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死に戻った悪役令嬢は復讐より晩ごはんに忙しい  作者: 秋月 もみじ


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第7話 焦げた粥


 熱がある。

 三十八度五分。二度目の人生で初めて、私は寝込んだ。


 天蓋のフリルがぼやける。喉が痛い。鼻が詰まる。体が重い。

 ——たかが風邪だ。わかっている。たかが風邪。

 

 なのに、怖い。


 体が弱ると、あの夜が蘇る。

 喉を焼く液体。痺れていく舌。暗くなる視界。石壁の冷たさ。セドリックの声。——毒。


(死なない。風邪で死なない。ここは牢獄じゃない。毒じゃない)


 わかっている。頭ではわかっている。でも体が覚えている。弱ること、動けなくなること、そのまま——。


「お嬢ちゃん、大丈夫よ。ただの風邪だから」


 ヘルタさんが額に冷たい布を載せてくれた。しわだらけの手が、やけに温かい。


「ヘルタさん……すみません、厨房を空けてしまって」

「馬鹿なこと言わないの。閣下の食事は私が何とかするから、あなたは寝てなさい」

「でも、閣下の朝食が——」

「閣下は紅茶だけで三十四年生きてきた人よ。一日くらい平気」


(それが平気じゃないから私がいるんでしょうに)


 でも今日だけは、従う。体が言うことを聞かない。

 水を一口飲んで、布団に潜った。

 ヘルタさんが椅子を引いて、枕元に座ってくれた。誰かが傍にいるだけで、恐怖が少し和らぐ。不思議なものだ。一度目の人生の最期、牢の中で一人だった時に、こんな風に誰かが傍にいてくれたら——。


 ——やめよう。その先は考えない。


「ねえ、お嬢ちゃん」

「はい」

「あの包丁、大事に使ってる?」

「……はい。毎日」

「あれね、閣下が自分のお金で買ったのよ。宰相府の経費じゃなくて、お給金から」


 ——え。


「三本で銀貨八十枚。月のお給金の四分の一よ。刃物屋に行って、一本ずつ握って、お嬢ちゃんの手に合いそうなのを選んだんですって」


 天蓋のフリルがぼやけた。——熱のせいだ。目が潤んでいるのは、熱のせい。


(私費。一本ずつ選んだ。私の手に合うように)


 あの包丁は毎日使っている。桂剥きをするたびに、手に馴染むと思っていた。馴染むのではなく、馴染むように選ばれていたのだ。


「どうして……今まで黙ってたんですか」

「だって、坊ちゃまが『言うな』って。でもね、病気の時くらい甘やかしてもいいでしょう」


 この人は。


 この人は、本当に——。


 * * *


 うとうとしていたら、異臭で目が覚めた。


 焦げている。何かが。確実に。


 這うようにベッドから降りて、部屋の扉を開ける。廊下に煙が流れている。厨房の方向から。


「坊ちゃま! 何をなさっているの!」


 ヘルタさんの叫び声が響いた。


 厨房に辿り着くと、信じがたい光景が広がっていた。

 鍋が黒い。コンロの周りが黒い。壁に飛んだ何かも黒い。天井に煤の跡がある。そしてその中心に、この国の最高行政官が、焦げたへらを持って突っ立っていた。


「……粥を作ろうとした」


 ヴィクトルが言った。無表情。いつも通りの、感情の読めない顔。

 ただし、シャツの袖が焦げている。右手の甲にも赤い痕がある。——火傷だ。


「水と米と鍋だけでどうやったらこうなるの!」

「火加減を誤った」

「誤ったじゃないわよ! 火柱が上がったのよ!」

「油を入れた」

「粥に油は入れません!」


 ヘルタさんが鍋を奪い取り、中を覗いて絶句した。

 私もつられて覗いた。


 ——炭だった。

 粥だったものが、完全に炭化していた。鍋底に張り付いた黒い物体は、もはや食品ですらない。鉱物に近い。


「閣下」

「何だ」

「火加減という概念を、ご存知ですか」

「……理論上は」


 理論上。

 理論上は知っているが、実践したことがないと。この国の内政を一手に引き受ける男が、粥ひとつ作れないと。


 ——笑ってしまった。


 笑いが止まらなかった。お腹が痛い。熱があるのに笑いすぎて咳が出る。涙が出る。

 笑いながら泣いていた。


(こんなの。こんなの、初めてだ)


 二つの人生を通じて、誰かが私のために料理をしようとしてくれたことなんてなかった。義母は使用人に命じるだけだった。セドリックは食事を共にすることすら稀だった。


 なのにこの人は、宰相が、鍋を焦がしてまで——。


「エレノーラ、部屋に戻れ。まだ熱がある」

「だって、閣下が……閣下が粥を……」

「失敗した。次はもう少しうまくやる」

「次があるんですか」

「……戻れ」


 ヘルタさんに支えられて、部屋に戻った。

 ベッドに横になると、ヴィクトルが椅子を引いて枕元に座った。——え、座るの。仕事は。


 右手を伸ばす。

 額に、手のひらが触れた。


 大きい手。冷たくて、硬い。万年筆を握り続けた、仕事の手。

 ——さっき赤くなっていた火傷の痕が、私の額に当たっている。

 

「……まだ高い。今日は寝ていろ」


 その手が、かすかに震えていた。


(——この手は、さっき鍋を握っていた手だ)


 粥を焦がした手。油を入れた手。火傷をした手。

 私のために厨房に立った手が、今、私の額にある。


「閣下」

「何だ」

「……火傷、薬を塗ってください。あとで見せてくださいね」

「大したことはない」

「私が決めます」


 ヴィクトルの手が止まった。一瞬だけ、灰色の瞳が揺れた気がした。


「……わかった」


 目を閉じた。

 手のひらの温度が額に残っている。

 涙の跡が頬を伝って、枕に落ちた。

 笑ったのに泣いている。変な顔だろう。でも、いい。今はいい。


 * * *


 眠りに落ちる寸前、廊下の声が聞こえた。


 遠い。ぼんやりと。でも、ヴィクトルの声だとわかった。


「——彼女のことを調べたい。伯爵家での扱い。王太子との関係。何か知らないか」


 ヘルタさんの声が返る。少し間があった。


「……坊ちゃま、あの子は」

「教えてくれなくていい。俺が調べる」


 靴音が遠ざかっていく。

 ヘルタさんの溜め息が、扉越しに聞こえた。


(……調べる? 何を——)


 そこで意識が途切れた。


 翌朝、目覚めた時には熱は下がっていた。

 喉にまだ少し痛みが残るけれど、体は軽い。窓の外に秋の気配がある。空が高い。


 厨房に降りると、焦げた鍋が綺麗に磨かれて棚に戻されていた。ヘルタさんの仕事だろう。

 隣に、新品の鍋がひとつ増えていた。


(……これも私費かしら)


 多分、聞いても「効率がいい」と言うだけだ。

 

 朝食の支度を始める。今日は、出汁をいつもより丁寧に引こう。

 昨夜の粥の残骸——もはや炭——を思い出して、つい口元が緩む。


 あの人に、ちゃんとした粥の作り方を教えてあげたい。

 ——いつか。もう少し、この場所に慣れてから。

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