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化物賛歌~醜心炯~  作者: 没案供養工房
第一章 キメラ編

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第12話 庭に捨てられた菓子

 茶会から四日目の夜、格子の上から落ちてくる水の匂いが、いつもと違っていた。石鹸の匂いの奥に、焦がした砂糖とバターの甘い匂いが混じっている。茶会の卓に並んでいた焼き菓子と、よく似た匂いだった。その夜、声は嘆かなかった。代わりに、鉢の中で何かを混ぜる木の匙(さじ)の音だけが、長いあいだ続いていた。


 翌朝、台所口から入ると、竈(かまど)の脇の卓に、小さな焼き菓子が冷ましてあった。指の先ほどの丸いものが二十ほど並び、縁がほんのりと焦げ色を帯びている。そばでは、リタが薄い紙と細い紐を手に、一つずつ包む練習をしていた。何度も紙を折り直したせいで、包みの角は少し柔らかくなっていた。


「お茶会の、お礼に、と思って。お母様が、お手紙だけでは、って」


 リタは、ウロが訊いてもいないのに、そう説明した。それから包みを見下ろし、紐の結び目を指でそっと押さえた。


「……変、でしょうか。手作りなんて」


 年配の女中(じょちゅう)が、まだ少しむくんだ足を引きずりながら竈の前から振り返った。「変なもんですか。お嬢様のお菓子は、王都一ですよ」。リタは困ったように笑い、それから少しだけ、ほんとうに笑った。茶会の卓で見た笑顔とは違う、口の端が片方だけ先に上がる笑い方だった。


 リタは最後の包みに紐をかけ、結び目を作っては、ほどいた。輪の大きさが左右で揃わなかったのだ。三度目にようやく揃うと、リタは包みを胸の前で持ち上げ、窓の光にかざすようにして眺めた。急がない指が作った結び目は、ゆっくりと時間をかけたぶんだけ、きれいに揃っていた。


◆


 ヴェラの屋敷を訪ねたのは、その日の午後だった。付き添いは今度もウロで、女中の足はまだ治っていなかった。来訪を告げると、侍女頭が二人を庭へ案内した。白い砂利(じゃり)を敷いた小道の両側に薔薇(ばら)の垣が続き、真昼の日差しに温められた花の匂いが、むっとするほど濃く立ちこめている。小道の先の東屋(あずまや)で、ヴェラはカミラと二人、冷たい果実水を飲んでいた。


「まあ、リタ様。わざわざ、いらしてくださったの」


 ヴェラは立ち上がり、茶会の日と同じ柔らかさでリタを迎えた。リタは包みを両手で差し出し、昨夜から何度も口の中で繰り返していたらしい言葉を、一つずつ並べた。


「先日は、あの、ありがとう、ございました。これ、わたしが、焼いたもので……お口に、合うか、分からないのですけれど」


「手作り? 嬉しいわ」


 ヴェラは包みを受け取り、両手で胸の前に抱えるようにした。その手首で、細い銀の腕輪が、新しいドレスには不釣り合いなほど古びた色をして光っていた。リタの後ろに控えていたウロには、ヴェラの目がリタの顔ではなく、何度も折り直して柔らかくなった包みの角のほうを見ているのが分かった。


 カミラが「リタ様って、器用でいらしたのね」と笑い、ヴェラが「大切にいただくわ」と微笑む。短い訪問はそれで終わった。侍女頭に送られて門のほうへ歩きながら、リタは何度も東屋を振り返り、そのたびに小さく頭を下げた。その横顔は、ウロがこの屋敷で見たどの顔よりも明るかった。


 馬車に乗り込む直前、リタが自分の手を見て、小さく声を上げた。


「あ……手袋。東屋の、椅子に」


「取ってくる」


 ウロは、リタが何か言うより先に、庭へ引き返した。侍女頭は門のところで御者(ぎょしゃ)と話していて、ウロのほうを見ていなかった。薔薇の垣に沿った小道を戻り、東屋の手前の角を曲がったところで、ウロは足を止めた。垣の向こうから、ヴェラとカミラの声が聞こえたのだ。


「ほんとうに、焼いてきたのね」


 カミラの声だった。垣の葉の隙間から、東屋の中が見える。ヴェラは卓の上で包みの紐をほどき、中の菓子を一つ指でつまんで、鼻先に近づけてから、光にかざすように眺めていた。


「厨房(ちゅうぼう)の真似事なんて。何が入っているか、分かったものじゃないわ。子爵家の方は、お暇でいらっしゃるのね」


 ヴェラの声は、さっきと少しも変わらなかった。同じ柔らかさで、同じ笑みのまま、ヴェラは包みごと菓子を持って立ち上がり、東屋の縁まで歩いていく。そして、手首を軽く返した。小さな丸い菓子が、ぱらぱらと音を立てて垣の根元の花壇へ散らばり、最後に紙の包みが、ひらりとその上に落ちた。


「ああいう、分を弁(わきま)えないのはね、許せないの」


「ヴェラったら、ひどい」


 カミラはそう言いながら、高く短く、三つ続けて笑った。ヴェラは指先についた粉をハンカチで拭い、カミラの腕を取って、館のほうへ歩いていった。二人の背中が戸の向こうへ消えるまで、ヴェラは一度も花壇を振り返らなかった。


◆


 ウロは、垣の陰からしばらく動かなかった。動けなかったのではなく、どう動けばいいのかが分からなかったのだ。ヴェラは包みを受け取り、嬉しいと言い、大切にいただくと言った。言った言葉と、した手の動きが、まるで別の者のものに見えた。垣の枝を握っていた指の先が、むずむずと疼(うず)いた。見下ろすと、爪がほんの少しだけ、人のものより尖りかけていて、ウロは息を一つ吐いてから、それを元に戻した。


 東屋に入り、椅子の上の手袋を取ってから、ウロは花壇の前にしゃがんだ。菓子は湿った黒い土の上に散らばり、いくつかは割れて、断面の白さがのぞいていた。早くも蟻(あり)が一匹、割れた欠片の縁を這い上がっている。ウロは蟻を指で払い、菓子を一つずつ拾い上げて、手のひらに集めた。土の粒が、焼き色の上にざらりと付いていた。


 ゴブリンの巣では、食べ物には順番があった。宿の女中は、握り飯を半分にして分けてくれた。食べ物は、取り合うか、分けるか、どちらかのものだった。誰も食べずに土の上へ捨てるということを、ウロはこれまで一度も見たことがない。下水道に流れてくる野菜の屑(くず)でさえ、誰かが食べきれずに残したものだった。腹の減っている者が、どこにもいないわけではないのに。


 ウロは、拾った菓子を一つ口に入れた。歯が当たると、表面がさくりと崩れ、焦がした砂糖のかすかな苦みのあとに、バターの甘さが舌の上にゆっくり広がった。土の粒が奥歯に挟まって、じゃり、と鳴る。それでも、昨夜の格子の上から降ってきた匂いが、口の中いっぱいに戻ってきた。茶会の卓の菓子には誰も手を付けなかったが、この菓子は、リタが夜の洗い場で、木の匙の音を長く鳴らして作ったものだった。


 ウロは、手のひらの菓子を一つ残らず食べた。割れた欠片も、土の付いた底の焦げも、全部だった。市場の人間たちが、何かを食べたあとで言っていた言葉がある。おいしい。その言葉を、ウロはこれまでただの音としてしか知らなかったが、今、口の中に残っているこの味に、その音を結びつけておくことにした。花壇の上には、紙の包みだけが残っていた。ウロはそれも拾い、土を払って小さく畳み、前掛けの物入れにしまった。


◆


 馬車に戻ると、リタが手袋を受け取って、「ありがとう」と言った。


「……喜んで、くださったみたい。手作り、嬉しいって。よかった」


 リタは包みのなくなった膝の上で手を重ね、窓の外を見た。口の端は、片方だけ先に上がっていた。


 訊かれたら、ウロは答えたはずだった。けれど、リタは訊かなかった。よかった、と言っただけだった。ウロは口を開きかけ、宿の窓際の男の顔の色を思い出し、それから、片方だけ先に上がっている口の端を見て、閉じた。なぜ閉じたのかは、自分でも分からなかった。


 馬車が揺れ、ウロの奥歯に残っていた土の粒が、もう一度小さく鳴った。ウロは、ヴェラの口から聞いた言葉を、声には出さずに舌の上で転がしてみた。分を弁えない、の意味は知らない。けれど、もう一つのほうは、今日の自分の胸のあたりにある、縮んだまま元に戻らないものに、いちばん近い音をしていた。


 許せない。


 ウロは、初めてその言葉を自分のものとして口の中で言った。意味は、まだ分からなかった。


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