあの口は、夜ごとにここで研がれていたのだ。


 ウロは水差しを鏡台の脇の小卓に置き、そのまま出ていかずに、ノエラの斜め後ろの、燭台の光がようやく届くあたりに立った。鏡の端に、紺の服の侍女が小さく映る。ノエラは一度もそちらを見ずに、次の言葉を研いでいた。


 ウロは鏡の中の自分を見ながら、形を変え始めた。そばかすが一つずつ肌に沈み、上を向いていた鼻が平らになって、目と口の窪みが浅くなっていく。一つ目の息を吐き終えるころには、鏡の端の侍女の顔には、何もなかった。先生の正面と同じ、のっぺりとした肌が、燭台の光を鈍く照り返しているだけだった。


 ノエラの声が、途中で止まった。


 二つ目の息で、平らな肌の上に新しい目鼻が浮かび上がる。細く整えた眉と薄い唇、話すときに少しだけ右へ寄る口の端。茶会の卓のまわりを回りながら、ウロはその顔を前からも横からも見ていた。三つ目の息を吐き終えたとき、楕円の鏡の中には、ノエラが二人いた。


◆


 椅子の上のノエラは、振り返らなかった。鏡の中の自分と、その斜め後ろに立つ自分とのあいだを、目だけが何度も行き来している。肩掛けの端を握る指が、少しずつ白くなっていった。


「考え中ね。百年ほど」


 ウロは、ノエラの声で言った。声はよくできていたが、ノエラのように速くは言えなかった。考え、中、ね、と一つずつ区切れて出てきた言葉は、ノエラの声のまま、リタが言葉を探すときの速さで部屋に落ちた。早口というものは、声よりずっと真似にくいらしかった。


「主人に似て、笑うのも遅いのね」


 ウロが続けると、ノエラの唇が同じ形に動いた。自分の言った言葉を、自分の口がなぞってしまったのだ。二つの声が半分だけ重なり、半分だけずれて、香水の匂いの中で揺れた。


 それから、ウロは待った。リタの屋敷の者たちが、リタの言葉を待つように。笑っていた口が笑えなくなったとき、そこから何が出てくるのかを、ウロは聞いてみたかった。一つ、二つと息を数え、三つ目を吸ったところで、ノエラの口から出てきたのは言葉ではなかった。


 高く、長い声だった。ノエラは椅子から半ば立ち上がり、両手を鏡に突いて、そこに映る二つの顔を爪で掻き消そうとした。硝子を爪が擦る、きい、という音が何度も続き、鏡台が揺れて、小瓶がいくつも床へ落ちて割れる。甘さが一度にあふれ出し、ウロは息を吸うたびに、喉の奥を焼かれるような痛みを覚えた。


 階下で戸の開く音がして、いくつもの足音が階段を駆け上がってくる。ウロはノエラの背中から目を離さずに、形をほどき始めた。骨が縮み、服の形が肌の下へ沈み、視界が絨毯の高さまで落ちていく。三つ目の息で鼠になると、ウロは寝台の下を抜け、扉が開くのと同時に、駆け込んできた侍女たちの足のあいだを廊下へ走り出た。誰も、足元の鼠を見なかった。


◆


 夜明けまで、ウロは洗い場の格子の下にいた。一晩に幾度も形を変えたせいで、体の芯に鉛を詰められたように重く、石の上に伏せたまま、指一本動かすのも億劫(おっくう)だった。頭の上では戸の開け閉めの音が一晩じゅう続き、医者を呼べという声と、鏡に布をかけろという声が何度も降ってきた。


 朝になって洗い場に下りてきた侍女たちの声は、皆ひどく掠(かす)れていた。


「お嬢様、一言も、お話しにならないの。口は開くのに、言葉が、出てこないのよ」


 ウロは格子の下で、その声を聞いた。あれほど速かった口が、今は言葉を一つも見つけられずにいる。早い口は、もう何も言わなかった。


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