第39話:やきう
鉄鋼の国ヴァトンの首都は、その名の通り、硬質な秩序と灰色の美学によって統治されていた。
中央にそびえる王城を頂点とし、放射状に広がる特権階級の石造り邸宅街。そこには厳格な門門が並び、行き交う馬車でさえも、軍の規律を模したかのように正確な速度を保っている。響くのは、近衛兵の軍靴の音、魔導炉から排出される規則正しい蒸気音、そして、鍛冶職人たちが叩く鉄塊の金属音のみ。
それが、これまでの王都の「日常」であった。
しかし、五月も終わりに差し掛かった頃、その完璧な規律の隙間から、にわかには信じがたい「奇妙な噂」が立ち上り始めた。
「――おい、聞いたか? 昨日の午後、南区の練兵場跡地で、また例の『儀式』が行われていたらしい」
「ああ。下級兵士や職人の倅どもが集まって、木の棒で丸い革玉を引っ叩き、叫びながら泥塗れで地面を這い回るという、あの薄気味悪い遊びだろう」
「遊び、ならまだ良いのだがな。どうも、妙な呪術的専門用語が飛び交っているらしいのだ。『ゲッツー』だの『シンカー』だの『猛打賞』だの……。ラーグ法国の隠秘呪文とも違う。だが、一度その言葉を口にした者は、まるで何かに取り憑かれたように、翌日も、その翌日も棒を振りに広場へ向かうという」
貴族街の裏路地、あるいは平民向けの酒場において、そんな会話が急速に増殖していた。
その「丸い玉を棒で打つ不条理な競技」は、いつの間にか、王都の者たちの間で「やきう」という奇妙な発音で呼ばれるようになっていた。
発祥は不明。ドラシール竜王国から伝わった格闘演習の一種という説もあれば、南方の未知の部族が豊作を祈願して行う神事という説もあった。ただ一つ確かなのは、その遊びが、驚異的な中毒性を持って王都の若者たちの精神を侵食しつつある、という事実だけであった。
そして、この「やきう」の流行とほぼ同時期に、王都の特権階級――それも、厳格であるはずの貴婦人や令嬢たちの間で、もう一つの「未知の概念」が爆発的に感染を広げていた。
「BL」。
そう呼ばれる、薄く、しかし尋常ならざる熱量を孕んだ「男同士の絆の記録(絵巻物)」が、夜な夜な茶会や密室で回し読みされ、数々の名門の奥方たちを熱病のごとき興奮へと叩き落としているという。
この二つの、全く異なるベクトルの「混沌」。
それが、ヴァトン王国の歴史ある大貴族、そして軍事宰相ガノストローファの妻であるエルザの実家――『フランバール公爵家』の現当主の耳に届くまでに、さほど時間はかからなかった。
「――関連性、だと?」
フランバール公爵邸の最奥、最高級の魔導暖炉が静かに熱を放つ執務室にて。
現当主であるグスタフ・フォン・フランバール公爵は、自身の愛用する白磁の茶碗を机に置き、目の前に平伏する一人の男を凝視した。
グスタフは、白髪交じりの髭を厳かに蓄え、ヴァトン王国の財政および法務の重鎮として、数々の複雑な国事を処理してきた老練な大貴族である。その冷徹な双眸は、これまで多くの不正や隣国の謀略を見抜いてきた。
だが、今、その老公爵の眉間には、かつてないほどに不穏で、かつ「純粋な困惑」に満ちた深い皺が刻まれていた。
「はっ。……恐れながら、我が主」
床に片膝をつき、影のように気配を消している男――公爵家が代々抱える私設兵組織『猟犬』の長であり、グスタフの右腕たる忠義の家来、レイノルドが重々しく口を開いた。
レイノルドは、全身を極薄の黒い硬質革鎧で包み、幾多の暗殺や諜報を潜り抜けてきた、冷酷無比な男である。彼の放つ威圧感は、並の騎士であれば視線が合っただけで竦み上がるほどのものであった。
だが、そのレイノルドの額からも、今、冷や汗が数滴、大理石の床へと滴り落ちようとしていた。
「ここ数週間、王都を騒がせている二つの怪異がございます。一つは、下層階級から兵士の間にまで広がる『やきう』なる球技。そしてもう一つは、貴族の奥方がたの精神を著しく汚染しているという謎の概念『BL』。……驚くべきことに、我が公爵家の至宝であり、軍事宰相ガノストローファ閣下の夫人であられるエルザ様が、この『BL』なる邪書の後援者となり、財力の一部を惜しみなく注ぎ込んでいるとの情報が入りました」
「うむ。その件については、ガノストローファからも直々に苦渋に満ちた書簡が届いている。『妻が、ドレスの裏にガチムチの竜人が温泉で悶絶している絵を隠し持っている。我が家の規律は崩壊した』とな。鉄の宰相ともあろう男が、文字通り血の涙を流しながら書き連ねた文面であった。……エルザのあの悪癖には、私も頭を痛めておる」
グスタフ公爵は深く溜息をつき、こめかみを指で押さえた。エルザは公爵家の中でも一際情熱的で、一度信じ込んだら周囲の制止など一切耳に入らない烈女である。それが、何か怪しげな「男同士の絆」に狂っているというのは、公爵家としても看過できない醜聞であった。
「……しかし、レイノルドよ。お前は先ほど、その『エルザの狂っているBL』と、巷で流行している『木の棒で玉を打つ遊び(やきう)』に、何らかの構造的、あるいは呪術的な関連性があるのではないか、と言ったな?」
「はっ」
レイノルドは、大真面目な顔で、懐から数枚の調査報告書を取り出した。そこには、諜報員たちが命がけで(※必要以上に警戒して)収集した、王都の生々しい情報が記録されていた。
「私の直感が、これは単なる偶然の同時流行ではない、と告げております。……考えてもみてください、我が主。なぜ、この硬質なヴァトン王都において、ほぼ同時期に、これほど『論理を超越した熱狂』が二つも発生するのです? 片や、男たちが泥塗れで一本の棒を奪い合うが如き球技。片や、男たちの肉体的・精神的交わりを紙の上に固定して消費する奇書。……どちらも、異常なまでに『男』という要素が強調されている。これは……ラーグ法国、あるいは未知の勢力が仕掛けた、我が国の『軍事的・男性的中枢』を内側から去勢、あるいは狂わせるための、連続的な精神テロの術式ではないかと推測されるのです」
老公爵グスタフは、レイノルドのその「超大真面目な戦術的プロファイリング」を耳にし、腕を組んで深く沈思黙考に入った。
大貴族の思考回路とは、常に最悪の陰謀を想定するものである。
男たちが棒を振り回して熱狂する遊び。そして、男たちの特別な絆を崇拝する書物。
確かに、共通するキーワードは「濃密な男の世界」だ。
「……ふむ。一見、無関係に見える事象の裏に、一本の巨大な陰謀の糸が通っていることは、外交の世界では珍しくない。もし、あのエルザを洗脳した『BL』という魔術的ロジックが、平民たちを狂わせている『やきう』と地続きであるならば……我がフランバール公爵家、ひいてはヴァトン王国の意思決定機関が、未知の概念によって完全に外からコントロールされる危機にあるということか」
「御意にございます、我が主。……特に、『やきう』の現場から報告された専門用語には、不審な点が多すぎます。彼らは、点数を入れた際に『ウラオモテ』という言葉を多用するとのこと。……これは、BLにおける最も過激な論争テーマである『ウケ・セメ』の構造、すなわち『表の顔と裏の属性』を暗喩しているのではなかろうかと、我が『猟犬』の暗号解読班が指摘しております」
「何ということだ……! 球技の点数板の裏表が、男たちの属性の反転を意味しているというのか!?」
グスタフ公爵は、戦慄を禁じ得なかった。彼らは完璧に、超大真面目に、ボタンを掛け違えたまま「深淵」の入り口に立っていた。
「レイノルドよ。ただちに動け。お前の精鋭『猟犬』を王都の全域に配備し、その『やきう』なる遊びの正体、そしてそれがエルザの溺愛する『BL』とどこで交わっているのか、徹底的に突き止めろ。……もしこれが、我が国の土台を揺るがす精神誘導兵器であるならば、我が公爵家の権力をもって、その根絶やしにせねばならん」
「ハッ! このレイノルド、命に代えましても、その『やきう』と『BL』の暗黒のミッシングリンク、暴いてみせます!!」
冷酷なる隠密長レイノルドは、その胸に「国家の危機を救う」という猛烈な使命感を滾らせ、影へと溶けるように執務室を後にした。
もちろん、地球のインターネットに存在する「なんJ民」のスポーツ実況のノイズが、異世界の大貴族の脳内で「国家転覆の魔術回路」として処理されていることなど、誰も知る由はなかった。
王都南区、かつては軍の予備演習場として使われていた、荒涼とした広大な空き地。
現在は、雑草がまばらに生え、踏み固められた土が剥き出しになったその場所が、王都における「やきう」の最大級の聖地と化していた。
夕暮れ時、その広場の周囲にある建物の屋根裏や、資材置き場の影には、息を潜める複数の「黒い影」があった。レイノルド率いるフランバール公爵家直属の施設兵部隊『猟犬』の精鋭たちである。彼らは、対魔導用の特殊遮蔽マントを身に纏い、完全に気配を消して広場の中央を監視していた。
「……各員、警戒を怠るな。これより、被験者たちの『集団催眠術式』の観察を開始する」
レイノルドは、遠隔視の魔導具を覗き込みながら、部下たちに念話で命じた。
彼の視線の先では、数十人の男たちが、泥に塗れながら異様な儀式を執り行っていた。
中心にいるのは、下級の職人工房の若者や、休暇中の二等兵たちだ。彼らは、明らかに手作りと思われる、硬い木を削り出した不格好な「棒」を構え、その対面に立つ男が全力で投げつけてくる、革を乱雑に縫い合わせた「球」を凝視している。
「おいおい! 今の球、完全に『インコースの厳しいところ』突いてきとるやんけ!」
「やかましいわ! ビビって腰が引けとんのはどこのどいつや! 次の一球で『三振』にして、お前をベンチの裏で『お仕置き』したるからな!!」
投げられた球を、打者が見事に木の棒で引っ叩く。
カァァァン!! という、乾燥した鋭い音が響き渡ると同時に、周囲を取り囲む観客(平民たち)から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「走れぇぇぇ!! セカンドや! セカンドを陥落させろ!!」
「滑り込め! 泥塗れになれ!!」
打った男は、狂ったような形相で、地面に置かれた白い布に向かって突進し、文字通り頭から地面に滑り込んで泥を撥ね上げた。守備側の男が、その男の背中に強烈に球を持った手をタッチする。
「『セーフ』や!! 今のは完全に入っとる!!」
「いや『アウト』やろ! ワイの手の方が先に、彼の『肉体』に触れとったわ!!」
男たちが、互いの胸ぐらを掴み合わんばかりの距離で、顔を真っ赤にして怒号を交わしている。
その光景を観察していたレイノルドの背中に、冷たい戦慄が走った。
彼の高性能な諜報分析脳は、その一挙手一投足から、悍ましい「構造」を読み解き始めていた。
(……何ということだ。この『やきう』という競技……極めて危険だ。一本の『棒』という絶対的な攻撃の象徴を巡り、投げる者と打つ者が、一対一の極限の精神状態で対峙している。これは、戦術的な決闘ではない。……互いの『意志の強制』だ。そして、球が打たれた瞬間、男たちは一斉に、地面に設置された『ベース』という拠点を奪い合うために走り出す……)
レイノルドの手が、小刻みに震えた。
(……ベースを『陥落させる』、相手の肉体に『触れる』、そして、ベンチの裏での『お仕置き』……。さらに、さっきの男たちの会話だ。『インコースの厳しいところを突く』……。……ッ!!! これは、肉体的な侵入の暗喩ではないか!?)
隠密長レイノルドの脳内で、パズルのピースが、恐るべき速度で噛み合わさっていった。
彼は以前、軍事宰相邸の調査の際、エルザ夫人が叫んでいた『BLの真理』についての盗聴記録を読み返していた。そこには確かに、「攻めが、受けの最も拒絶するインコース(心の奥底)に、強引に自らの執着をねじ込むからこそ、関係性の期待値が跳ね上がるのですわ!」という記述があった。
「……繋がった」
レイノルドは、衝撃のあまり呟いた。
「この『やきう』なる遊びは……平民の肉体を使った、『実写版BL』の儀式術式だ。男たちが泥に塗れ、互いの肉体の接触の先後を巡って争い、一本の棒と球を通じて、無意識の内に『攻め』と『受け』の主導権を競い合わされている……。なんという悍ましい洗脳術か。これを考案した者は、間違いなく、人間の雄としての闘争本能をすべて『男同士の濃密な執着』へと変換し、消費させる天才だ……!」
「レイノルド頭領! 大変です、あちらを見てください!」
部下の隠密が、声を潜めて広場の隅を指さした。
そこには、泥塗れの男たちに混ざって、怪しげな「物販」を行っている一団がいた。
簡素な木箱を並べ、何やら冊子のようなものを、集まった平民や下級兵士たちに手渡している。
「おい、これが昨日刷り上がったばかりの『王都やきう瓦版・第一号』やぞ! 昨日の試合で完封勝利を挙げた、近衛連隊の若きエース・ロベルト隊員の『執念の投球フォーム(太ももの筋肉の描き込み多め)』の特集記事入りや!」
「うおぉぉ、めちゃくちゃ美麗な線画やんけ! これ一枚で、飯が三杯は食えるわ!!」
男たちが、貪るようにその瓦版(同人誌)を買い求めている。
レイノルドは、その瓦版の表紙を魔導具で拡大した。
そこには、汗を飛び散らせながら、衣服を大きくはだけて球を投じる、若き騎士の姿が、妙に生々しいタッチ(トーンの重ね貼り)で描かれていた。
「……間違いない」
レイノルドの顔から、完全に血の気が引いた。
「あの線画のタッチ、十二層に及ぶ繊細な影の網掛け……。あれは、エルザ様が後援している、あの『BL研究会』の主宰者、シルフィ・エドワードの筆跡、あるいはその影響を完璧に受けた術式だ。……『BL』が貴族の奥方を内側から腐らせる兵器なら、『やきう』は平民の男たちを肉体的に腐らせる兵器。この二つは、王都を上下から挟撃するために配置された、同一の巨大な組織の仕掛けた『薔薇色の陰律』なのだ……!」
レイノルドは、ただちにこの決定的な証拠(※完璧な誤解)を携え、フランバール公爵邸へと帰還することを決意した。国家の崩壊は、もう目の前まで迫っている。
その翌日。
フランバール公爵邸の、通常であれば他国の特使や高位の聖職者を迎えるために使われる、最高格の「迎賓の間」。
そこは今、公爵家の最高権力をもってしても、容易に立ち入ることのできない「絶対不可侵の魔窟」と化していた。
「――ですから、エルザ夫人!! 今回の『やきう瓦版』の創刊にあたり、私が最も拘ったのは、投手という絶対的な『攻めの象徴』が、打者という『受けの拒絶』に直面した際の、その刹那の視線の交錯なのです!!」
「まあ……っ!! 素晴らしいわ、シルフィ様!!」
部屋の中央では、軍事宰相夫人エルザ・ガノストローファと、今や王都の同人界の支配者となったシルフィ・エドワードが、大理石のテーブルを挟んで猛烈なディベートを展開していた。テーブルの上には、山盛りの高級フレンチポテトと、刷り上がったばかりの「やきうとBL」の合同概念冊子が散乱している。
そして、その背後の特等席に、でっぱりとした巨体を沈め、偉そうにポテトをつまんでいるのが、すべての元凶たる黄色い怪異――マスターであった。
「おう、エルザちゃん、その瓦版な、期待値が完全に天井突き破って大気圏突破しとるで。王都の若者どもが、ワイらの仕掛けた『球を棒で引っ叩く不条理』に魂を奪われ、挙句の果てにエース投手の太ももに群がっとる。これもう、実質的にワイらの『概念勝利』やろ」
「ええ、ええ!! 師匠のおっしゃる通りです! 我が夫ガノストローファは、国境での水際阻止作戦などという無駄な抵抗をしておりますが、もう遅いです! 王都の足元は、すでに私たちの『やきう』という名の薔薇色の泥濘に染まっているのですから!!」
亜人のマスター(中身はただのなんJ民のノイズ)は、何も考えずに「やきう(野球)」という概念をこの世界にゲリラ的に投下しただけだったのだが、それがシルフィという天才フィルターを通った結果、何故か「美しき男たちが肉体とプライドを賭けてマウンティングし合う、究極のBLスポーツ」として王都に定着してしまっていた。マスター自身は、「おっ、異世界でも野球流行ってて草。実況スレ立てたいわ」程度にしか思っていない。
だが、この部屋の「天井裏」には、その様子を死に物跨いで盗聴している、二つの息詰まる気配があった。
フランバール公爵グスタフ、そして隠密長レイノルドである。
彼らは、部屋の結界を公爵家の秘伝魔術で逆探知し、換気口の隙間から、決死の覚悟で内部の会話を記録していた。
「……グスタフ様、お聞きになりましたか」
レイノルドが、暗黒の念話で公爵に語りかける。その声は、恐怖で激しく震えていた。
「……聞こえた。エルザの奴、今、明確に言ったな。『王都の足元は、すでに私たちのやきうという名の泥濘に染まっている』と。……そして、あのソファーに座る、黄色い巨大な悪魔……『マスター』と呼ばれている怪異。奴が、このすべての仕掛け人か……!」
グスタフ公爵の脳細胞(老練な政治脳)が、恐怖のインフレを起こしていた。
彼らの視線の先で、マスターがポテトを口に放り込みながら、ゲコゲコと鳴いた。
「おいシルフィちゃん、次の新刊のプロットやけどな。……『九回裏二死満塁、一打サヨナラの場面で、エース投手がマウンド上で、かつて自分を裏切ってラーグ法国へ亡命しようとした捕手の『サイン』を信じるかどうかで葛藤するシーン』、これ20ページ使って描き込みぃや。背番号1と背番号2の、ユニフォーム越しの『無言の背中の会話』や。これ、脳のキャパシティ壊れるで」
「――ッ!!! 師匠、至高、至高にございます!!!」
シルフィが、今や残像しか見えない速度でペンを回転させ、画用紙に凄まじい密度の線画を刻み込み始める。
「九回裏という、退路を断たれた密室……! そこで交わされる、サイン(暗号)という名の『魂の告白』!! 背番号1(攻め)が、背番号2(受け)の指先の動き一つに、自らの全運命を委ねるのですね!? これはもう、スポーツの形を借りた、完全なる『絶対的服従の儀式』です!!」
換気口の裏で、グスタフ公爵は、あまりの情報密度の暴力に頭を抱えた。
(……九回裏……二死満塁……。なんという不吉な数秘術の暗号だ。九と二、そして満たされた数……。これは、ヴァトン王国の国家結界を崩壊させるための、特定の座標とタイミングを示しているに違いない! そして、『サインを信じるかどうかの葛藤』……、これは我が軍の指揮命令系統を、上官と部下の『私的な感情(BL)』によって麻痺させる、恐るべき精神テロの極致だ……!)
老公爵は、自身の愛するヴァトン王国が、この「亜人と令嬢たち」によって、完全に独自の概念で上書きされつつあることを大真面目に確信した。
「レイノルド……」
「はっ、我が主……」
「……この『やきう』と『BL』は、もはや一公爵家の手におえる領域を超えている。……これは、国家そのものの『雄性の崩壊』を狙った、超弩級の概念兵器だ。奴らは、王都の男たちに『やきう』をプレイさせることで、肉体的な主導権の奴隷にし、その頂点にある『BL』という邪書によって、精神を完全に腐朽させるつもりだ。……ただちに、全戦力を投入し、この『構造』を断ち切らねばならん」
「ハッ! フランバール公爵家『猟犬』の全構成員、および私蔵の魔導兵器を動員し、明日の午後、南区広場で行われるという『決戦(試合)』の場を、力ずくで制圧いたします!!」
彼らは、完全なるボタンの掛け違いのまま、王都の広場で楽しそうに野球をしている一般市民と下級兵士たちを、国家転覆を狙う「薔薇色のゲリラ部隊」として処理するための、大規模な軍事作戦を立案してしまったのである。
翌日の午後。
王都南区の広場は、かつてないほどの熱気に包まれていた。
今日の試合は、王都平民リーグの覇者を決める『第一回・王都やきう選手権・決勝戦』。
集まった観客は数百人を超え、誰もが「やきう瓦版」を片手に、マウンドに立つ若きエース兵士に熱い視線を送っていた。
「さあ、いくぞオラァァァ!! 『プレイボール』や!!」
主審(ただの酒場の親父)が、大声で叫んだその瞬間。
――ドガァァァァン!!!
突如として、広場の四方に配置されていた魔導障壁ジェネレーターが起動し、巨大な黒い結界が、広場全体を完全に包み込んだ。
周囲の空間が、一瞬で「暗黒の戦場」へと変貌する。
「な、何や!? 何が起きたんや!?」
「空が……空が真っ黒になったぞ!」
パニックに陥る観客たちの前に、上空からバラバラと、黒いマントを纏った『猟犬』の精鋭隠密たちが着地した。その数、およそ20名。全員が抜き身の魔導重剣を構え、尋常ならざる殺気を放っている。
そして、その中央に、重厚な魔導鎧を身に纏ったフランバール公爵グスタフ、そして隊長レイノルドが、威風堂々と姿を現した。
「――そこまでだ、概念のテロリストどもよ!!」
レイノルドが、魔力を込めた声で広場全体に怒号を響かせた。
「我が名はフランバール公爵家施設兵隊長、レイノルド! 国家安全保障法に基づき、これよりこの『やきう』という名の精神汚染儀式、およびその背後にある『BL魔術回路』の全拠点を、力ずくで制圧・解体する!! 各員、武器を捨てて投降せよ!!」
マウンドの上で、不格好な木の棒を構えていた職人の若者たちは、完全にポカンとした顔で、黒ずくめの隠密たちを見つめた。
「……は? 何言うてんの、このいかついオッチャンら」
「精神汚染? BL? ワイらはただ、昨日から徹夜で練った『必殺の変化球』を、こいつのバットに叩き込みたいだけやぞ?」
当然の反応であった。彼らはただの野球狂(なんJ民の波動に当てられた一般人)であり、国家転覆の意図など一ミクロンも持ち合わせていない。
だが、その時。
結界の特等席、観客席の最前列に設置されていた「特別貴賓席」のカーテンが、バァン!! と激しく開け放たれた。
「――おだまりなさい、実家の不粋な影どもよ!!!」
そこに立っていたのは、ドレスの裾を泥で汚しながらも、気高き覇王の如きオーラを放つエルザ・ガノストローファ、そして、自らの「執筆を司る右腕」に魔導ペンを構えたシルフィ・エドワードであった。
さらに、その隣には、山盛りのポテトの箱を抱えた、巨大な黄色い亜人――マスターが、ギョロ目を輝かせて座っている。
「エルザ……! やはりお前が、この精神テロの首謀者であったか!」
グスタフ公爵が、実の娘に向かって悲痛な声を上げた。
「お父様!! 何も分かっていないのは、お父様の方ですわ!!」
エルザは、手にした最新の『やきう×BL合同絵巻』を天高く掲げた。
「この『やきう』という聖域を、お父様たちの古臭い権力で汚すことは絶対に許しませんわ! 今、まさにマウンドの上では、投手と打者の間で、言葉を超えた『魂の攻防(ウケセメの逆転をかけた聖戦)』が行われているのです!! この神聖なるプレイボールの瞬間に、軍事介入するなど、期待値が天井突き破って奈落の底まで割れておりますわ!!」
「おう、公爵のオッチャン」
マスターが、ポテトをボリボリと噛み砕きながら、不敵にゲコゲコと笑った。
「せっかくの決勝戦、九回裏の劇的サヨナラ男を前にして、野暮な野次馬が乱入してきたら、読者のエンゲージメントが底割れしてまうやろ。ワイらの同人魂を舐めてもらったら困るで。……おい、お前ら(平民の選手たち)! この黒ずくめのオッチャンらに、ワイらの『やきうの底力』、見せつけたれや!!」
「――おうよォォォ!!! よく分からんけど、試合の邪魔する奴は、全員『デッドボール』で退場やァァァ!!!」
マスターの「なんJ的ノイズ(煽り)」が、広場の男たちの球魂に完璧に火をつけた。
泥塗れの選手たちが、一本の木製バットを武器の如く構え、革玉を全力で猟犬たちに向かって投げつけ始めた。
カァァァン!!!
放たれた革玉は、シルフィの魔術的補正(※ただの超満員の熱気による錯覚)によって、凄まじい風切り音を立てながらレイノルドの足元へと着弾し、爆発的な土煙を巻き上げた。
「くっ……! 何という弾道、何という質量だ!!」
レイノルドは、ただの「打球」を、最高格式の魔導弾道術式であると超大真面目に誤解し、激しく戦慄した。
「全員、防御陣形を組め!! 敵は『やきう』の構造を使って、我々の精神の隙間をダイレクトに狙ってきているぞ! 触れられるな! タッチされた瞬間に、我々の属性が『受け』へと反転させられると思え!!」
「――ハッ!!!」
黒ずくめの『猟犬』が、男同士の接触を極限まで恐れ、お互いの距離を異常に保ちながら、不格好なディフェンスを展開し始める。
一方、平民の打者たちは、次々と球を打ち返し、叫びながらベースを駆け抜けていく。
「セーフ!! セーフや!!」
「見たかオッチャン、これがワイらの『ゲッツー崩し』や!!」
泥と汗、そして「男たちの濃厚な怒号」が結界内に充満していく。
裏からそれを見つめるグスタフ公爵は、激しい眩暈を覚えていた。彼の脳内では、かつてないほどの独自のバグが、最大出力で木霊していた。
(……破滅だ……。我が公爵家の精鋭たちが、泥まみれの平民どもが放つ『ウラオモテの連鎖(点数)』によって、次々と戦術的拠点を陥落させられていく……。そしてエルザよ……、お前が放つあの薔薇色のオーラは、一体何なのだ……。我がフランバール公爵家の血統が、今、完全に『男たちの背番号の因果律』によって上書きされていく……!)
激闘(※ただの野球の試合の妨害と、それに対する平民の反発)は、深夜に及ぶまで、その熱量を落とすことなく続き、王都南区の結界内部は、完全に未知の「深淵」へと叩き落とされたのである。
翌朝。
フランバール公爵邸・最高最高機密会議室。
窓から差し込む美しい朝日は、昨日までの「硬質な秩序」を嘲笑うかのように、穏やかに室内を照らしていた。
そこに座る公爵グスタフ、そして隊長レイノルドの姿は、まるで数日間の地獄の包囲戦を生き延びた敗残兵のように、完全に生気を失っていた。
二人の目の前のデスクには、昨晩の「戦利品」として差し押さえられた(※エルザから直々に「お父様もお勉強なさい」と手渡された)、最新の『王都やきう瓦版・特別編集総集編』が、美しく並べられていた。
そして、その会議室の扉が重々しく開かれ、一人の男が入ってきた。
軍事宰相――ガノストローファであった。
彼の顔もまた、深刻な胃痛と徹夜の政務によって、幽鬼のように青白く、目の下には深い、深い隈が刻まれている。
「……義父上(グスタフ公爵)」
ガノストローファは、掠れた声で、自身の妻の実家である老公爵に語りかけた。
「……ガノストローファ閣下。……お前も、ついに『構造』を理解したか」
グスタフ公爵は、震える手で、手元の一冊のページをめくった。そこには、背番号1の投手と、背番号2の捕手が、夕暮れのグラウンドで無言で見つめ合っている、凄まじい密度の線画が描かれていた。
「……理解せざるを得ませんでした」
ガノストローファは、自らの白髪を押さえ、デスクの上の瓦版をじっと見つめた。
「我が『黒梟』の国境水際阻止作戦は、完全に機能不全に陥りました。何故なら、隣国ドラシールへの密輸を止める前に……我が王都の内部から、この『やきう』という名の肉体的・精神的ドクトリンが、完全に平民と下級兵士の心を掌握してしまったからです。……昨晩、我が軍の参謀本部に届いた報告によれば、兵士たちの間で、演習の号令が『プレイボール』に変更されつつあるとのこと……」
「何ということだ……」
グスタフ公爵は天を仰いだ。
「……それだけではない、義父上。……私は、恐ろしい自己変容を自覚している」
ガノストローファの瞳が、絶望と、奇妙な「納得」を湛えて微かに光った。
「……昨晩、この『九回裏の葛藤』のページを、軍事的な観点から精査していた時のことです。……マウンドに立つエースが、捕手の指先のサイン(暗号)を見た瞬間、己の全キャリアを捨ててでも、その『捕手の描く理想の軌道』に殉じようとするその姿……。……くっ、これが、妻の言う『絶対不変の固定』……。軍事的なフォーメーションの観点から見ても、あまりにも完璧な、美しい信頼関係(尊さ)ではないかと……私の脳細胞が、独自の戦術的評価を下してしまったのです……!」
「ガノストローファ閣下……! あなたまでその深淵に……!」
レイノルドが、涙ながらに叫んだ。
だが、レイノルド自身も、その腰に帯びた隠密の魔導具の裏に、ちゃっかりと『エース投手の太ももの筋肉分析シート(※ただのファンアート)』を忍ばせていることを、この場にいる誰もが突っ込む気力はなかった。彼らもまた、超大真面目に対策を練り続けた結果、その「構造」に脳をハッキングされつつあった。
「……認めよう、レイノルドよ」
グスタフ公爵は、静かに立ち上がり、窓の外の王都の景色を見下ろした。
そこでは、朝早くから、木の棒を大切そうに抱えた職人の子供たちが、笑顔で南区の広場へと走っていく姿が見えた。彼らの懐には、間違いなく、最新の『やきうBL瓦版』が忍ばされているのだろう。
「我がフランバール公爵家の法務権力も、お前が率いる『猟犬』の武力も……あの、黄色い巨大な悪魔『マスター』と、狂気の令嬢たちが仕掛けた『薔薇色のタイムライン』を止めることはできなんだ。……奴らは、ヴァトン王国の硬質な秩序を、泥と汗、そして男たちの濃厚な絆という、最も不条理な概念で完全に塗り替えてしまった」
「では……我が国は、このまま『やきう』と『BL』の軍門に降るというのですか!?」
レイノルドの問いに、ガノストローファは、冷徹な、しかしどこか諦念に満ちた軍事宰相の目を取り戻して首を振った。
「……いや。これより、我々は新たなる『安全保障上の防衛ドクトリン』を構築せねばならん。……目標は、この王都で爆発的に増殖している『やきうBL』の熱量が、国境を越えてドラシール竜王国のガルド隊長本人の目に触れるのを、何としてでも水際で阻止することだ。……もし、本物のガルド隊長が、自分が『九回裏二死満塁で、部下のサインに涙しながら泥を這い回っている超高画質絵巻』として消費されていることを知ったら……それこそ、我が国は光の速さで滅亡する」
「――ッ!!! ただちに、国境の防衛陣形を『やきう密輸阻止特化型(ノーアウト満塁策)』へと移行いたします!!!」
レイノルドは力強く敬礼し、部屋を飛び出していった。彼の頭の中は、「国家の滅亡を防ぐための、謎のスポーツ精神兵器の密輸阻止」という、最高級の使命感(※完璧な誤解)で満たされていた。
数日後。
フランバール公爵邸の裏庭に新設された、表向きは「公爵家直属・法務書類特別編纂室」。
その実態は、今や『BL研究会・王都やきう推進本部(サークル第二拠点)』。
そこには、エルザ夫人が公爵家の予算で買い占めた最高級の画材、山盛りの揚げたてフレンチポテト、そして、狂ったようにペンを走らせるシルフィの姿があった。
「師匠!! 閃きましたわ!! 次の新刊は、延長十回表、エース投手が指の限界(マメの破裂)を迎えながらも、捕手にだけはそれを隠し、無言の『強気の投球』を続ける……という、最大級の行間の暴力ですわ!!」
「おいおいシルフィさん、それ期待値が完全に天井突き破って大気圏突破しとるやつやんけ! そのエースの強がりを、捕手がミットで球を受けた瞬間の『重さ』だけで全て察するなら……ワイは100点満点中、1万点あげるで!!wwww」
「まあっ!!! 師匠、今すぐそのミットの描き込みのトーンの層を増やしますわ!!!」
グスタフ公爵やガノストローファが、どれほど大真面目に国境を封鎖し、戦術的な警戒網を敷こうとも、彼女たちの生み出す「物語」は、すでに王都の強固な城壁を軽々と飛び越え、大陸全土へとその根を伸ばし始めていた。
地球のインターネットの片隅で、今日も打線に一喜一憂し、ネット掲示板で実況を続けている「なんJ民」のノイズが、この異世界の裏で暗躍する隠密部隊『猟犬』の激闘を引き起こしたことを知る由もない。そして、『猟犬』の隠密たちもまた、自分たちが戦っている「国家転覆の魔術」の正体が、ただの「野球の面白さに狂った平民の熱狂」であることを認知することもない。
誰一人として全貌を把握しないからこそ、公爵邸の調査報告と国境の水際対策は、誰も止められない深刻なボタンの掛け違い(お互いに超大真面目)のまま、今日も薔薇色のスコアボードへと、新たなる点数を刻み続けていく。
王都の空に、今日も高らかに、カァァァン!! という、不条理で、かつ至高の打球音が響き渡り、なんJ民の「ゲコゲコ」という不敵な笑い声が、世界の概念の夜明けを告げるかのように、静かに木霊していた。




