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第30話:ココネ

 大陸西方の険峻な山脈に囲まれた鬼人族の国家、マキア。豊穣の神ランドグリーグを信奉するこの国は、その力強い鬼の血ゆえに、常に力が全てを支配する土壌であった。

 その王城の奥深く、地図にも載らない石造りの離れでココネは産声を上げた。

 父は現マキア王。母は王が遠征先で気まぐれに拾い上げた、身分も名もない妾であった。鬼人族は純血を尊ぶ。王の血を引きながらも、母の卑しき血を混ぜたココネは誕生したその瞬間から王家の恥として定義された。


 さらに、彼女には決定的な欠陥があった。

 生まれた時から、その両の瞳は雪のように白濁し、光を通さなかった。

 盲目の鬼。それは武を尊ぶマキアにおいて家畜以下の価値しか持たないことを意味していた。


「……殺せ。王家の血を引く者が、杖を突いて歩く姿を晒すなど、ランドグリーグ神への冒涜だ」


 王の冷酷な一言で、彼女の運命は決まったかに見えた。しかし、彼女を救ったのは慈悲ではなく、異母兄である第二王子、ヴェルサ・トゥーレム・ゲルムドの冷徹な計算高さだった。


「父上、お待ちを。この娘の瞳……ただの盲目ではありません。魔力の揺らぎに、過剰なまでに反応している。……磨けば、王家の忠実な猟犬になるやもしれません」


 こうして、わずか四歳のココネは、王城の影に潜む武闘派組織「一刻いっこく」へと放り込まれた。


 一刻は、マキア王家が対外的な暗殺や内偵、汚れ仕事を一手に引き受けるための養成機関であった。そこに集められるのは、死罪を免れた罪人や捨てられた孤児たち。幼いココネにとってそこは家ではなく屠殺場であった。

 視力のない彼女に対し、教官たちは容赦のない暴力を振るった。


「敵は足音を立てずに近づくぞ!」

「気配を読め! 読めなければ死ね!」


 泥水を啜り、冷たい石畳の上で眠る日々。しかし、過酷な訓練が彼女の真の才能を呼び覚ましていった。


 彼女には、光は視えない。だが、万物が発する魔力の色が脳裏に極彩色となって浮かび上がるようになったのだ。

 彼女にとって、世界は形ではなくうごめく色の奔流として再構築された。


 八歳になる頃には彼女は一刻の並み居る年上の候補生たちを、木刀一本で圧倒するようになっていた。相手が動く前に、その魔力の色が次にどこへ流れるかを視て、先回りして打つ。

 ヴェルサ王子はその報告を聞き、満足げに微笑んだ。


「やはりな。彼女はただの盲目ではない。我々よりも遥かに多くのものを『視て』いるのだ」


 ココネが十二歳を迎えたその日、武神の祝福を授かった。

 その点に関してはかなり運がよかったに違いない。

 この国では武力が正義なのだから。


 視界マインド・ビューが爆発した。

 これまで色として捉えていた情報はより精緻なものと昇華された。

 相手の心拍、筋肉の収縮、大気の震え、そしてこれから起こる事象までもが感覚的な正確さを持って彼女の脳に叩き込まれる。


 このスキルの発動により、彼女の戦闘能力は次元を変えた。

 敵が剣を抜こうと決意した瞬間、彼女の視界には既に切り裂かれた敵の断面が予兆として映る。武神の力は、彼女の華奢な四肢に鬼人族の英雄に匹敵する瞬発力と精度を与えた。


「……これが、武神の視る景色……。あまりにも、静か……」


 彼女にとって、戦いはもはや勝負ではなく、提示された正解をなぞるだけの作業へと成り下がった。

 彼女の心は、この時完全に凪の状態となった。喜びも、悲しみも、自分を道具として扱うヴェルサへの憎しみさえも、情報のノイズとして処理されるようになったのである。


 十四歳になったココネは、一刻の歴史上最年少で最精鋭の討伐部隊へと抜擢された。

 彼女の任務は、マキア王国の脅威となる人物を千里先から特定しその因果を断ち切ること。

 彼女の白濁した瞳は、国境を越え、大陸全土を観測するマキアの戦略兵器となっていた。


 西の魔王がドルフを蹂躙し、大陸が戦火に包まれる中、彼女は淡々と色を消し続けてきた。ヴェルサ王子の命令に従い、魔王軍の将軍や、連合を裏切ろうとした貴族たちを、その神速の剣で屠ってきた。

 彼女にとって、世界は無機質な盤面であり、自分はその上の駒に過ぎない。

 その確信が揺らぐことなど、一生涯ないはずだった。

 あの日、南の大陸にあり得ない色が浮かび上がるまでは。


 


 ふと、ココネは意識を現在いまへと引き戻した。

 拡張された彼女の聴覚と《神域の観測者》の探知網は、街の喧騒から数多の情報を拾い上げていた。

 物売りの声、赤子の泣き声、馬の嘶き。その中に、広場の片隅から聞こえてくる、ひどく耳障りで、品性を欠いた濁った声があった。

 ココネは、その声がする方向へ瞳を向けることさえしなかった。彼女の白濁した瞳は、その声の主を風景の一部……あるいは排除する必要すらない環境ノイズとして処理し、意識の端に追い遣った。


「殿下……。国境付近の色の特定を続けます。……先ほどの街には、観測すべき個体は存在しませんでした。……聞こえてくるのは、下等な亜人の浅ましい鳴き声だけです」


 通信用の魔導具を通じて告げたココネの声は、どこまでも冷ややかで一点の曇りもなかった。

 彼女はまだ知らない。

 自分が見向きもしなかったその不快な環境音の主こそが、世界の理をレスバで粉砕し、自分の凪を永久に奪い去る宿敵であることを。


 運命は、高潔すぎる観測者を嘲笑うように、静かに、そしてぬめりながら動き出していた。

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