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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第15話 破談

 晩秋の午後、居間の暖炉に、その年初めての火が入った。居間は南に大きな窓のある部屋で、夏のあいだは日除けの布が下ろされていたが、今は布が巻き上げられ、低くなった日差しが絨毯(じゅうたん)の上まで斜めに届いている。薪がはぜるたびに、乾いた木の匂いが部屋の隅まで流れていった。ウロは茶器を載せた盆を抱えて、壁際の小卓の脇に立っていた。


 居間には、旦那様と奥様とリタが揃っていた。旦那様は窓辺の椅子で書き付けを読み、奥様は暖炉の前で刺繍(ししゅう)の枠を膝に載せ、リタはその隣の低い椅子で、奥様が使う毛糸を巻く手伝いをしている。三人が同じ部屋で同じ火にあたっているのを、ウロはこの屋敷に来て初めて見た。リタの縁談がまとまりそうだという話は、台所でも何度か聞いていた。女中(じょちゅう)はそのたびに、まだ決まったわけじゃないよ、と言いながら、前掛けで手を拭いて笑っていた。


 扉が叩かれ、家令(かれい)が入ってきた。手には銀の盆があり、その上に白い封筒が一通載っている。夏にヴェラの茶会の招待状が届いたときと、同じ盆だった。けれど家令の歩き方はあのときよりもわずかに遅く、旦那様の前へ盆を差し出すまでに、絨毯の上で一度だけ足を止めた。


 旦那様は封を切り、黙って読み始めた。紙をめくる音がして、それから、もう一度めくる音がした。二枚目の途中で、旦那様の指が止まる。暖炉の薪が一本崩れて火の粉が小さく舞い上がったが、誰もそちらを見なかった。奥様の針は布に刺さったまま動かず、リタの指の上では、巻きかけの毛糸がゆるんでいた。


 旦那様は、長く息を吐いた。溜(た)め息というものを、ウロは宿の主人のもので知っていたが、それよりもずっと長く低く、最後のところが少し掠(かす)れていた。


「……先方から。このたびのお話は、なかったことにしたい、と」


 奥様が、刺繍の枠を膝から下ろした。


「理由は」


「書いてある。丁寧にな」


 旦那様は二枚目の紙に目を落とし、そこにある言葉を、一つずつ拾うように読み上げた。


「さる伯爵家のお茶会で、耳にいたしましたところ。そちらのご令嬢は厨房(ちゅうぼう)の真似事を好まれ、手ずから焼いたものを人に配っておられるとか。また、人前ではお受け答えもままならぬと。当家の嫁としてお迎えするには、いささか――」


 旦那様は、そこで読むのをやめた。紙を折り畳んで封筒に戻し、膝の上に置く。その手は、怒っているようには見えなかった。ただ、ひどく重たいものを持ち上げたあとのように、膝の上でしばらく動かなかった。


 ウロは盆を抱えたまま、その言葉を頭の中でなぞり直していた。厨房の真似事。何が入っているか分かったものじゃない、と続いた声を、ウロは覚えている。薔薇(ばら)の垣の向こうで、柔らかい声のまま、同じ笑みのまま、ヴェラがそう言ったのだ。菓子を花壇へ放(ほう)る、ほんの少し前に。伯爵家の茶会というのがどこの茶会なのか、旦那様は言わなかったが、ウロには言われなくても分かった。


 それから、ウロは壁の印を思い出した。東屋(あずまや)で生まれた言葉が、どうやってよその家まで届いたのか。話を運ぶ口は、日除けの下にいくつも並んでいた。三つ続けて笑い、隣の誰かに寄りかかって、聞いたことをそのまま次の誰かへ渡していく口が。


 奥様が、リタの手を取った。


「リタ。あなたは、何も悪くないのよ」


 リタは、奥様の手と父の顔とを、ゆっくり見比べた。言葉を探している顔だった。旦那様も奥様も、急かさずに待っていた。この屋敷の者は、いつもそうしてリタを待つ。けれど、待っている二人の目の下には、ウロがこの屋敷に来たころにはなかった薄い影が、いつからか溜(た)まっていた。


「……大丈夫、です」


 リタは、笑った。茶会の卓で作っていた、あの笑顔だった。口の端を同じ高さに上げて、そのまま止める。


「わたし、大丈夫です。ごめんなさい、お父様。お母様も。せっかく、探して、くださったのに」


 旦那様は何か言いかけて、やめた。代わりに、リタの頭に手を載せ、二度、軽く叩いた。それきり、居間には暖炉の音だけが残った。ウロは盆の上の茶器が冷めていくのを、指先で感じていた。誰も、茶を飲もうとはしなかった。


 台所に戻ると、先に下がっていた家令が女中に短く何かを告げ、女中は「まあ」と言ったきり、鍋をかき回す手を止めた。居間から下げてきた三つのカップは、どれも縁まで茶が残ったまま冷えていた。ウロはそれを洗い場の流しに沈め、一つずつ、丸いほうの縁を指で挟んで洗った。今日は、何も割らなかった。


◆


 その夜、ウロは鼠(ねずみ)の形で、洗い場の横穴を這い上がった。格子の下で待つこともできたが、今夜は、下から声を聞くだけでは足りないような気がしたのだ。苔(こけ)の湿り気が腹に冷たく、横穴の奥からは、いつもの石鹸の匂いも粉の匂いもしなかった。格子の隙間から顔を出すと、洗い場は暗く、壁の棚に小さな灯が一つだけ置かれていた。


 リタは、流しの前の木の椅子に座っていた。鉢もなく、板もなく、袖もまくっていない。膝の上で両手を重ね、灯のほうではなく、足元の格子のあたりを見下ろしている。ウロは桶(おけ)の陰に身を寄せた。夏の夜に、初めてリタの顔を見たときと同じ桶だった。板はあのころよりも冷たく、晩秋の夜気が、鼠の薄い毛皮の隙間から体の芯へ入り込んでくる。


 洗い場の脇には、裏庭の木々の中でもいちばん古い一本が立っていて、太い枝の先が、洗い場の屋根の上まで伸びていた。葉はもう半分ほど落ち、残った葉も乾いて、灯の届かない暗がりで黒く縮(ちぢ)れている。


「大丈夫って、言えたの」


 声は、上から降ってくるのではなく、すぐそこにあった。


「ちゃんと、言えたの。今日は、すぐに。……すぐに、言えたのに」


 リタの肩が揺れた。重ねた手の甲に、雫(しずく)が落ちる。夏の夜には、その手は泣きながらでも生地を押していた。今夜は、押すものが何もない。手は膝の上で重なったまま、ときどき指先だけが、何かを捏(こ)ねるように小さく動いた。


 格子の下で聞いていたとき、この声はいつも、石の縁から雫と一緒に落ちてきた。顔も手も灯の色も見えず、声だけが角を残して届いた。今は、全部が見える。膝の上の手も、濡れた頬も、灯に照らされた睫毛(まつげ)の先も。見えるぶんだけ、分かることが増えるはずだった。けれど、声の中にあるものは、上から見ても下から聞いても、同じように手が届かなかった。


「わたしが、いけないの。ヴェラ様のお茶会で、うまく、お返事できなかったから。お菓子なんて、焼いていったから。……お父様、あんなに、疲れたお顔をして」


 ウロは、桶の陰で動かなかった。リタは、自分を責めていた。菓子を花壇へ放った手首のことも、垣の向こうの柔らかい声のことも、リタは知らない。知らないまま、喜んでくださったみたい、よかった、と馬車の中で言ったのだ。ウロはあのとき、口を閉じた。閉じたままにしたことが今夜のこの声に繋(つな)がっているのかどうか、ウロには分からなかった。


 そのとき、頭の上で枝が鳴った。


 乾いた音が一度だけ、洗い場の屋根の上から降ってきた。ウロは鼻先を上げたが、古い木の枝は暗がりの中で動かず、残った葉の一枚も揺れていない。風はなかった。棚の灯の炎も、まっすぐに立ったままだった。広場で名乗った日にも、こんな音を聞いた気がしたが、ウロはすぐに目をリタのほうへ戻した。リタは、顔を上げもしなかった。


「……ごめんなさい」


 誰に謝っているのかは、やはり分からなかった。お父様になのか、お母様になのか、それとも、ほかの誰かになのか。リタはしばらくそのまま座っていたが、やがて灯を取り、戸の向こうへ消えていった。洗い場が暗くなり、格子の下から、水の音だけが上がってきた。


 ウロは、桶の陰から出た。リタは一度も、ウロの名を呼ばなかった。呼ぶはずがない。リタは、ここに誰かがいることを知らないのだから。それでもウロの体は、声を聞いたときから、ずっと前へ出ようとしていた。名前を呼ばれた者は、呼ばれたほうを向く。広場でそう知った。けれど、呼ばれていないのに体が動くということを、何と呼べばいいのか、ウロはまだ知らなかった。


 格子をくぐり、横穴を下りながら、ウロは壁の印のことを考えていた。五つの丸と、その隣の、空っぽの丸。並べるだけなら、もう済んでいる。並べて、見て、それでも分からないことは、いくら眺めても分からないままだった。


 選ぶ時だ、とウロは思った。


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