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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第13話 ゆっくり、ね

 花壇の菓子を食べた日から、三日が過ぎた朝だった。台所の竈(かまど)にはまだ火が入ったばかりで、煉瓦(れんが)の口から薪のはぜる音と、乾いた煙の匂いが流れ出ている。窓の外は白み始めたところで、裏庭の木々の影が、石の床に長く斜めに伸びていた。通いを始めて半月ほどが過ぎ、朝の台所に一番に入るのは、ウロの役目になっている。年配の女中(じょちゅう)は朝の市へ出かけていて、台所にいるのはウロ一人だった。


 竈の脇の台には、布をかぶせた鉢が置いてあった。昨夜、洗い場でリタが捏(こ)ねていた生地だ。格子の下で、ウロはその手の音を聞いていた。押す、畳む、向きを変える。ことん、ことんという板の音は、茶会の前の夜よりも、ほんの少しだけ軽かった。


 ウロの朝の仕事は、食堂の棚から朝食の皿を出して、台所の卓に並べておくことだった。棚の皿は、大きいものから小さいものまで、きちんと重ねてしまわれている。宿では、重ねすぎて割り、一枚ずつにして遅いと言われ、急いでまた割った。ウロはあれから、自分なりの「どのくらい」を決めていた。五枚までなら、腕の中で傾かない。


 五枚を胸の前に抱え、食堂から台所へ続く短い廊下を歩く。足元を確かめ、段差の手前で一度止まり、それから越える。台所の戸口をくぐったところで、背中のほうから、小さな足音がした。


「あ……おはよう、ございます」


 振り返ると、リタが立っていた。昼の服ではなく、袖の細い簡素な服に前掛けを着けて、髪を一本の紐で後ろにまとめている。屋敷の娘が、こんな時刻に台所へ来るとは思っていなかった。ウロが目を見開いた拍子に、腕の中の重さがわずかに傾いた。いちばん上の皿が滑り、次の皿がそれを追い、ウロの指が掴(つか)み直すより先に、五枚の皿は石の床へ落ちていった。


 割れる音は、宿の床で聞いたものよりも高く、長く響いた。白い欠片(かけら)が床の上に散らばり、いくつかはリタの靴の先まで滑っていって止まった。


◆


 ウロは、床を見下ろしたまま動かなかった。次に来るものを、ウロは知っていた。割るなよ、と言われる。それから、今日で終わりにしてくれ、と言われる。ウロは前掛けの紐の結び目に、そっと指をかけた。ほどいて返す準備をしておけば、少しは早く済むだろうと思ったのだ。


 けれど、リタは何も言わなかった。言わないまま、ウロの顔と床の欠片を、ゆっくりと見比べていた。言葉を探している顔だった。茶会の卓で、三つ目の息を吸っていたときと同じ顔だ。ウロは紐に指をかけたまま待った。宿の主人が待たなかったものを、ウロは待つことにした。


「……大丈夫」


 ようやく出てきたのは、その一言だった。リタはそれから、自分の言葉をもう一度確かめるように、小さく頷(うなず)いた。


「大丈夫、です。……ゆっくり、ね」


 リタはその場にしゃがみ、床に手を伸ばした。ウロも慌ててしゃがんだが、リタの指はもう、いちばん近くの欠片をつまみ上げていた。


「手が、切れる」


「ゆっくりなら、切れないの」


 リタは、欠片の尖った縁ではなく、丸く欠けたほうの縁を、親指と人差し指でそっと挟んでいた。一つ拾うたびに前掛けの上に置き、次の欠片を探して、また同じように挟む。急がない指だった。洗い場で生地を押していたときと同じ速さで、同じ丁寧さで、リタの指は床の上を進んでいった。


「わたし、ゆっくりは、得意だから」


 リタはそう言って、少しだけ笑った。口の端が片方だけ先に上がる、あの笑い方だった。


 ウロは、リタの指の動きを見て、それを真似た。尖ったほうではなく、丸いほうを挟む。一つ拾ったら、置く。それから次を探す。同じ欠片に二人の指が同時に伸びて、指先が触れ合ったとき、リタの指は少しかさついていて、ウロの借りものの指よりもずっと温かかった。二人で並んで拾っていくうちに、白い欠片は前掛けの上に小さな山になり、石の床には、細かな粉のような破片だけが残った。


「……前の宿では、割ったら、やめさせられた」


 ウロが言うと、リタの手が止まった。


「そう、なの」


 リタは前掛けの上の欠片の山を見下ろし、それから、長いあいだ黙っていた。答えを探しているのだと、ウロにはもう分かっていた。だから、待った。


「わたしも……よく、割るの。お茶会の、カップも、一度。だから、ウロさんだけじゃ、ないです」


 ウロさん、と呼ばれた。名前のあとに、人を呼ぶときの音が付いている。ヴェラ様やカミラ様の「様」ほど高くはないが、それでも、ウロという音が誰かに大切そうに呼ばれたのは、それが初めてだった。


◆


 竈の火が落ち着いたころ、市から戻った女中が鉢の生地を焼いた。台所じゅうに、あの匂いが満ちていく。洗い場の格子の下で、毎夜、水に混じって降ってきていた粉の匂いが、熱を通されて、甘く香ばしい匂いに変わっていた。女中は割れた皿の山を見て眉を上げたが、リタが「わたしが、驚かせて、しまったの」と言うと、溜(た)め息を一つついて、それ以上何も言わなかった。


 焼き上がったパンは、丸く、表面に艶(つや)があり、指で叩くと乾いた音がした。リタは布巾(ふきん)で包むようにして一つを取り、両手でそっと割った。白い湯気が立ちのぼり、割れ目から、やわらかな中身がのぞく。リタは端のところを、指でちぎった。


「端っこが、いちばん、おいしいの。……はい」


 差し出された端を、ウロは受け取った。熱かった。指先がじんと痺(しび)れるほど熱く、ウロは手のひらの上で、それを何度か持ち替えた。リタは、ウロが食べるのを待っていた。


 口に入れると、外側の焼けた皮が、歯の下でぱりりと割れた。その奥から、湯気をふくんだやわらかいものが出てきて、舌の上でほどけていく。塩の味が少しして、そのあとに、噛(か)むほどにかすかな甘みが出てきた。熱さが喉を通って胸の奥へ降りていき、そこで、縮んだまま戻らなかったものの上に、しばらくとどまっていた。


 花壇で拾った菓子と、同じ手の味がした。そのことを言おうとして、ウロはやめた。言えば、花壇のことも言わなければならなくなる気がしたのだ。


 ウロは、口の中のものを飲み込んでから、言った。


「外が、かたい。中が、あたたかい。塩が、少し。……おいしい」


 リタが、目を丸くした。


「みなさん、おいしいって、言ってくださるけど……どう、おいしいのかは、初めて、聞きました」


 ウロは手の中に残った端を見下ろした。宿の女中は、握り飯を半分にして、ウロの手に載せてくれた。返さなくていいと言った。あれは、半分こだった。ウロは端を二つにちぎり、片方をリタのほうへ差し出した。


「半分こ」


 リタは差し出された小さなかけらを、しばらく見ていた。それから受け取り、口に入れて、ゆっくりと噛んだ。リタの頬に、また粉が白く付いていた。


 ウロも、手に残った半分を口に入れた。半分にしたぶん小さくなったはずなのに、さっきの一口よりも、なぜか長く口の中に残っている気がした。分けた者と分けられた者が、同じものを噛んでいる。窓から差し込む朝の光の中で、二人の噛む音だけが、しばらく小さく続いていた。


◆


 朝食の支度が始まり、台所に人の出入りが増えてくると、リタは前掛けの欠片の山を女中に渡して、戸口のほうへ歩いていった。戸口で、リタは足を止めた。振り返り、口を開きかけ、閉じて、もう一度開く。ウロは、それを待った。


「あの……また、明日も、いいですか。焼けたら、その……食べて、ほしくて」


 ウロは、リタの顔を見た。格子の上から降ってくる声は、いつも謝っていた。ごめんなさい、わたしがいけないの、と。洗い場の夜に女中へ頼んでいたのは、焼いてみんなで食べてくれということだけで、そこにリタ自身の欲しいものは入っていなかった。リタが自分の望みを口にして、誰かに頼むのを、ウロは初めて聞いた。


「いい」


 言ってから、ウロは家令(かれい)の顔を思い出した。


「……はい」


 リタは、片方だけ先に口の端を上げて、戸の向こうへ消えていった。


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