第16話 選定
洗い場の横穴を下りきると、ウロは板の上で鼠の形を解いた。縮めていた骨がいっせいに伸び、手足が石の床に広がって、晩秋の水路の冷えが、毛皮のなくなった肌へじかに貼りついてくる。いつもなら、このまま板の上に伏せて、朝までの短いあいだ水の音を聞いている。けれど今夜は、伏せている時間がひどく長いもののように思えて、ウロはすぐに体を起こした。洗い場で聞いた声が、まだ耳の奥に残っていた。大丈夫って、言えたの。ちゃんと、言えたのに。
晩秋の水路は、夏とは別の場所のようだった。足元の流れは冷たさを増し、壁を伝う雫も、指で触れると針のように細く冷えている。鼠たちは奥の横穴へ引っ込んで、近ごろはあまり姿を見せない。格子から差す月の光も、夏よりいくらか白く、冷たい色をしていた。
格子の真下の壁には、五つの丸が並んでいる。夏の茶会の夜に刻んでから季節が一つ巡り、そのあいだに何度か増水があったせいで、溝の縁には黒い水の跡がうっすらと染みていた。丸の下の印も、四つ目の隣の空っぽの丸も、刻んだときのまま残っている。その少し上の、石と石の継ぎ目にできた細い割れ目には、小さく畳んだ紙が一枚挟まっていた。花壇から拾ってきた菓子の包みで、ウロはあの日から、それをここに置いていた。
ウロは右手の指を一本だけ鉤爪に変え、一つ目の丸の下の、太い線に爪の先を当てた。並べるだけなら、もう済んでいる。今夜は、並べたものに名前を付けるつもりだった。
「ヴェラ様」
喉から出てきたのは、リタの声だった。格子の上から何十回も降ってきた名前を、ウロは降ってきたときと同じ声で呼んだ。そうすると、石に刻んだ丸が、ただの丸ではなくなるような気がした。柔らかい声と、細めた目と、包みを抱えた手首の、古びた銀の色。ウロは太い線の脇に、短い線を二本刻み足した。花壇へ放られた菓子の分と、今日、居間で読み上げられた手紙の分だった。
「ノエラ様」
二つ目の丸の下には、細かい線が並んでいる。百年、と言った口だ。主人に似て笑うのも遅い、と、木陰へ戻されるウロの背中に投げた口でもある。早い口は、リタが三つ目の息を吸うより先に来て、リタが言葉を探している場所ごと、笑いで埋めてしまう。ウロは並んだ線の端に、もう一本を足した。
「カミラ様」
三つ目の、波の線。百年のあとで、真っ先に声を上げて笑ったのはカミラだった。隣の誰かに寄りかかって笑い、聞いたことを、聞いたそばから次の誰かへ渡していく口。東屋で生まれた言葉が、よその家まで届くには、運ぶ口が要る。ウロは波の線の先を、壁の端のほうへ長く引き伸ばした。
「フィナ」
五つ目だけは、様を付けずに呼んだ。リタがそう呼んでいたからだ。並んで始まり、途中から別々の方向へ離れていく二本の線。リタの内緒は、隣に座ってぜんぶ聞いてくれた者のところにあり、それがいつの間にか、カミラの口からみんなに広まっていた。ウロは離れていく線の片方を、三つ目の波の線のところまで引き伸ばし、二つの印を細い溝で繋いだ。
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残ったのは、四つ目の丸と、その隣の空っぽの丸だった。
「ドーラ様」
呼んでみても、四つ目の丸の下には何も刻まれていない。目のところを深く彫り直しただけの、見ている者の印だった。ドーラは百年とも言わず、内緒も広めず、菓子も捨てていない。リタに向かって投げた言葉は、一つもなかった。それでも、百年のあとで卓のまわりに笑いが弾けたとき、ドーラの笑い声は、その中にきちんと混ざっていた。
ウロは、ゴブリンの巣の目を思い出した。窪みの一匹を、誰も殴らず、誰も怒鳴らなかった。ただ、穴の中の目が揃ってこちらを向き、揃ってよそを向いた。一つ一つの目は何もしていないのに、揃うと、それが壁になった。あの一匹は、その壁の内側にずっと座っていて、ウロが骨を一本差し出しても、壁の外へは出てこなかった。リタも、日除けの下で、同じ壁の内側に座っていたのだ。
ウロは鉤爪の先で、四つ目の丸から空っぽの丸へ、一本の溝を引いた。何もしなかった者は、ドーラの丸に繋がった。
あの日の木陰に並んでいた侍女たちのことも、ウロは少しだけ考えた。あの者たちも、何もしていなかった。けれど、あの者たちは卓に呼ばれていなかった。椅子もカップもなく、言われたときに言われたとおり茶を注ぐだけで、笑いの順番の中には最初から入っていない。半歩ずつ離れていったのも、リタからではなく、ウロからだった。ウロは、その者たちを数えなかった。
手紙を書いた先方の家も、刻まなかった。手紙の中の言葉は、どれも、薔薇の垣の向こうで聞いた柔らかい声から出たものだったからだ。旦那様も、奥様も、家令も、女中も、リタを待っていた。待つ者たちは、壁の外側にいる。
群れには順番がある。長が先で、次に狩った者、それからそれ以外。この群れの長はヴェラで、ノエラとカミラが狩り、ドーラとフィナは少し離れた場所で、黙って分け前の笑いを受け取っていた。そして窪みに座らされていたのが、リタだった。
五つの丸が、壁の上で一つの群れになった。大きい声、早い口、よく笑う、見ている、昔の友。リタを不幸にしたものを全部数えると、ちょうど五つになった。
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ウロは鉤爪を元の指に戻し、割れ目から包み紙を抜き取った。畳み目は湿気を吸って柔らかくなり、広げると、焦がした砂糖の匂いがまだかすかに残っていた。何度も折り直された角は、リタの指が作ったものだ。
これから自分がすることを、リタには知られたくなかった。なぜなのかは、やはり分からない。馬車の中で花壇のことを言わずに口を閉じたのと、夕方の台所で、壊せばいいという言葉を飲み込んだのと、同じところから来ている気がした。リタは、喜んでくださったみたい、よかった、と言った。もしリタが知れば、リタはまた、答えを探して長く黙るだろう。あの片方だけ先に上がる口の端を、ウロは自分の手で下げたくなかった。
だから、侍女見習いの形のままで行く。茶会の木陰に立つ侍女を、卓の誰も見ていなかった。茶を注ぎ、皿を下げ、黙って後ろに立つ者の顔を、あの令嬢たちは覚えない。ウロが笑ったときにだけ五つの顔が振り向いたが、それもウロの顔ではなく、笑い声のほうを見たのだ。
形を変えるには、三つほどの息が要る。一度に選べる形は一つきりで、声は一度でも聞いたものしか出せず、見ていない顔は作れない。一日じゅう人の形を保てば指の先から痺れてくるし、解けばしばらくは動けなくなる。
ヴェラの声も、カミラの笑い方も、ウロはもう持っていた。試しに、カミラの笑い方をなぞってみる。高く、短く、三つ続けて、四つ目で息を吸う。笑い声は水路の天井に当たって何重にも返り、奥の横穴で、鼠が一匹慌てて逃げていく音がした。茶会の卓では人間が振り向き、ここでは鼠が逃げる。どちらにしても、あの笑い方で寄ってくる者はいないらしかった。
居間で、リタは「大丈夫です」と笑った。茶会の卓で作っていたのと同じ、口の端を同じ高さで止める笑い方だった。あの笑い方をリタに覚えさせたのは、日除けの下の五つの口だ。
あの者たちは、リタがどんな場所で言葉を探しているのかを知らない。ウロも知らなかった。だから見に行き、全部を見て、少しだけ分かった。分からない者には、見せればいい。笑っていた口が、笑えなくなるところを。そのとき、あの者たちが何を言うのか、ウロは聞いてみたかった。
格子の上は、もう静まり返っていた。足元の黒い水だけが、昼も夜も変わらない音を立てて、暗がりの奥へ流れていく。包み紙を元の割れ目に戻し、ウロは壁の五つの印を、端から順に目でなぞった。どこから始めるかは、もう決まっていた。百年のあとで、卓の誰よりも先に声を上げたのは、三つ続けて笑うあの口だった。ウロが借りた笑い方の、持ち主だ。
先に、笑った口から。




