第167話 『八恵子のおにぎり屋の秘密』
ここは、深夜食堂しのぶ。
焼きたてのノア・レザンの香りがまだ店内に残っていた。
胡桃の香ばしさと、レーズンの甘い匂い。
忍が湯呑みを置く。
「パンって不思議ね」
八恵子が微笑む。
「ほんと」
マサが腕を組む。
「パンもいいけどな」
「やっぱ米だろ」
八恵子が笑う。
「そうね」
「だから私は、おにぎり屋を始めた」
忍が思い出す。
「そういえば…」
「今、すごい人気なんでしょ?」
八恵子が少し照れたように笑う。
「ありがたいことにね」
マサが聞く。
「テレビでもやってたよな」
忍が頷く。
「朝から行列って」
八恵子が静かに言う。
「でもね」
「秘密があるの」
忍とマサが同時に聞く。
「秘密?」
八恵子が笑う。
「たいしたことじゃないのよ」
「ただ…」
「普通のおにぎりなの」
マサが眉を上げる。
「普通?」
八恵子が頷く。
「高級米も使わない」
「特別な具もない」
忍が驚く。
「えっ?」
八恵子は続ける。
「塩むすび」
「鮭」
「梅」
「昆布」
「それだけ」
マサが笑う。
「シンプルだな」
八恵子が少し遠くを見る。
「昔ね」
「修行してた頃」
「毎日怒鳴られて」
忍が頷く。
「料理人あるあるね」
八恵子が続ける。
「ある日」
「おばあちゃんが来たの」
「注文は」
「おにぎり一個」
忍が聞く。
「それで?」
「泣きながら食べてた」
マサが静かに聞く。
「どうして?」
八恵子が言う。
「昔、母親が作ってくれた味に似てるって」
忍が微笑む。
「料理ってそういうものよね」
八恵子が頷く。
「その時思ったの」
「料理って」
「凄いことしなくていいんだって」
マサが小さく笑う。
「深夜食堂と同じだな」
忍が笑う。
「ほんとね」
八恵子が続ける。
「それで決めたの」
「普通のおにぎりを」
「ちゃんと作ろうって」
マサが聞く。
「で?」
「行列か」
八恵子が笑う。
「それが一番びっくり」
忍が優しく言う。
「美味しいものは」
「人を呼ぶのよ」
マサが立ち上がる。
「じゃあよ」
八恵子を見る。
「本物のおにぎり」
「食わせてくれよ」
八恵子が笑う。
「いいわよ」
忍が驚く。
「え?」
八恵子が袖をまくる。
「お米ある?」
マサが指差す。
「土鍋で炊いたばっかだ」
八恵子が手を洗う。
忍がワクワクしている。
「料理人のおにぎりだわ」
八恵子がご飯を手に取る。
ふわり。
塩。
握る。
たったそれだけ。
でも。
形が美しい。
三角のおにぎり。
マサが一口食べる。
「……」
忍が聞く。
「どう?」
マサが笑う。
「くそ」
「うめぇ」
八恵子が笑った。
おにぎり(塩むすび)の基本
材料
米 2合
水 適量
塩 適量
海苔 お好み
炊き方(土鍋)
① 米を研ぐ
② 30分浸水
③ 強火で沸騰
④ 弱火10分
⑤ 火を止めて蒸らし10分
握り方
① 手を水で濡らす
② 塩を手につける
③ ご飯をふんわり握る
ポイント
握りすぎないこと。
空気を含ませる。
忍が呟く。
「シンプルなのに…」
「なんでこんなに美味しいのかしら」
マサが答える。
「それが料理人だろ」
八恵子が笑う。
「そうね」
静かな夜。
湯気の立つおにぎりが
カウンターに並んでいた。
マサの一言
「おにぎりはな
握るんじゃねぇ
“包む”んだ」




