第8話 代替品
「エレノーラ。君は王太子妃候補として教育を受けていたそうだな」
執務室の空気が、凍った。
朝の九時。いつも通り朝食を届けに来た私に、ヴィクトルは書類から目を上げずに言った。
声はいつも通り平坦だ。でも、机の上に広げられた紙が——見覚えのない報告書が——私の名前で始まっていた。
「伯爵家の元使用人に聞き込みをした。義母マティルデが王太子との縁談を進め、君に妃候補としての教育を受けさせていた記録がある」
心臓が跳ねた。
——風邪の夜、うとうとしながら聞いた会話。「調べたい」。あれは、本当だったのだ。
「君はそれを知っていて、ここに来たのか。宰相邸は、王太子から逃げるための場所か」
灰色の瞳が、こちらを見た。
感情が読めない。怒っているのか、失望しているのか。あるいは——傷ついているのか。
「……はい、知っていました」
嘘はつけない。一部だけ、本当のことを言うしかない。
「あの縁談を望んでいなかったから、ここに来ました。でも——」
「でも?」
「……閣下のそばにいるのは、逃げるためだけではありません」
声が震えた。自分でも驚くほど。
ヴィクトルの目が、わずかに揺れた。
でも次の瞬間、視線が報告書に戻った。
「わかった。仕事に戻る」
それだけだった。
朝食の盆は、小テーブルの上に残されたまま。いつもなら椅子を移動して座るのに——今日は、立ったまま書類に向かっていた。
* * *
その夜。ヴィクトルは自室の椅子に座り、灯りも点けずに天井を見ていた。
(——逃げるためだけではない、か)
では何だ。
王太子から逃げてきた令嬢が、宰相邸に転がり込み、料理を作り、書類を片付け、笑い、泣き、煮物の味付けに一喜一憂する。俺はそれを——何だと思っていた。
合理的判断。有能な人材の確保。食生活の改善。国益に資する外交資産。
全部、正しい。全部、言い訳だ。
(俺は、あの女の代替品か)
王太子の代わり。逃げ場。避難先。
そう考えると、腹の底が冷える。——冷えるという事実が、すでにおかしい。合理的に考えれば、彼女の動機が何であれ、有能な人材が手元にいることに変わりはない。切り捨てる理由がない。
なのに、冷える。
王太子セドリック。あの男の政治手腕は外交と軍略に偏っている。内政は宰相任せだ。人材を使い捨てにする傾向がある——優秀な文官を何人も潰してきた。
エレノーラは、その被害者の一人だったのかもしれない。王太子妃候補として利用され、不要になれば切り捨てられる。彼女が逃げてきたのは、正しい判断だ。
だが——俺のところに来た理由が「王太子からの逃避」なら。
俺は結局、避難先でしかない。
(考えすぎだ)
椅子から立ち上がり、窓を開けた。秋の夜気が頬を冷やす。
問題は単純だ。
彼女が王太子から逃げてきたのだとしても——俺は彼女の料理を食べたい。あの煮物を。卵焼きを。味噌汁を。
それは合理的判断か?
(……いいや。違う)
認めたくない。だが、認めないと先に進めない。
俺はあの女に、飯を作ってほしいのだ。ずっと。理由は、合理的ではない。
——だから、距離を取る。
これ以上近づいたら、判断を誤る。宰相として。
窓を閉めた。
明日から、食事の席には行かない。
* * *
三日が経った。
ヴィクトルは、食事の席に来なくなった。
朝食を執務室に届けても「そこに置いてくれ」の一言。顔を上げもしない。昼の弁当は秘書官経由で渡される。夜食を作っても、扉の前に置くだけ。
ノックしても返事がない夜もあった。
小テーブルに座る背中が、ない。
あのテーブルで向かい合って食べた夜が、遠い。味噌汁の感想を言ってくれた夜が。外套をかけてくれた夜が。
私は毎日、作り置きを冷蔵棚に並べた。煮物。漬物。スープ。卵焼きは、甘い方を。翌朝見ると、容器が空になっている。——食べてはいる。でも、顔を合わせない。
四日目の夕方。
廊下で、すれ違った。
ヴィクトルは書類を抱えて早足で歩いていた。私は洗い物を終えて厨房から出てきたところだった。
目が合った。——合ってしまった。
ヴィクトルが足を止めた。
「……風邪は、もういいのか」
それだけ言って、歩き去った。
振り返らなかった。靴音が角を曲がって消えた。
——風邪は二週間前に治っている。
知っているはずだ。毎日作り置きを食べているのだから、私が元気に厨房に立っていることくらい。
(それでも、聞いてくれるんだ。こんな時でも)
壁に背中をつけた。
膝が少しだけ、笑っていた。
椅子に座ってくれればいいのに。
小テーブルで、向かい合って食べてくれればいいのに。
——でも、待とう。今は。
* * *
五日目の夜。
部屋にいると、ヘルタさんがお茶を持って入ってきた。
「お嬢ちゃん、元気ないわね」
「……そんなことないです」
「嘘おっしゃい。煮物の味付けが二日続けて同じだったでしょう。あなた、悩んでる時は献立が単調になるの」
(バレてる)
ヘルタさんがカップを置いて、少し声を落とした。
「それとね、報告。閣下は——作り置き、毎晩ちゃんと召し上がってるわよ。全部。一品も残さず」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「それと、もうひとつ。王太子殿下が、貴族会議にお嬢ちゃんの帰還を正式に議題提出したそうよ。『エレノーラ・フォン・ヴァイスを王太子妃候補として王城に迎える』って」
血の気が引いた。
「根拠は——伯爵家後見人マティルデの同意書。監査が入る前に、駆け込みで王室に提出していたらしいの」
義母。
最後の最後まで——。
(でも。後見人資格が剥奪されれば、あの同意書は——)
頭が回り始める。法的根拠。婚約成立の条件。両家当主の同意。義母は当主ではない。後見人だ。その資格が消えれば——。
考えろ。考えるのだ。
泣いている暇はない。
部屋の隅に、ヴィクトルの外套がかかっている。
あの夜、肩にかけてもらったまま、返しそびれていた。距離を取られた今も、ここにある。
持ち主は取りに来ない。
(……待っていて、閣下。次の貴族会議で——全部、終わらせます)
レシピ帳を開いた。
母の文字を見ると、不思議と頭が冴える。
明日の作り置きは、いつもより丁寧に作ろう。食べてくれるのなら。顔を見せてくれなくても——食べてくれるのなら、それでいい。
今は。




