第14話 パン屋の娘
朝の試食は、夏が過ぎても続いていた。リタは夜のうちに洗い場で生地を捏ね、翌朝、女中がそれを竈で焼く。焼き上がるとリタが台所へ下りてきて、端のところをちぎってウロに差し出し、ウロはそれを食べて、どうおいしいのかを言う。それが、毎朝の決まりになった。皿は、あれから一枚も割っていない。
裏庭の木々が色を変え始めるころには、朝の台所も日ごとに冷え込み、竈に最初の火を入れるウロの指先が、薪の皮のささくれを拾うようになった。ウロの言葉も、少しずつ増えていた。昨日より塩が強い、今日は皮が薄くて先に甘さが来る、底のところが少し焦げて苦い。リタはそれを小さな帳面に書き留めるようになり、ウロが言葉に詰まると、リタのペンも一緒に止まった。待つ者が二人に増えた台所で、朝のパンの端は、いつも二つに分けられた。
帳面は、刺繍の図案を写すのに使っていたものの残りで、花の模様を描いた紙の後ろに、ウロの言葉が朝ごとに並んでいる。ある朝、リタはそれを開いて見せてくれた。自分の口から出ていった音が、紙の上で黒い形になって残っているのを、ウロはしばらく眺めていた。格子の下の壁に刻んできた印と、どこか似ているような気がした。
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その日、リタが台所へ下りてきたのは、朝ではなく夕方だった。秋が深まって、夜の洗い場は指がかじかむほど冷えるようになり、女中が「せめて竈の火のあるうちに」と言ったのだ。窓の外では、日が屋敷街の屋根の向こうへ沈みかけていて、どの家の塀の上にも、同じ高さで灯がともり始めている。通いのウロが帰り支度をする刻限だったが、「見て、いきますか」とリタに訊かれて、ウロは前掛けの紐にかけた指を止めた。
リタは捏ね終えた生地を鉢に移し、濡らした布をかぶせて、竈のそばの棚に置いた。それから粉のついた手を払い、鉢の前の椅子に腰を下ろして、布の上に手のひらをそっとかざす。竈の残り火が煉瓦の口で赤く息をしていて、その温もりが、棚の上の鉢をゆっくりと包んでいた。ウロが布の端から中を覗こうとすると、リタはそれを、指先でそっと止めた。
「……今、休んでいるの。こうしておくと、ふくらむの」
ウロは、声を落とした。
「起こすと、いけないのか」
リタは目を丸くし、それから口元を手で覆って、肩を小さく震わせた。笑っているのだと分かるまでに、少しかかった。生地は眠っているのではなく、温かいところで静かにしていると、中で何かが働いてふくらんでくるのだという。ウロにはやはりよく分からなかったが、布の下の白い塊は、確かにさっきよりも、鉢の縁に近づいていた。
台所には、ほかに誰もいなかった。女中は家令に呼ばれて表へ行ったきりで、鉢から漂う匂いだけが、甘いような少し酸っぱいような温かさで、二人のあいだに満ちている。夏の夜に、格子の下で初めて嗅いだのと同じ匂いだった。リタは布の端を指で整えながら、ぽつりと言った。
「ウロさんは、前は……下町に、いたのでしょう」
「宿にいた。川のそばの」
「下町には、パン屋さんも、ありますか」
ウロは、市場の通りを思い出した。開け放した窓から甘い匂いがあふれ、店先の台に、丸いのや長いのや、表面に艶のあるパンが並んでいた。それを言うと、リタは椅子の上で少しだけ身を乗り出した。ウロはもう一つ、覚えていたことを付け足した。
「パンを渡すと、客が金を置いて、ありがとうと言っていた。払ったほうが、礼を言う。なぜかは、分からなかった」
リタは、しばらく黙っていた。窓の外の灯が、一つ、また一つと増えていく。
「……いいな」
小さな声だった。格子の上から降ってくる夜の声と、同じ高さの声だった。
「わたし、ほんとうは……下町の、パン屋さんの娘だったら、よかったの。朝早く起きて、窯に火を入れて、焼けたのを、お店に並べて。それで、おいしかったって、誰かに言ってもらえたら……それだけで、一日が、終わるの」
言い終えてから、リタは自分の言葉に驚いたように、粉のついた指で口を押さえた。頬が赤くなり、ごめんなさい、変なことを、と言いかけて、そこでまた言葉が詰まる。恥ずかしいことを言ってしまった、という顔だったが、何が恥ずかしいのかが、ウロには分からなかった。
ウロは、リタの言葉を一つずつ並べ直した。朝早く起きる。窯に火を入れる。焼けたものを並べる。おいしかったと言われる。どれも、この台所でリタがもう毎朝していることだった。違うのは、ここにあるのが窯ではなく竈で、おいしいと言うのがウロ一人だということくらいだ。
「なればいい」
リタの指が、口元から離れた。
「パン屋の娘に、なればいい。パンは、もう焼ける。おいしいのも、知っている」
リタは困ったように笑って、首を小さく横に振った。それから、何度も言葉を探しながら、ゆっくりと説明した。子爵家の娘は、店に立つことも、粉を量って売ることもできない。家の名を背負った娘が手にしていいのは、刺繍の針と手紙のペンと、いずれ嫁ぐ先の家の鍵だけで、何になるかを自分で選ぶことはないのだという。
「誰が、決めた」
リタは、すぐには答えなかった。鉢の布に目を落とし、その端を何度も指で撫でてから、ようやく顔を上げた。
「……お父様と、お母様と、お家と。それから……みなさん、かしら。お茶会の、みなさんも、きっと。子爵家の娘が、パンを焼いて売っていたら……なんて言われるか、分からないもの」
みなさん、という言葉の中に、日除けの下の五つの顔が入っているのかどうか、ウロには分からなかった。けれど、なんて言われるか、の先は分かる気がした。リタが答えを探しているあいだに、先に笑いが来るのだ。
「お父様が、今……ご縁を、探してくださっていて。秋のうちには、お話が、まとまりそうなの」
そう言ったリタの顔は、嬉しそうでも悲しそうでもなく、茶会の卓で作っていた笑顔とも違っていた。まだ何の形も決まっていない、捏ねる前の粉のような顔だった。
「それが……貴族、というもの、だから」
ウロは、その言葉を口の中でなぞった。貴族というもの。ゴブリンの長老は、それが群れだからだと言い、宿の主人は、うちは客商売なんだと言った。なぜと訊くと、魔物も人間も、最後にはいつも、それが何々だからと言う。巣の焚き火の前で思ったのと同じことを、ウロはもう一度思った。答えになっていない。
リタの言う「貴族というもの」が何でできているのか、ウロは頭の中で並べてみた。高い塀と、鉄の門と、夜道を見回る男たち。招待状と、茶会の卓と、日除けの下に並んだ五つの顔。百年と言った口と、三つ続けて笑う口と、菓子を花壇へ放った手首。どれも、リタが自分で選んだものではない。リタをパン屋の娘にさせないものと、リタを笑うものは、どちらも同じ塀の内側にあった。
ゴブリンの巣では、窪みの一匹は最後まで順番の中に入れてもらえなかった。ウロが骨を一本分けても、何も変わらなかった。変わらないものの中に入れてもらえる日を待っていては、あの一匹はずっと窪みに座ったままだ。
ならば、壊せばいい。
その言葉は喉のすぐ下まで組み上がったが、ウロは口を閉じたままでいた。宿の窓際の男の顔の色を思い出したのではない。馬車の中で、花壇のことを言わずに口を閉じたときと、同じ閉じ方だった。何を壊せばいいのかも、どうやって壊すのかも、まだ形になっていない。形にならないものを口に出せば、リタはまた、それを探して黙り込むだろう。
棚の上で、鉢の布がわずかに持ち上がっていた。リタは立ち上がって布の端をめくり、ふくらんだ生地を指先でそっと押した。押した跡は、ゆっくりと時間をかけて、元に戻っていった。
「よかった。ちゃんと、ふくらんだ」
リタは、小さく笑った。口の端が、片方だけ先に上がる。ウロが朝ごとに見てきた、パンの端を差し出すときの笑い方だった。窓の外では屋敷街の灯がすっかり揃い、塀の上に同じ高さで並んで、どれも動かずに光っていた。
ウロは、その笑顔を守る方法が、一つしか思いつかなかった。




