第9話 選んだ食卓
「エレノーラ・フォン・ヴァイス。王太子妃候補として、王城に出仕せよ」
貴族会議の広間に、セドリックの声が響いた。
高い天井。磨かれた大理石の床。左右に並ぶ貴族たちの視線が、私に集まる。
壇上にはセドリック。金髪が窓から射す光に輝いている。あの顔を見ると、まだ体が強張る。毒の記憶。冷たい声。——でも、今日で終わりにする。
その隣に——義母マティルデが座っていた。顔色が悪い。頬がこけている。かつて社交界を闊歩していた女とは思えない。監査のせいだろう。
目が合った。義母が唇を噛むのが見えた。
私は会議場の中央に立っていた。
心臓がうるさい。でも、手は震えていない。今日のために準備した。一度目の人生では持っていなかったもの——法的根拠と、それを整理してくれた人がいる。
「王太子殿下」
声が、思ったより澄んでいた。
「この議題には、法的根拠がありません」
会場が水を打ったように静まった。
「婚約の成立には、両家当主の同意と王室への届出が必要です。しかし、ヴァイス伯爵家には現在、当主がおりません」
義母の顔が歪んだ。
「先代伯爵——私の父は六年前に病死しております。マティルデ・フォン・ヴァイスは当主ではなく、後見人として家政を代行しているにすぎません」
セドリックが眉をひそめた。「後見人には同意権がある——」
「後見人が提出した同意書の件ですね」
間髪を入れず返した。
「しかし、その後見人は——」
ここで、ヴィクトルが立ち上がった。
会場の空気が変わった。宰相が発言する時、貴族たちは背筋を正す。
「宰相府より報告します」
低く、平坦な声。感情の色は一切ない。公務の声だ。
「ヴァイス伯爵家後見人マティルデに対し、先代伯爵夫人の遺産金貨三千枚相当の横領について、正式な告発状が受理されました。証拠は先代夫人が遺した帳簿の写しと遺言状の原本です」
義母が立ち上がろうとして、隣の貴族に止められた。
「——嘘です! あれは正当な管理費として——」
「帳簿の照合結果は審問官が確認済みです。不一致は七百三十二箇所」
七百三十二。
会場にどよめきが走った。
ヴィクトルは義母を見もせずに続けた。
「本件に基づき、後見人資格の剥奪を動議します」
採決。
賛成——過半数。
義母の後見人資格が、剥奪された。
伯爵家の爵位は、後継者が確定するまで王室管理下に凍結。ルシウスは王室任命の教育係のもとに置かれる。
そして——義母が提出した婚約の同意書は、提出者の資格喪失により、効力を失った。
「王太子殿下」
私はもう一度、セドリックに向き直った。
「同意者が不在となりました。本議題は成立要件を満たしません」
セドリックの拳が、壇上で白くなるのが見えた。
「エレノーラ……宰相邸ではなく、王城に——お前の才能は、王国のために——」
食い下がる声。でも——もう、この人の声は怖くない。
隣では、リーリアが蒼白になっていた。議場のざわめきの中で、誰かが囁いている。「聖女がエレノーラ嬢の悪評を流していたそうだ」「晩餐会を成功させた料理人を中傷? 不自然だと思っていた」——リーリアの工作は、エレノーラの実績が固まった後では、ただの中傷にしか見えなかった。リーリアの工作は、結局自分に返っただけだった。
私は、穏やかに首を振った。
「お断りいたします、殿下」
会場が静まる。
「私はもう、誰かに選ばれるのを待つ人間ではありません」
一度目の人生では、義母に選ばれ、セドリックに選ばれ、そして捨てられた。
二度目の人生では——自分で選ぶ。
「私が選んだのは——私の料理を美味いと言ってくれる人の隣です」
言った。
言ってしまった。
会場がざわめく。私の心臓がうるさい。——でも、後悔はない。
* * *
セドリックは、会議が終わった後も席を立てなかった。
貴族たちが退出していく。足音が遠ざかる。リーリアが袖を引くが、体が動かない。
不便だな——五ヶ月前、夜会の席でそう思った。
パーティの裏方が回らないことを、段取りが噛み合わないことを、不便だと。
違った。
不便なのではない。失ったのだ。
(——俺は、何を捨てたんだ)
あの日、エレノーラが差し出した煮物。茶色い、地味な料理。「殿下にお召し上がりいただきたくて」と言った声。
「庶民の味だ」と笑って、箸もつけなかった。彼女がどんな顔をしたか、覚えてすらいない。
あの匂いが、まだ記憶の底にこびりついている。甘くて、素朴で、温かい匂い。あの時食べていたら——何か、変わっただろうか。
変わらなかっただろう。俺はきっと、同じことをした。
だからこそ——もう二度と、あの味は食べられない。
「私が選んだのは」と彼女は言った。
エレノーラは、俺を見てすらいなかった。俺ではない誰かの隣を、選んだのだ。
* * *
会議場の出口に、ヴィクトルが立っていた。
外套を着て、壁にもたれて、腕を組んでいる。——待っていた。
何も言わなかった。
ただ、右手を差し出した。
私はその手を取った。
大きくて、硬くて、少し冷たい。万年筆の手。粥を焦がした手。額に触れた手。
——五日間、この手に触れていなかった。五日間、この人の顔をまともに見られなかった。
全部が、この手のひらに戻ってくる。
ヴィクトルが歩き出す。私の手を引いて、長い回廊を抜け、王城の玄関へ。
貴族たちが振り返るのが見えた。宰相がヴァイス伯爵令嬢の手を引いて歩いている。噂になるだろう。——構わない。
馬車が待っていた。扉を開けて、私を先に乗せてから、自分も乗り込む。
馬車が走り出した。
石畳の振動が座席に伝わる。王城の尖塔が遠ざかっていく。
沈黙。
長い沈黙の後、ヴィクトルが口を開いた。
「……俺の料理を美味いとは言えない。焦がしたからな」
——笑った。
張り詰めていた全部が、ほどけた。
「だから閣下は食べる専門でいてください」
「それは今後もか」
「はい。今後もです。ずっと」
ヴィクトルの口角が、わずかに上がった。
この人が笑うのを、初めて見た気がする。口角が上がっただけ。たったそれだけ。
でも——ああ、この顔が見たかったんだ。
ずっと。五日間の沈黙の間も。作り置きを並べていた夜も。
この人の隣で、ごはんを作りたかった。
それだけだった。最初から——ずっと。
馬車の窓から、秋の夕日が差し込んでいる。
繋いだ手を、まだどちらも離さなかった。




