第17話 帰り道のカミラ
屋敷街の夜は、下町の夜よりも早く静かになる。塀の内側の灯は日暮れから一刻ほどで一つずつ落ち、表の通りを行き交う馬車の音も、夜が更けるにつれて間遠になっていく。その静けさの中で、カミラの笑い声は遠くまでよく通った。高く、短く、三つ続けて、四つ目で息を吸う。格子を通ると丸くなるはずの上の街の音の中で、その笑い方だけは、角を残したまま水路の底まで落ちてきた。
選定の夜から、ウロは昼は屋敷で働き、夜は屋敷街の下の水路を歩いた。四日のあいだ、カミラの笑い声を格子から格子へと追いかけて、分かったことがいくつかある。カミラは三日か四日おきに、日が暮れてからヴェラの屋敷を訪ね、夜更けに馬車で帰っていく。帰り道はいつも同じで、ヴェラの屋敷の裏手の、塀と塀に挟まれた細い道を通る。その道の角には格子が一つあり、馬車はそこで速さを落として、大きく曲がるのだった。
カミラは、一人でいるのが嫌いらしかった。馬車の中に一人きりになっても、小窓越しに御者へ話しかけ、返事が短いと、自分で自分の話に笑っている。ウロは格子の下で、その声が角を曲がって遠ざかるのを、四晩のあいだに二度聞いた。
夜警の男たちは、犬を連れて屋敷街をひと回りする。細い道の角を通り過ぎてから次に戻ってくるまでに、格子の縁から雫が六百ほど落ちることも、ウロは数えて知っていた。犬の鼻は、厄介だった。夏の初めに、格子から顔を出しただけで吠えられたのだ。
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五日目の夜は、風が冷たかった。ウロは角の格子の下で、侍女見習いの形をとって待っていた。屋敷で一日じゅう着ていた灰色の服は脱いで、肌の上に同じ色の服の形を浮かべてある。本物の布は、水路の湿り気を吸えば重くなるからだ。
夜警の灯が角を曲がって遠ざかり、犬の爪が石畳を掻く音が聞こえなくなると、ウロは右腕を肘から先だけ太く変えた。指が鉤爪になり、手首から肘までの骨が、こつ、こつと音を立てて組み替わる。その腕を格子の鉄の棒にかけ、息を止めて押し上げると、錆びた縁がわずかに浮いた。ウロは格子を枠からずらし、片側にだけ、車輪の幅ほどの隙間を開けた。上から見れば、暗がりの中では分からない程度の、黒い隙間だった。
腕を元に戻すと、肩の付け根に鈍い痺れが残った。一日じゅう形を保ったあとで、さらにその一部を変えると、疲れは指の先だけでなく肩のあたりまで上ってくる。ウロは壁にもたれて、三つ、息を数えた。
やがて、遠くで蹄の音がした。
それに混じって、あの笑い声が聞こえた。高く、短く、三つ続けて、四つ目で息を吸う。小窓越しに御者へ話しかける声が、細い道の塀に反響しながら近づいてくる。ウロは格子の下の暗がりで、耳だけを上へ向けた。
車輪が角に差しかかった。馬車が速さを落とし、大きく曲がりかけたところで、後ろの車輪の一つが、ずらした格子の隙間に落ちた。鈍い音と、車体の傾く軋みが、水路の天井に響く。馬がいななき、カミラが小さく悲鳴を上げて、それからすぐに笑った。驚いたことを、笑いで埋めようとする笑い方だった。
「お嬢様、お怪我は」
「平気よ。ああ、びっくりした。何なの、もう」
御者が御者台を下り、車輪の前にしゃがんで唸る声がした。押しても引いても、車輪は格子の枠に噛んだまま動かないらしい。御者はしばらく試したあとで、ヴェラの屋敷の裏門の番人を呼んでくると言った。
「すぐ戻ります。扉は、開けずにお待ちを」
「早くしてね。一人は、嫌なのよ」
御者の足音が、塀沿いに遠ざかっていった。ウロは雫を数えるかわりに、自分の息を数えながら、水路を角から一本奥へ走った。
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路地の格子を押し上げて、ウロは上へ出た。月は雲に隠れ、塀と塀のあいだの細い道には、馬車の脇に吊られた小さな灯が一つ揺れているきりだった。冷えた夜気に乗って、甘い香水の匂いが路地の奥まで流れてくる。傾いた車体の中で、カミラが座り直す衣擦れの音がした。小窓の向こうで、カミラは一人で何かを言いかけては、それに自分で笑い、笑ったあとで黙った。ウロは路地の暗がりに立ち、喉の形を、少しだけ作り変えた。
「……カミラ?」
出てきたのは、柔らかい声だった。薔薇の垣の向こうで聞いた、決して大きくはないのに、皆がそちらを向く声。
馬車の中の衣擦れが、ぴたりと止まった。
「ヴェラ? 嘘、どうしてこんなところに」
「しっ。裏の木戸から抜けてきたの。……あなたにだけ、内緒のお話があって」
小窓が開き、カミラの顔がのぞいた。灯の届かない路地の奥へ、目を細めている。ウロは暗がりから出なかった。ヴェラの顔なら、茶会の卓のまわりを回りながら、前からも横からも見ている。けれど形を変えるには三つの息が要り、そのあいだに御者が戻ってくるかもしれない。それに、見せる必要もなかった。カミラが欲しいのは顔ではなく、内緒のほうだったからだ。
「もう、ヴェラったら。こんな夜中に」
扉が開いた。カミラは裾をつまんで、傾いた踏み段に足をかけ、そこで小さくよろけた。片方の靴が踏み段から外れ、格子の脇の石畳に落ちて、からんと鳴る。カミラはそれを拾わずに、片足を浮かせたまま、路地のほうへ笑いかけた。
「見て、靴が。ほんとうに、ひどい夜」
カミラは路地の入口まで来て、暗がりの中へ手を伸ばした。いつも誰かの肩に寄りかかるときと同じ、軽く、迷いのない手つきだった。その手が、ウロの袖に触れた。
カミラは笑った。高く、短く、一つ、二つ、三つ。
四つ目の息は、吸われなかった。
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夜明けの少し前、ウロは角の格子の下にいた。頭の上では、灯がいくつも揺れていた。御者の泣くような声と、夜警の男たちの低い声、それに犬の吠える声が、細い道の塀に当たって降ってくる。夏の初めに、表の通りで吠えられたときと同じ吠え方だった。
「扉が開いたままで、中は空っぽだ」
「靴が、片方だけ。格子の脇に」
「犬が、格子のところから動かない。おい、灯をよこせ」
灯の光が、格子の隙間から差し込んだ。ウロは壁の窪みに体を押しつけ、光の輪が足元の黒い水の上を一度、二度と撫でていくのを見ていた。上の男たちに見えるのは、流れていく下水と、濡れた石の壁だけだ。やがて「何もない、ただの下水だ」という声がして、光の輪は格子の上へ引き上げられた。犬だけが、いつまでも格子の縁で鼻を鳴らしていた。
ウロは、格子の真下の石を見下ろした。継ぎ目のところに、水とは違う色の湿りが、黒っぽく残っている。流れは昼も夜も変わらずにそれを洗い続けていて、さっき見たときよりも、湿りの縁はいくらか薄くなっていた。朝までには、たぶん、ほかの石と見分けがつかなくなる。水路の匂いの奥に、甘い香水の匂いが、まだ細く漂っていた。
路地の暗がりで、カミラは最後まで笑っていた。笑いが止んだあとに何を言うのかを、ウロは聞いてみたかった。けれど、三つ目の笑いのあとには、何も来なかった。ウロは、その何も来なかった静けさを、頭の中で何度もなぞった。
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朝、屋敷の台所口から入ると、竈の前で女中と薪売りの男が話し込んでいた。夜のあいだ形を保ち続けたせいで、ウロの指はまだ痺れていたが、薪を受け取って竈の脇に積む手つきは、いつもと変わらなかったはずだ。
「――空っぽの馬車でな。靴が片方、道に落ちてたってんだ。朝になって、騎士団まで出てきたってよ」
「カミラ様って、ほら、お嬢様のお茶会でご一緒の。まあ、怖いこと」
薪売りの男は、話の種を持ってきたことが嬉しいのか、声を潜めているわりに口の端が上がっていた。女中は「滅多なことを言うもんじゃないよ」とたしなめたが、その手は、鍋の蓋を持ち上げたまま止まっていた。それから女中は、階段のほうへちらりと目をやった。リタは、まだ下りてきていなかった。
その夜、ウロは格子の下の壁に向き合った。爪の先が石を削る音は、いつもと同じ、かり、という硬い音だった。三つ目の丸の下の、波の線の上に、まっすぐな横線を一本引く。波は線の下に隠れて、見えなくなった。
笑う者は、静かになった。




