第11話 観察帳
その夜、ウロはいつもより早く格子の下へ戻った。屋敷の台所口を出て路地の格子から鼠の形で潜り込み、水路の底で人の形を解くと、一日じゅう保っていた骨がいっせいに緩んで、体が板の上に崩れ落ちるように伏せた。茶会の日除けの下で浴びた日の熱が、まだ肌の奥に残っている。ウロはしばらく、冷たい石に頬を押しつけて、その熱が水路の湿り気に吸われていくのを待った。
熱が引いてから、ウロは体を起こし、格子の真下の壁に向き合った。石を積んだ壁は、長いあいだ水に洗われて表面がなめらかになり、腰のあたりの高さに、増水のたびに残った水の跡が、幾筋も横に走っている。その跡より少し上の、乾いた石を選んで、ウロは右手の指を一本だけ鉤爪に変えた。爪の先を石に当てると、かり、と硬い音がして、白い粉が細く落ちた。
茶会で見たものを、ウロは忘れないうちに並べておきたかった。顔と声は体が覚えている。けれど、誰が何をしたのかは、一度にたくさん見すぎて、頭の中で混ざりかけていた。宿の主人の「どのくらい」も、群れの順番も、ウロは自分で並べ直してからでなければ、何も分からなかったのだ。
まず、顔を刻もうとした。丸を描き、目を二つ、口を一つ。五つ描いたところで、ウロは手を止めた。どの丸も同じ形をしていて、どれがヴェラでどれがカミラなのか、刻んだ本人にも見分けがつかない。人間の顔は、石に刻むと全部同じになるらしかった。ウロは五つの丸の下に、それぞれ別の印を付けることにした。
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一つ目の丸の下には、太い線を一本、まっすぐ下へ引いた。ヴェラの印だった。ヴェラの声は大きくはない。それでも、ヴェラが口を開くと皆がそちらを向き、ヴェラが一言添えると話がそこで終わる。ゴブリンの長老の杖も、地面を一度突くだけで穴の中を静かにした。ウロの知っている言葉のなかで、それにいちばん近いのは「大きい声」だった。
ウロは喉を少し作り変えて、ヴェラの声を出してみた。
「面白い子を連れていらしたのね」
柔らかい声が水路の暗がりに広がり、石の壁に当たって、何度か薄く返ってきた。声はよくできていた。けれど、同じ声で同じ言葉を言っても、なぜ皆があの声のほうを向くのかは、少しも分からなかった。格子の上の声を真似たときと同じだった。
二つ目の丸の下には、短い線を細かく、いくつも並べた。ノエラは「早い口」だ。話の口火を切るのはいつもノエラで、百年と言ったのもノエラで、その言葉は、リタの三つ目の息よりも先に来た。三つ目の下には、波のような線を引いた。カミラは「よく笑う」。笑うたびに隣の誰かに寄りかかり、その誰かを、自分の笑いの側へ引き寄せる。格子の上の声は、カミラが内緒をみんなに話してしまったと言っていた。笑う口と話す口は、同じ口なのだ。
四つ目の丸の下には、何も刻まなかった。ドーラは、何も言わず、何もしなかった。ただ頷き、口元に手を当てて、困ったように笑っていた。笑ってはいけないものを笑ってしまった、という顔に見えたが、それでもその笑い声は、卓の笑いの中にきちんと混ざっていた。ウロは少し考えてから、丸の目のところだけを深く彫り直した。ドーラは「見ている」だ。
五つ目の丸だけは、どんな印にすればいいのか分からなかった。フィナはリタの斜め向かいに座り、一度もリタを見なかった。皆が笑ったときにだけ、フィナは肩を揺らし、それから自分のカップの中を、まるで何かが沈んでいるかのように覗き込んでいた。見ないようにしている者の顔は、見ている者の顔とも、笑っている者の顔とも違っていた。ウロは爪を石に当てたまま、格子の上に月が来るのを待った。
上の街の音は、一つずつ消えていった。遠くの車輪の音が途切れ、どこかの家の戸締まりの音がして、それきり水の音だけになる。足元の暗がりを鼠が一匹走り抜けていったが、ウロは目で追わなかった。目を閉じると、帰りの馬車の窓辺で崩れていったリタの顔が浮かんできて、それは石に刻んだどの丸とも、似ていなかった。
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水が落ちてきた。いつもより量が少なく、石鹸の匂いも薄い。水が止み、長い間があってから、声が降ってきた。
「……百年、ですって」
声は、小さく笑っていた。笑いながら、その笑いが途中で崩れて、鼻をすする音に変わる。
「わたし、笑ったの。皆さんと一緒に。一緒に笑っていれば、少しは……同じところに、いられる気がして」
ウロは鉤爪を石から離した。同じだ、と思った。ウロもあの卓のそばで笑った。笑えば仲間になると思ったのだ。リタも同じことを考えて、同じように笑って、同じように誰にも寄ってきてもらえなかった。
「ヴェラ様は、お優しいの。いつも、わたしにも、お声をかけてくださって。だから、お答えできない、わたしがいけないの」
ウロは首を傾げた。ヴェラが声をかけ、リタが答えを探しているうちに、ノエラが百年と言った。ヴェラは窘めるように笑い、それで話は終わった。声をかけることが優しいのなら、答えを待たずに話を終わらせることは何と呼ぶのか、ウロは知らなかった。
「フィナは、前は、わたしの隣に座ってくれたのに」
声は、ほかの名前とは違う呼び方でその名前を呼んだ。様を付けなかったのだ。
「わたしが話したこと、ぜんぶ、聞いてくれたのに。……今日は、一度も、こっちを見てくれなかった」
戸の閉まる音がして、気配は消えた。
ウロは五つ目の丸の下に、二本の線を刻んだ。並んで始まり、途中から別々の方向へ離れていく線だった。フィナは「昔の友」。様を付けずに呼ばれる者で、隣に座っていた者で、今は見ないようにしている者だ。
刻み終えてから、ウロは三つ目の波の線と、五つ目の離れていく線を見比べた。リタの内緒を、カミラはみんなに話してしまった。けれど、内緒というのは、誰かに話さなければ誰にも知られないものだ。リタが内緒を話した相手は、ぜんぶ聞いてくれた隣の者だったのではないか。そこから先の道筋は、石の上にはまだ刻めなかった。
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五つの印が並ぶと、壁は少しだけ群れの寝床に似て見えた。大きい声、早い口、よく笑う、見ている、昔の友。ウロは並んだ印を、端から何度も目でなぞった。三つの印は分かりやすかった。話を終わらせ、笑い、言いふらす者たちだ。リタを笑ったのも、リタの内緒を広めたのも、その者たちだった。
分からないのは、四つ目だった。ドーラは、何もしていない。百年とは言わなかったし、内緒を広めてもいない。リタに向かって、何一つ言葉を投げていない。それなら、ドーラはリタを不幸にしていないのだろうか。
ウロは、ゴブリンの巣のことを思い出した。窪みの一匹を、誰も殴らなかった。誰も怒鳴らなかったし、追い払いもしなかった。ただ、穴の中の目が、揃ってこちらを向き、揃ってよそを向いた。肉の切れ端は、その一匹の前だけを素通りした。何もしない目がいくつも揃うと、それが壁になるのだ。あの一匹は、その壁の内側に、ずっと座っていた。
鉤爪の先が、少し欠けていた。石を刻み続けたせいで、指の付け根までじんと痺れている。ウロは爪を元の指に戻し、痺れた手を水に浸した。冷たい流れが指のあいだを抜けていき、削った石の粉が、黒い水の上に白く浮いて、ゆっくりと暗がりの奥へ運ばれていった。
一番何もしていない者も、リタを不幸にしたのか。ウロには、まだ分からなかった。けれど、分からないままにしておくには、あの困ったような笑い顔が、目の奥にはっきりと残りすぎていた。
ウロはもう一度だけ指を鉤爪に変え、四つ目の印の隣に、小さな丸を刻んだ。名前は付けず、印も付けない、ただの空っぽの丸だった。茶会の卓のまわりで、何もしなかった者は、ほかにもいたような気がした。日除けの外の木陰に、何人も並んで立っていた気がした。ウロは、それを数えなかった。
分類が、一つ増えた。何もしなかった者。




