第6話 選択と発見
『ヴェルデン帝国宮廷料理長の座を、貴女にお譲りしたい。待遇は現在の三倍を保証する。住居、食材調達権、宮廷内の独立した厨房を提供する。ご検討いただけるなら、いつでも帝都へ——』
ハインツ伯爵からの書簡を、三度読んだ。
宮廷料理長。待遇三倍。独立した厨房。
——悪くない条件だ。
正直に言えば、心が揺れた。
ヴェルデン帝国には、一度目の人生を知る人がいない。義母もセドリックもリーリアも、誰もいない。あの国に行けば、過去を全部捨てられる。死に戻りの記憶も、毒殺された夜も。
(逃げたい)
本音が、するりと浮かんだ。
(——逃げたい、のかな。本当に?)
書簡を畳んで、ヴィクトルに報告しに行った。
* * *
「断れ」
——と言うかと思ったら、言わなかった。
ヴィクトルは書簡を読み、表情を消した。元から乏しい表情が、さらに消える。氷の彫像のような顔で「……そうか」とだけ言った。
翌日、ハインツ伯爵が宰相邸を訪問した。
応接室。伯爵は穏やかに微笑みながら、正論を並べた。
「宰相閣下、彼女の才能は一国の厨房に留めるべきではありません。あの料理は外交の武器になります。帝国にはその環境がある」
ヴィクトルは、茶にも手をつけずに答えた。
「彼女は王国の重要人材だ。引き抜きには応じない」
静かな声だった。怒っているのではない。感情がないのでもない。
何か——噛み締めるような、硬い響き。
ハインツ伯爵が私を見た。
「エレノーラ嬢、あなたご自身はいかがですか」
応接室の空気が張り詰めた。
ヴィクトルはこちらを見ていない。視線を窓の外に向けたまま、微動だにしない。
(……ああ、この人。自分から「残ってくれ」とは言わないんだ)
「王国の重要人材」。制度の言葉で引き留めて、私の意思には踏み込まない。いつもそうだ。合理的で、正しくて、不器用で。
「ハインツ伯爵。お申し出は大変光栄です」
立ち上がって、一礼した。
「ですが——お断りいたします。私はまだ、ここで作りたい料理がありますので」
ハインツ伯爵は残念そうに、でも紳士的に頷いた。「気が変わったらいつでも」と言い残して、馬車で帰っていった。
応接室に二人だけ残される。
ヴィクトルが、小さく息を吐いた。
——それだけだった。
何も言わない。「ありがとう」も「よかった」も。ただ、肩の力が抜けたように見えた。
(安堵、してるのかしら。この人にも、そういう感情があるのね)
* * *
その夜。
部屋で一人、ヘルタさんの言葉を反芻していた。
暖炉の脇の棚。母のレシピ帳。老女が最期に伝えようとした「暖炉の裏」。
二つの証言が重なる。あの棚の近くに——何かがある。
翌朝、アルベールさんに手紙を書いた。
伯爵邸の料理長は、母の古い友人だ。義母の不在日を教えてほしい。母の部屋を見たい。それだけでいい。
三日後、返事が来た。
『来週の水曜日、奥さまは終日社交パーティです。お待ちしております——アルベール』
* * *
水曜日。午後。
伯爵邸の門は、四ヶ月ぶりだった。
アルベールさんが裏口で迎えてくれた。白い口髭が、少し増えた気がする。
「お嬢さま、お元気そうで」
「アルベールさんも。ありがとうございます、無理を言って」
「無理ではありません。ここはお嬢さまのお家ですから」
——お家。
そう言われると、胸が少しだけ痛んだ。
母の部屋は、二階の奥にあった。
扉を開けた瞬間、埃の匂いがした。カーテンは閉まったまま。家具には白い布がかけられている。窓際の小さな机。椅子。壁にかかった額縁——中の絵は色褪せていたが、野原に咲く花の絵だとわかった。
二十年近く、誰も入っていない。時間が止まった部屋。
ここで母は暮らしていた。ここで料理の覚え書きを綴り、私のためにレシピ帳をまとめていた。
(——会いたかったな)
一度目の人生でも、二度目の人生でも、母の顔は覚えていない。八歳で亡くなったと聞いた。写真のない世界だ。額縁の花の絵だけが、母の好みを伝えている。
暖炉の脇。——あった。
小さな木の棚。扉のついた、飾り棚のようなもの。
扉を開ける。
中に——一冊の手帳。
革表紙。日に焼けて、端がめくれている。開くと、細い文字でびっしりと書かれた料理の覚え書き。
母の字だ。見たことはないけれど、わかる。丁寧で、少し右に傾いた筆跡。
レシピ帳。
母が、私に渡すつもりだったもの。
——泣くな。まだ早い。
レシピ帳を胸に抱いて、棚の奥を調べた。
裏板が、わずかに浮いている。指をかけて引くと——。
金属の箱。
隠し金庫だ。
鍵はかかっていなかった。蓋を開ける。
中には、紙の束。帳簿の写し。数字の羅列。そして——封蝋のついた厚い封筒。
封筒を開けた。
遺言状。
母の直筆。正式な書式。日付は、母が亡くなる半年前。
内容は明確だった。「全財産をエレノーラに相続させる」。
そしてもう一枚。帳簿の写し。母の遺産——金貨三千枚相当——の明細。これと現在の伯爵家の帳簿を突き合わせれば、義母がいくら横領したか、一目でわかる。
(お母さん——残してくれたんだ。全部)
手が震えた。怒りか感謝か、わからない。
レシピ帳と証拠書類を抱えて、伯爵邸を後にした。
* * *
宰相邸。ヴィクトルの執務室。
証拠書類をデスクの上に広げた。
ヴィクトルは一枚ずつ、無言で目を通した。帳簿の写し。遺言状の原本。数字を指で追い、照合する灰色の瞳が鋭い。
「……これは、伯爵家の遺産横領の証拠か」
「はい。私の母の遺産です。義母が——後見人として管理しているはずのお金が、帳簿と合いません」
ヴィクトルが顔を上げた。
「取り返したいか」
「はい」
「わかった。審問官に監査を手配する。証拠は預からせてもらう」
短い。事務的。でも、「わかった」の一言に迷いがなかった。
レシピ帳だけは、返してもらった。
これは証拠ではない。母の、私への贈り物だ。
「エレノーラ」
書類を整理しながら、ヴィクトルが言った。
「それと、聖女リーリアが社交界で君の悪評を流しているという報告が入っている」
「……そうですか」
「対処するか」
「いいえ。放っておいてください」
リーリアの悪評など、今の私には届かない。
晩餐会を成功させた実績がある。宰相の後ろ盾がある。そして——母の遺産を取り戻す証拠が、手の中にある。
部屋に戻って、レシピ帳を開いた。
最後の頁に、母の文字で一行だけ書かれていた。
『エレノーラへ。あなたがこれを読む頃には、きっと美味しいものが作れるようになっているわね』
——泣いた。
声を殺して、しばらく泣いた。




