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第38話:鉄の規律、深淵に拠る

 ヴァトン王都の目抜き通りに面した、一泊の宿泊費が一般兵の半年分の給与に匹敵する最高級宿『黒鉄の王座亭』。その最上階にあるロイヤルスイートは、現在、事実上の「独立地帯」と化していた。

 部屋の前に配備された『黒梟』の精鋭たちは、全員が尋常ならざる緊張感で直立不動の姿勢を保っている。しかし、彼らが腰に帯びているのは抜き身の魔導剣ではなく、王宮御用達の極上菓子が入った箱や、最高級の画材、あるいは「差し入れ」と書かれたビロードの袋であった。


「……各員、繰り返す。これより行うのは、制圧作戦ではない。極めて高度な外交交渉である」


 バラン大佐は、自らの精神的防壁メンタルシールドを限界まで引き上げながら、部下たちに極小の声で命じた。


「相手はただの引きこもり令嬢と謎の亜人ではない。我が国における軍事の最高権力者である宰相閣下の家庭環境を人質に取り、かつ王都の貴婦人たちの脳組織を『腐朽』せしめる精神汚染兵器の製造元だ。万が一にも、先方の『執筆を司る指先』に傷をつけるようなことがあれば、我々は割腹では済まされん。宰相夫人の手によって、社会の底へと叩き落とされると思え。……行くぞ」


 トントン、とバラン大佐は規則正しく、かつ極めて紳士的に扉をノックした。

 だが、中からの返答はない。ただ、オークの重厚な扉の隙間から、肌を刺すような「超高密度の熱気」と、鼻腔を破壊せんばかりの「大量の高級インクの匂い」が漂い出ていた。


 バラン大佐が意を決してドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開くと、そこは地獄の戦場をも凌駕する、すさまじい「創作の深淵カオス」であった。


「違う……! 違います、これではガルド隊長の『寡読なる独占欲』が、読者にダイレクトに伝わりすぎてしまいます!! もっと、こう……三分間の沈黙の末に、ルカ君の衣服の裾をわずか一ミリだけ、引きちぎらんばかりの力で掴むという、その指先の葛藤を描かねば、網掛けトーンを何層重ねても意味がありません!!」


「シルフィさん、落ち着きーや。完全に目が血走ってて期待値がオーバーヒート起こしとるぞ。その手の速度、もはや残像しか見えへんし、ペンの摩耗スピードが軍事用の超硬質鋼並みやんけ」


 部屋の中央、黒檀の巨大なデスクに座っていたのは、北の辺境を守る硬骨の武将・エドワード辺境伯の令嬢であるはずのシルフィ・エドワードであった。

 かつての淑女の面影はどこへやら、彼女の長い金髪は乱れ飛び、その瞳には夜空の星をも焼き尽くさんばかりの、狂気的なまでのハイライトが宿っている。右手は人間業とは思えない速度で回転し、画用紙の上に凄まじい密度の線画を刻みつけていた。


 そして、その背後の豪華なソファーに、どっかりと巨体を沈めていたのが、噂の「マスター」と呼ばれる亜人であった。

 それは、人間と全く同じサイズを誇る、でっぷりとした黄色いカエルのような姿をした怪異であった。大きな吸盤のある手で高級なフレンチポテトをつまみ、信じられないほど不敵な、それでいてすべてを見通したような笑みを浮かべている。


「……ひ、ヒエッ……」


 背後に控えていた『黒梟』の若き隠密が、その黄色い怪異が放つ、言語を絶する圧倒的な存在感に圧倒され、思わず小さな悲鳴を漏らした。


「……ほう、なんか黒ずくめのいかついオッチャンらが、ワイらに何の用や?」


 マスター(カエル)は、大きなギョロ目をバラン大佐の顔へと向け、ふてぶてしく言い放った。もちろん、マスター自身は相手がヴァトン王国最強の隠密組織『黒梟』の長などとは一ミリも思っておらず、ただの「なんか偉そうな、絵の差し入れを持ってきた怪しい軍人」程度にしか認識していない。


「ワイらはただ、隣国ドラシールの誇るガチムチ竜人たちの、公式の歴史には絶対に書けない『魂の肉弾戦』を紙の上に定着させとるだけの、清く正しい同人サークルやぞ? それとも何か? 鉄鋼の国ヴァトンは、個人の妄想の自由を弾圧する、期待値底割れの全体主義国家なんか?」


「い、いや……! 滅相もない! 決してそのような弾圧などという野蛮な目的ではございません……!」


 バラン大佐は、冷や汗が背中を伝うのを自覚しながら、必死に言葉を紡いだ。大佐の側は、自らの組織(黒梟)の隠密服の意図を完璧に見抜かれた(と勝手に誤解した)上で、精神攻撃ワードを叩きつけてくるこのカエル型怪異の底知れなさに、内心で激しく戦慄していた。我々の正体を隠密の『黒』という単語だけで察し、かつ国家の体制まで煽ってくるとは、なんと恐るべき知性か、と。


「我々は、貴殿らの崇高なる『芸術活動』を妨害しに来たのではない。……むしろ、その逆である。……我が国の軍事宰相ガノストローファ閣下の最愛の妻、エルザ夫人が、貴殿らの発行された『温泉地特別編』に、魂の底から感銘を受けられてな。……ぜひとも今夜、我が宰相邸にて開かれる晩餐会へ、国賓以上の礼を尽くしてお招きし、その……『受け攻めの黄金比率』および『リバース不可の概念』について、直接ご教授を仰ぎたいと切望されているのだ」


「……。…….……」


 その瞬間、シルフィのペンが、ピタリと止まった。

 しんと静まり返った室内で、彼女はゆっくりと首を巡らせ、バラン大佐の顔を正面から見据えた。その瞳からは先ほどの狂気が一瞬で消え去り、エドワード辺境伯家が誇る「最高峰の気品」、そして同時に「深淵を統べる覇王」としての冷徹な笑みが浮かび上がっていた。


「ヴァトンの軍事宰相……ガノストローファ閣下の、夫人。……つまり、我が『BL研究会』の思想的結晶が、ついにこの国の軍部最高権力の頭脳を陥落させた、ということですわね?」


「せやな」


 マスターもソファーからよっこらしょと、人間サイズの巨体を立ち上がらせた。


「おいおいシルフィさん、これ実質的にワイらの『公式参入』やろ。軍の偉いオッチャンの嫁がワイらの筆頭ファンになるとか、期待値が天井突き破って大気圏突破しとるわ。ええでオッチャン、その招待、喜んで受けさせてもらうわ。……ただし、ワイらの執筆環境を維持するために、晩餐会では揚げたての最高級フレンチポテトを山盛りに用意しておくことを条件にな」


「は、はっ! ポテトの件、ただちに宰相邸の厨房へ最高優先度で手配いたします!!」


 バラン大佐は、相手が「黒梟」の正体を知った上で、自分をあえて「オッチャン」と呼んで格下に扱い、主導権を握ってきたのだと超大真面目に誤解し、辛くも第一段階の交渉に成功したことに激しく安堵した。彼はまだ知らなかった。この二人を宰相邸に招き入れるという行為が、堅牢さを誇るヴァトン王国の要所に、どれほど破壊的な「概念の爆弾」を自ら運び込むことになるのかを。



 同日の午後八時。

 ヴァトン王国の首都にある特権階級区画。その中でも一際重厚な石造りの門を構える「軍事宰相邸」の前に、軍が保有する最高級の黒塗り四頭立て馬車が、静かに滑り込んできた。

 御者台から降りた『黒梟』の隠密が恭しく扉を開けると、そこからまずは、魔法でインクの汚れを完全に洗い流し、公爵令嬢に劣らぬ最高級のシルクドレスを纏ったシルフィ・エドワードが姿を現した。その足取りは優雅そのものであったが、彼女の腕には、本日刷り上がったばかりの最新原稿の束が、しっかりと抱えられている。


 および、その背後から、ドスン……! ドスン……! と、馬車を大きく揺らしながら降りてきたのは、首元に最高級のベロア生地で作られた特注の蝶ネクタイを巻いた、巨大な黄色いカエルの怪異――マスターであった。


「ほーう、ここが軍事宰相の家か。なかなか硬派な石造りやんけ。内部の防衛体制もしっかりしとるけど、ワイらの『腐の波動』を前に、どこまで耐えられるか見ものやな」


「師匠、失礼のないように。私たちはあくまで、一人の熱心な読者の求めに応じて、概念の救済をしに来たのですから」


 玄関ホールでは、軍事宰相ガノストローファが、数々の戦場でも見せたことのないような、悲壮感に満ちた面持ちで直立していた。彼の胃は、一晩中「他国の男同士の鱗の摩擦」と「妻の脅迫」について考えさせられたせいで、かつてないほどの激痛を訴えていた。

 しかし、その隣に立つ妻のエルザは違った。彼女は、かつてないほどに頬を薔薇色に染め、全身から歓喜のオーラを放ち、今にもステップを踏み出しそうな様子で扉を凝視している。


 大扉が開かれ、二人の「天才」が姿を現した瞬間。


「……よ、よくぞ参られた。我が、宰相邸へ……」


 ガノストローファは、軍人としての本の本能的な危機管理能力を全力で稼働させたが、目の前の「ドレスを着た美しい令嬢」と「タキシード風のネクタイを締めた、でっぷりとした巨大な黄色い亜人」という、視覚的混沌そのものの光景に、脳の処理速度が完全に限界を迎えた。


「お待ちしておりましたわ、マスター!! シルフィ様!! 遠路はるばる、我が家へお越しいただき、心より感謝いたします!!」


 エルザは夫を物理的に突き飛ばすような勢いで前に出ると、シルフィの手を、指示通り丁寧にエスコートされていたマスターの大きな吸盤の手をギュッと握り締めた。


「さあ! 晩餐の用意はできております! 今夜は朝まで、ドラシールの男たちの『無言の執着』について、あるいは『右攻め左受けの絶対不変の法則』について、徹底的に語り明かしましょう!!」


「おう、エルザちゃん、話がわかるやんけ。ワイらも本気の議論, 楽しみにしてきたで。期待値、爆上げしていこか!!」


 ガノストローファは、自分の愛する我が家が、そしてヴァトン王国の誇る軍の規律が、今夜、完全に別の力によって上書きされることを悟った。彼は天を仰ぎ、心の中で、全く関係のない隣国ドラシール竜王国の騎士ガルドの無事を、静かに祈るしかなかった。



 宰相邸の奥に位置する、通常であれば他国の要人を迎えるための最高格式の食堂。

 大理石の長いテーブルの上には、ヴァトン王国の誇る宮廷料理人たちが腕によりをかけた至高のフルコースが並べられていた。……が、その中央には、異様な存在感を放つ「銀のトレイに山盛りにされた、揚げたての最高級フレンチポテト」が鎮座している。


「ほう、このポテト、外はカリカリで中はホクホクやんけ。この屋敷のシェフ、なかなかの有能やな」


 マスターは、フォークも使わずに大きな吸盤で器用にポテトをつまみ、口の中に放り込みながらガタガタと巨体を揺らした。その対面に座るガノストローファは、もはや食事に手を付ける気力すらなく、ただただ、目の前の怪異を凝視している。


「さて……挨拶はこれくらいにいたしましょう」


 シルフィは、前菜のスープを優雅に一口運ぶと、そのスプーンを置き、懐から今日刷り上がったばかりの『北壁の守護者:雨の野営地、壊れた角の秘密編』を、テーブルの上に滑らせた。


「エルザ夫人。これが、我が『BL研究会』が総力を挙げて完成させた、最新の公式非公式歴史書にございます。前作の温泉編において、微かな『心の揺らぎ』を見せたガルド隊長が、激しい豪雨の野営地という、退路を断たれた密室の中で、ついにルカ君の『秘められた血統の傷』に触れるという、最大級の展開にございます」


「まあ……っ!! ああ、神よ……!!」


 エルザは、差し出された冊子を、まるで古代の遺物でも扱うかのように震える手で受け取った。表紙には、雨に濡れたガルド隊長の、狂おしいほどの情念を湛えた瞳が、十二層のトーン重ね貼りによって立体的に描かれている。


「なんて……なんて悍ましくも美しい描き込みかしら……!! シルフィ様、このガルド隊長の、ルカ君の首元を見つめる視線の角度……! これは、単なる上司と部下のそれではありませんわ! もはや、相手を五臓六腑ごと噛み砕き、自らの血肉にせんとする『絶対的支配欲』の角度ですわ!!」


「流石はエルザ夫人、お目の付け所が素晴らしいです!」


 シルフィはテーブル越しに身を乗り出した。


「そうなのです! このシーンにおいて、ガルド隊長は一切の言葉を発しません。なぜなら、言葉を発した瞬間に、自らの理性が崩壊し、軍人としての全キャリアを捨ててルカ君を拉致監禁してしまうという『恐怖』を自覚しているからなのです! この、台詞の一切を排除した『行間の暴力』こそが、今回の見どころにございます!!」


「素晴らしい……尊すぎて、胸が破裂しそうですわ……!!」


「おいおいエルザちゃん、そこで満足してたら困るで」


 マスターがポテトを咀嚼しながら、ニヤリと笑った。


「その次のページ、14ページを見てみぃや。ルカ君が、ガルド隊長の濡れたマントを拭おうとして、指先がほんのほんの少しだけ触れ合う瞬間があるやろ? そこ、シルフィちゃんに三回描き直させたワイの渾身の調整が入っとるんや。あえて、ルカ君の視線を少しだけ『下に』逸らさせることで、彼の中にも無意識の『受けの自覚』が芽生えとることを表現しとるんや。これ、リバース不可の鉄則やで」


「ひっ……! ぬ、無意識の……受けの自覚……っ!!」


 エルザは、あまりの衝撃に胸を押さえ、椅子の上で激しく身悶えした。彼女の瞳からは、感動のあまり本物の涙がハラハラと零れ落ちている。


「ガ、ガノ……あなた、お聞きになりまして……? この、神がかり的な心理分析を……! 私は今まで、ガルド隊長が攻めで、ルカ君が受けであるという事実に、ただただ身を委ねておりました。しかし、そこにはこのような、緻密に計算された『因果律』が存在していたのですわ……!!」


「……。…….……」


 ガノストローファは、完全に置いてけぼりにされていた。

 彼の脳内では、ヴァトン王国の軍事ドクトリンが高速で回転していたが、目の前で行われている会話の論理には、一ミリも適合しなかった。


「……待て。失礼ながら、発言を許可していただきたい」


 ガノストローファは、重々しく、かつ軍事宰相としての威厳をかろうじて保ちながら声を絞り出した。


「シルフィ殿、マスター殿。貴殿らの言っている『ガルド』とは、ドラシール竜王国第一国境守備隊長であり、その一撃は城壁をも砕くと恐れられる、あの『鋼鉄の鱗』のガルドのことで間違いないな?」


「ええ、その通りです。あの、堅物で、規則に厳格で、決して他人に心を開かない、あの最高に不器用なガルド隊長です」


 シルフィが当然のように頷く。


「ならば、訊きたい。……なぜ、そのような一国の要人たる戦士が、雨の野営地で、部下のマントを拭う指先に怯えねばならんのだ? 我が軍の諜報部によるガルドのプロファイルによれば、彼は極限状態の戦場であっても、一切の動揺を見せずに完璧な指揮を執る男だ。このような……その、情緒不安定な行動をとるなど、戦術的にあり得ん。大きなバグだ」


 ガノストローファの、生真面目すぎる戦術的ツッコミであった。

 だが、その言葉が放たれた瞬間、食堂の空気がピキリと凍りついた。


 シルフィ、エルザ、マスターの三人の視線が、一斉にガノストローファへと注がれる。その視線は、憐れみ、蔑み、そして「これだから素人は」とでも言いたげな、圧倒的な知識層による冷徹な眼差しであった。


「……ガノ、あなた」


 エルザが、これまで夫に向けたことのないような、心底冷え切った声で呟いた。


「あなた、本当に堅物ですのね。……戦場での完璧な指揮? そんなものは現実の、ただの表層に過ぎませんわ。その完璧な男が、ただ一人の部下の前でだけ、その鉄の理性を粉々に粉砕され、己の醜い独占欲に引き裂かれるからこそ……そこに宇宙が生まれるのではないですか!!」


「せやせや。宰相のオッチャン、戦術はプロかもしれんけど、こっちに関しては完全なアマチュアやな」


 マスターが、鼻で笑うようにゲコゲコと鳴いた。


「完璧な男が完璧なまま戦って勝つだけの話なんて、誰が読みたいねん? 読者が求めてるんは、その完璧な鎧の隙間から漏れ出る、ドロドロの執着心と、それによって狂わされる男の歪みや。ガルド隊長がルカ君のために、自らの軍人としての誇りをドブに捨てる瞬間を想像してみぃや。……脳のキャパシティが狂って止まらんくなるやろ?」


「そうなのです、ガノ閣下!!」


 シルフィが、今度は優しく、しかし有無を言わせぬ圧力で語りかける。


「例えば、閣下がラーグ法国の軍勢に包囲され、国家の存亡がかかった防衛戦の最中。……もし、背後に立つバラン大佐が微かに震えているのを見た瞬間、閣下が軍の勝利などどうでもよくなり、『バラン、お前だけは私が命に代えても守る』と言って、全軍を退却させたら……どう思われます?」


「――ッ!! 破滅だ!!! 国王陛下および国家に対する重大な反逆であり、軍人として最大の恥辱、即座に銃殺刑に処すべき大罪だ!!」


 ガノストローファが、本能的に立ち上がって怒鳴った。

 だが、シルフィとエルザは、同時に深く、満足げな溜息をついた。


「……それです。その大罪こそが、至高の領域なのです」


「ああ……なんて罪深い、なんて尊い未来かしら……っ!」


「……。…….……」


 ガノストローファは、自分の発した「国家反逆(銃殺刑)」という言葉が、なぜか目の前の女性たちによって「至高の美徳」へと変換され、消費されていく恐怖に、ついに眩暈を覚えた。

 彼は、そっと隣の席で控えていたバラン大佐を見た。バラン大佐は、ガノストローファと目が合った瞬間、何故か顔を真っ赤に染め、フイと視線を斜め下に逸らした。


(お前が逸らすなァァァ!!! )


 ガノストローファの脳内で、再び未知の咆哮が木霊した。彼の超高性能な脳細胞は、あまりの理不尽に独自のバグ(なんJ的ノイズ)を激しく出力していたが、もちろん周囲には「猛烈に怒り狂っている顔」としか伝わっていない。バラン大佐は閣下のその凄まじい眼光に、軍の危機を感じてただひたすらに怯えていた。


 当然、バラン大佐もエルザたちも、この異世界で孤立無援のツッコミと戦うガノストローファの脳内に響く「なんJ語の残滓」など知る由もない。ただ、目の前の軍事宰相が、国家規模の精神テロを前に極限の危機感で震えているのだと、バラン大佐は超大真面目に誤解を深めていた。

 堅牢なる鉄鋼の国ヴァトンの最高軍事意思決定機関は、この瞬間、完全に独自の「深淵」へと叩き落とされたのである。



 晩餐会が始まってから、すでに四時間が経過していた。

 宮廷料理の皿はすべて片付けられ、テーブルの上には、マスターのための追加のポテトと、エルザが実家から取り寄せた最高級の紅茶、精度高く刷り上がったシルフィの過去作が散乱している。


「――ですから! 私は『ガルド×ルカ』の固定こそが世界の真理であると信じて疑いませんわ! ですが、巷で囁かれている『ルカ×ガルド』、いわゆる下克上の概念について、シルフィ様はどうお考えなのですか!?」


 エルザは、すでに淑女の仮面を完全に脱ぎ捨て、髪を少し乱しながらシルフィに迫っていた。


「エルザ夫人、その疑問は極めて重要です」


 シルフィは、眼鏡をクイと指で押し上げ、冷徹なトーンで語る。


「結論から申し上げます。その逆転は万死に値します。ガルド隊長が、あの屈強な肉体を誇りながら、部下であるルカ君の下に組み敷かれるなど……それは、キャラクターの根底にあるアイデンティティに対する最大の冒涜です。ルカ君の、あの華奢な肩、自由を求める健気さがあってこそ、ガルド隊長の歪んだ独占欲が引き立つ。これを逆転させるなど、歴史の改ざんに他なりませぬ!」


「よくぞ……よくぞ言ってくださいましたわ!!」


 エルザは立ち上がり、シルフィの手を握りしめて号泣した。


「我がヴァトンの社交界でも、一部の不届きな令嬢たちが『ガルド隊長が受けに回るギャップが良い』などという思想を広めようとしておりましたの! 私は彼女たちと三日三晩、茶会で激論を繰り広げましたが、これで完全に勝利ですわ! サークル主であるシルフィ様ご本人が否定されたのですから!!」


「おう、エルザちゃん、その意気や。思想の統一こそが、サークルを長生きさせる秘訣やからな。浮気は許さへんで」


 マスターは、満足げに紅茶をストローでズズズと啜りながら、ゲコゲコと笑った。


 一方、その光景を部屋の隅で見ていたガノストローファとバラン大佐は、完全に魂が抜けたような顔で壁に寄りかかっていた。


「……バラン大佐」


「はっ、閣下……」


「……私は、今、恐ろしいことに気づいた」


 ガノストローファは、震える手で自らの白髪を押さえた。


「何でしょうか、閣下。……私も、先ほどから脳内の戦術マップが、すべて男たちの肉弾戦に書き換えられつつあり、思考がまとまりません……」


「……この『BL研究会』の発行している薄い本だが。……これが、もし我が国の全軍に流通したらどうなる?」


 ガノストローファの目が、絶望に満ちて光った。


「軍人とは、規律と、強靭な肉体、あるいは上官と部下の絶対的な信頼関係によって成り立つ組織だ。……もし、我が軍の若き兵士たちが、この本を読み、上官の厳しさの裏にある執着や、部下の無言の背中にいちいち何かを見出すようになったら……。戦場で突撃命令が下った際、『隊長、あなたのその命令は、私を死なせたくないという独占欲の裏返しですね?』などと言って、進軍を停止する兵士が続出するのではないか!?」


「――ッ!!! な、何という全軍崩壊のシナリオ……!!」


 バラン大佐は、ガノストローファの最悪の戦術的予測(大真面目な誤解)に、ガタガタと身震いした。彼が率いる『黒梟』はヴァトン最高の諜報部隊であるが、この「薄い本」の破壊力を前にしては、完全に未知の軍事的驚威として処理するしかなかった。地球のネット掲示板の「なんJ民」がこの隠密部隊『黒梟』の存在を微塵も知らないように、バラン大佐もまた、これが単なる二次元の妄想の産物であることを理解できず、軍の存亡をかけた謀略戦として超大真面目に戦慄していた。


「それだけではない、バラン大佐。……この本のモデルになっているのは、隣国ドラシールのガルド隊長だ。……もし、ドラシール竜王国が、我が国で自国の英雄が『部下と温泉で鱗を擦り合わせている超高画質絵巻』として、数万部規模で消費されていることを知ったら……どうなる?」


「……。…….……外交ルートの完全な破絶。および、宣戦布告にございます……」


 バラン大佐の顔から、完全に血の気が引いた。まさかこの「未知の精神誘導兵器」が、隣国との間で最大の風評被害による世界大戦を引き起こしかねない、超弩級の国際リスクだったとは。黒梟の長としての危機感が頂点に達する。


「止めねばならん……。何としても、この『BL研究会』の活動を、ここで制御下に置かねば、我が軍は内側(精神の腐朽)と外側(ドラシールの怒り)から、同時に挟撃されて壊滅する……!」


 ガノストローファは、軍事宰相としての最後の理性を振り絞り、再び大理石のテーブルへと歩み寄った。


「――シルフィ殿。あるいは、マスター殿」


 ガノストローファの、決死の割り込みであった。

 シルフィとエルザが、不機嫌そうに話を中断して彼を見る。


「何でしょうか、ガノ。私たちは今、非常に重要な概念の防衛戦を行っているのですけれど」


「エルザ, 頼むから一瞬だけ黙ってくれ。……シルフィ殿、私は、貴殿らの芸術的才能と、その……圧倒的な情報密度については、認めざるを得ない。……だが、これ以上の国内でのゲリラ流通は、我が軍の治安維持、および隣国ドラシールとの安全保障上、極めて危険な領域に入りつつある」


 ガノストローファは、デスクの上に、ヴァトンの最高軍事機密に匹敵する「魔鉱山の採掘権、および軍事予算の割り当て書」をドン、と置いた。


「提案がある。……『BL研究会』を、我がヴァトン王国の『公認軍事情報局・特別編集班』として、私の管理下に置きたい。貴殿らには、軍直属の最高級執筆室と、無限の羊皮紙、飲食、そしてエドワード辺境伯の公金を遥かに凌駕する軍事予算を提供する。……その代わり、今後の発行物はすべて軍の事前検閲を通し、流通範囲を『我が国の特権階級の、それも完全に口の堅い奥方たちの間だけ』に限定していただきたい。……どうだろうか?」


 ガノストローファの、持てるすべての権力と財力を使った「囲い込み作戦」であった。軍事予算で同人サークルを買い取るという、前代未聞の防衛策。これならば、ドラシールへの情報漏洩を防ぎつつ、妻の機嫌も損ねずに済む。


 だが、その提案を聞いたマスター(カエル)は、鼻の頭をピクピクと動かすと、フッと嘲笑うかのような声を漏らした。


「……ハッ、宰相のオッチャン。……あんた、やっぱり何も分かってへんなぁ」


「何だと……!?」


「軍の予算でワイらを囲い込む? 流通を限定する?」


 マスターは、立ち上がると、その巨大な吸盤の手を大きく広げた。


「同人の魂っちゅうんはな、権力の管理なんかに入ったら、その瞬間に死ぬんや。……ワイらが求めてるんは、退屈な現実という名の世界に、ゲリラ的に『尊さの爆弾』を投下し、それによって読者の脳がインフレを起こす未来や。……管理された市場で、決まった奥方たちだけに消費される本なんて、期待値が完全に底割れしとるわ!!」


「その通りです、師匠!!」


 シルフィもまた、ガノストローファの提出した書類を、一切の迷いなく跳ね除けた。


「私たちの戦場は、この大陸全土です! ヴァトンだけではありません。……私は、いずれこの『北壁の守護者』シリーズを、ラーグ法国の厳格なる神官たちにも、マキア王国第二王子の宮廷にも、お届けして何より……ドラシール竜王国の、ガルド隊長ご本人の元へも、直接お届けする覚悟にございます!!」


「――な、何だとォォォ!!! 」


 ガノストローファは、ショックのあまり、本日二回目の絶買いを上げてしまった。彼の脳内ノイズが限界突破して激しく明滅していたが、バラン大佐にはそれが「世界滅亡の予言を聞いた預言者」の絶望の顔にしか見えなかった。

 本人に届ける!? 本人に、あの『温泉地特別編』を読ませるというのか!? それはもはや、外交問題どころか、ドラシールの全竜人が理性を失ってヴァトンに攻め込んでくるレベルの終焉ラグナロクではないか。


「素晴らしいわ、シルフィ様……! その、世界を薔薇色に染め上げるという壮大な野望、私、エルザ・ガノストローファも、全財産と実家の権力をかけて、後援者としてお支えいたしますわ!!」


「おう、エルザちゃん、期待値大爆発やな!! よっしゃ、次の新刊は、ドラシールのガルド隊長が、ルカ君の汗の滴る鱗を、無言で見つめるシーンから始めるぞ!! ページ数は200ページや!!」


「まぁぁぁ!!! 師匠、それ、今すぐ構成を練りましょう!!」


「おい、待て!! 200ページも刷るな!! 印刷所の稼働を止めろォォォ!!」


 ガノストローファの悲痛な叫びは、もはや深夜の食堂の、誰の耳にも届かなかった。

 彼の目の前では、人間サイズの黄色いカエル(中身は何も知らないなんJ民のバグ)と、狂気の令嬢、そして完全にその世界へと堕ちた最愛の妻が、熱狂的な議論を交わしながら、世界を震撼させる「次の薄い本」の計画を猛スピードで組み立てていた。



 翌朝。

 ヴァトン王国軍事参謀本部・最高機密会議室。

 窓から差し込む朝日は、昨日と変わらず美しいものであったが、そこに座る軍事宰相ガノストローファの姿は、まるで十数年の過酷な牢獄生活を耐え抜いた囚人のように、完全に生気を失っていた。

 彼のデスクの上には、徹夜の晩餐会の末に、妻エルザから「あなた、これからの我が家のコレクションですわ」と言って手渡された、シルフィの直筆サイン入り最新刊を含む、十数冊の『同人誌』が美しく並べられていた。


「……バラン大佐」


 ガノストローファは、掠れた声で、同じく目の下に濃い隈を作って直立している部下に語りかけた。


「はっ……閣下……。……『黒梟』の全諜報員、および王都の監視網は、現在……完全に稼働を停止しております。……何故なら、隊員たちの半数が、昨晩の調査の過程で『ガルド×ルカ』の概念に囚われ、自らの上官と部下の関係性について、奇妙な誤解を抱き始めてしまったためです……」


「……そうか。我が軍の誇る最強の隠密部隊も、ついに壊滅したか」


 ガノストローファは、そっと手元の一冊、『北壁の守護者:薔薇の刻印』のページをめくった。

 一晩中、その激しいディベートを聞かされ続けたせいだろうか。彼の超高性能な脳細胞は、今や、表紙に描かれたガルド隊長の「切なげな視線」を見ただけで、独自の戦術的分析を開始していた。


(……ふむ、この112ページの無言の背中、確かにガルドの『ルカに対する不器用な庇護欲』が、軍事的なフォーメーションの観点から見ても、完璧な防衛の布陣になっているな……。相手を守るために、あえて己の背中を晒す……。……くっ、これが、妻の言う『尊さ』というやつか……?)


 恐るべき自己汚染であった。ガノストローファは自分の思考の変容に戦慄した。


「閣下……! 閣下、しっかりしてください! 閣下までその深淵に呑まれてしまっては、我が軍は本当に終わりです!!」


 バラン大佐が、涙ながらにガノストローファの肩を揺さぶる。大佐は、閣下が「未知の精神兵器」と一人で孤独に戦い、汚染されかけている姿を見て、恐怖に震えていた。

 ガノストローファは、ハッと我に返ると、自らの頬を強く叩いて理性を引き戻した。


「……すまん、バラン大佐。……一瞬、世界のバグに魂を売るところだった。……だが、もはや『BL研究会』の進撃を止める術は、我が国にはない。……彼女たちの背後には、我が妻エルザと、その実家である公爵家の無限の財力がついてしまった」


 ガノストローファは、窓の外の王都の景色を見下ろした。

 そこでは、朝早くから、王宮へ向かう貴婦人たちの馬車が慌ただしく行き交っている。彼女たちの懐には、間違いなく、昨晩地下印刷所で大量増刷された『雨の野営地編』が忍ばされているのだろう。


「……これより、我がヴァトン王国軍は、新たなる潜在的脅威に対処せねばならん」


 ガノストローファは、冷徹な軍事宰相の目を取り戻し、黒板に大陸の勢力図を描き殴った。


「目標は、ラーグ法国でもマキア王国でもない。……『BL研究会』の発行物が、隣国ドラシール竜王国のガルド隊長本人の目に触れた瞬間、発生するであろう『未曾有の国際大戦』の回避だ。……バラン大佐、ただちにドラシール国境の全警備隊に命じよ。『今後、我が国からドラシールへ向かうすべての荷物、特に、薄くて、超高画質な男同士の絵が描かれた冊子は、いかなる手段を使っても国境で差し押さえよ』と!!」


「はっ!! 安全保障上の最高機密の水際阻止作戦、ただちに発動いたします!!」


 バラン大佐は力強く敬礼し、部屋を飛び出していった。大佐の頭の中は、「軍の命運をかけた、謎の精神テロ物質の密輸阻止」という超大真面目な使命感で満たされていた。

 もちろん、地球のインターネットの片隅で「今日も野球の実況をし、打線に一喜一憂しているなんJ民」というネット住民たちが、異世界で一国の一大部隊を束ねる『黒梟』の精鋭たちが、血眼になってガチムチ竜人の薄い本の水際阻止作戦を展開していることなど、夢にも知るはずがなかった。


残されたガノストローファは、デスクの上の『同人誌』をじっと見つめ、あるいは、深い、深い溜息をついた。


「……ガルド隊長。……お前が部下を大切に思う気持ちは、同じ軍人として、よく分かる。……だが、頼むから……これ以上、問題の火種を増やさないでくれ……。我が家の平和のために……」


 鉄鋼の国ヴァトンの、鉄の規律を誇る軍事宰相の戦いは、今、軍の存亡をかけた「水際対策」という、最も不条理な防衛戦へと突入したのである。

 そして、その防衛網の遥か上空を、マスターの「ゲコゲコ」という不敵な笑い声が、概念の広がりを告げるかのように、静かに木霊しているようであった。


 

 数日後。

 ヴァトン王宮の片隅に新設された、表向きは「軍事書籍特別編纂室」、その実態は『BL研究会・ヴァトン支部(サークル本拠地)』。

 そこには、エルザ夫人が用意した最高級のソファー、山盛りのフレンチポテト、あるいは狂ったようにペンを走らせるシルフィの姿があった。


「師匠!! 閃きました!! ドラシールのガルド隊長が、あえてルカ君を突き放すために、ラーグ法国の聖女との偽装結婚を承諾する……という、最大級の切ない展開です!!」


「おいおいシルフィちゃん、それ読者の情緒が大変なことになるやつやんけ。でもその絶望の果てに、ルカ君が初めて行動を起こすなら……ワイは許可するで!!」


「まあっ!! 師匠、それ最高に盛り上がります!!」


 ガノストローファがどれほど大真面目に国境を封鎖しようとも、彼女たちの生み出す物語は、すでにヴァトンの壁を越え、大陸全土へとその根を伸ばし始めていた。


 ネットの海を漂う「なんJ民」がこの異世界の裏で暗躍する『黒梟』の激闘を知ることもなければ、この『黒梟』の隠密たちが「なんJ民」の存在を認知することもない。誰一人として全貌を把握しないからこそ、宰相邸のディベートと水際対策は、誰も止められない深刻なボタンの掛け違い(お互いに超大真面目)のまま、薔薇色のタイムラインへと突き進んでいく。


 世界の概念の夜明けは、もう、誰にも止めることはできない。

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