第18話 心配するリタ
カミラの馬車が空で見つかったという話は、その日の昼までに、屋敷じゅうの誰もが知っていた。台所口に出入りする者が、来るたびに新しい話を一つずつ置いていくからだ。八百屋の小僧は、夜警の犬が格子の前から動かなかったと言い、粉屋の荷運びは、朝早くから騎士団の男たちが細い道の塀を一軒ずつ叩いて回っていたと言った。女中はそのたびに「まあ」と言って前掛けで手を拭き、話の終わりには必ず、階段のほうへ目をやった。お嬢様のお茶会のお友達だからね、と女中は小声で言った。
リタがその話を聞いたのは、最初の朝だった。いつもより遅く台所へ下りてきたリタは、竈の前の話し声が自分を見て途切れたことに気づき、女中が言葉を選びながら伝えるのを、黙って聞いていた。聞き終えても、リタは長いあいだ何も言わなかった。ただ、焼き上がったパンの端をちぎろうとしていた指を、そのまま止めただけだった。
噂は、日を追うごとに形を変えた。二日目には、カミラには親の許さない思い人がいて、その男と手を取って逃げたのだという話が流れてきた。三日目には身代金目当ての人さらいだという話になり、四日目には、どちらの話もいくらかずつ混ざって、誰が言い出したのか分からない筋書きが、台所の竈の前で何通りも語られていた。どの話の中でも、カミラは靴を片方だけ落として、どこかへ行ったことになっていた。
ウロは、竈の前で語られる筋書きを、薪を積みながら一つずつ聞いた。どれも少しずつ違っていて、どれも少しずつ間違っていた。誰も、格子の下の湿りのことは言わなかった。夜警の男たちが灯を差し込んで、ただの下水だと言ったのだから、当たり前だった。上から見る者は、上から見えるものしか話さない。下から見ていたのは、ウロだけだった。
四日目の昼すぎ、ヴェラの屋敷のお仕着せの男が、台所口に顔を出した。夏に茶会の招待状を届けに来た男で、今日は手紙ではなく、伯爵家の厨房で切らした香辛料を分けてもらえないかという、ただの使いだった。女中が棚を探しているあいだ、男は戸口にもたれて、問われもしないのに屋敷の様子をこぼしていった。
「うちのお嬢様は、あの晩から、ずっとご機嫌が悪くてね。お茶会は取りやめ、侍女は朝から二人も泣かされた。カミラ様がいなくなったのは、ほかでもない、うちの裏の道だから」
「そりゃあ、お友達がいなくなったんだもの。お辛いでしょうよ」
「お辛い、というより……」
男は言いかけて、口をつぐんだ。それから肩をすくめ、香辛料の包みを受け取って帰っていった。お辛い、というより、何なのか。男が飲み込んだ言葉を、ウロは頭の中で何通りか並べてみたが、どれが正しいのかは分からなかった。柔らかい声のまま菓子を花壇へ放った手首を思い出すと、どの言葉も、少しずつ当てはまるような気がした。
◆
五日目、女中に言いつけられて、ウロは市場まで塩を買いに出た。晩秋の市場は夏よりも人の流れがせわしなく、魔物の串を焼く屋台の煙が、冷たい風に吹かれて低く地面を這っていた。市場の入口には大きな掲示板が立っていて、その前に人だかりができている。板の真ん中に新しい紙が一枚貼られ、前のほうにいた男が、それを声に出して読み上げていた。
「屋敷街にて行方知れずとなりしカミラ嬢について、心当たりある者は騎士団詰所まで申し出よ。謝礼あり」
謝礼、という言葉のところで、人だかりがざわめいた。誰かが、あのお嬢様はさらわれたのだと言い、誰かが、いや男と逃げたのだと言い、誰かが、王都の下には何がいるか分からないからなと言って、周りの者に笑われた。王都の下、という言葉のところで、ウロの足は一度だけ止まりかけた。けれど、言った男も笑った者たちも、もう下のことなど考えていない顔で、すぐに別の話を始めていた。ウロは塩の袋を抱え直し、貼り紙の前を通り過ぎた。
◆
カミラのことを聞いてから、リタの焼くパンは、少しずつ形が乱れた。三日目の朝のパンの端には塩が入っておらず、ウロが「今日は、塩がない」と言うと、リタは帳面にそれを書きつけようとして、ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。塩のない端は、口の中でいつまでも味が決まらなかった。四日目には、捏ねた生地を洗い場に置き忘れ、女中が夜のうちに見つけて、竈のそばへ移しておいた。
五日目の夕方、ウロが市場から戻って帰り支度をしていると、リタが台所へ下りてきた。手には、居間の燭台から外してきたらしい小さな灯を持っている。リタはそれを台所の窓辺に置き、暗くなりかけた屋敷街の塀のほうへ向けて、灯の位置を何度も直した。
「何を、している」
訊くと、リタは灯の前で、両手を胸の前に組んだ。
「お祈り、です。……カミラ様が、無事に、帰っていらっしゃいますように、って。暗いところに、いらっしゃるなら、灯が、見えたらいいなと、思って」
ウロは、前掛けの紐をほどきかけた手のまま、動けなくなった。
窓辺の灯は小さく、炎は、リタの息がかかるたびにかすかに揺れた。リタは目を閉じ、組んだ手の親指に額を寄せている。茶会の卓で、真っ先に声を上げて笑った口のために、リタは祈っていた。百年のあとの笑いを、ウロは覚えている。カミラは笑いながら、隣のドーラの肩に額を寄せていた。今、リタが同じように額を寄せているのは、自分の組んだ手だった。
「あの人は、笑っていた」
言葉は、考えるより先に出た。
「百年、のとき。いちばん先に、笑っていた。お嬢様のことを、笑っていた。……それでも、心配するのか」
リタは、目を開けた。灯を見つめたまま、長いあいだ黙っていた。答えを探しているのだと、ウロには分かった。だから、待った。窓の外で、屋敷街の灯が一つ、また一つとともっていく。
「……わたし、カミラ様のこと、少し、苦手でした」
リタは、自分の言葉に小さく頷いた。
「笑われるのは、いや、です。内緒を、ほかの方に話されたのも、いやでした。……でも」
組んだ手に、少し力が入った。
「いなくなって、ほしかったわけじゃ、ないの。苦手な人でも……寒いところで、一人で、いるのかもしれないって、思ったら。カミラ様、お一人が、いちばん、お嫌いな方だから」
そう言うリタの指先は、組んだまま白くなっていた。言い終えたあとで、リタは自分の言ったことを恥じるように、灯から少しだけ目を逸らした。
ウロは、路地の暗がりを思い出した。一人は嫌なのよ、と、カミラは御者に言っていた。カミラが一人を嫌うことを、リタも知っていたのだ。笑われ、内緒を広められながら、リタはカミラのことを見ていた。ウロが格子の下からリタを見ていたのと、同じように。
「ウロさんも、一緒に、お祈り、してくれますか」
ウロは、リタの隣に立った。リタの手を見て、同じ形に指を組む。親指を重ね、額を寄せ、目を閉じる。形を真似るのは、ウロにはいちばん易しいことだった。旅の娘の顔も、カミラの笑い方も、ヴェラの声も、見て、聞いて、そのとおりに作ってきたのだ。
けれど、目を閉じた暗がりの中で、ウロには何を願えばいいのかが分からなかった。リタは、カミラが帰ってくることを願っている。カミラが帰ってこないことを、ウロは知っている。リタを笑った口が静かになれば、リタは笑われなくなるはずだった。リタの嘆きは、それで一つ減るはずだった。それなのに、リタは今、その静かになった口のために、灯をともして手を組んでいる。
分からない、とウロは思った。何度も思ってきたことだった。群れの順番も、宿の「どのくらい」も、令嬢たちの笑いも、ウロはいつも分からなかった。分からないことは、これまで、首を傾げれば済むものだった。
組んだ指の内側で、胸のあたりが痛んだ。縮むのではなく、痛んだ。格子の下で初めて声を聞いた夜から、そこは何度も小さく縮んできたが、こんなふうに、内側から何かに押されるような痛み方をしたのは初めてだった。分からないということが痛むのだと、ウロは窓辺の小さな灯の前で知った。




