第166話 『パン職人になった理由』
ここは、深夜食堂しのぶ。
夜もすっかり更け、客もまばらになってきた頃。
カウンターには
忍、マサ、そして八恵子。
先ほどのガーリックバターライスを食べ終え、
八恵子がぽつりと言った。
「マサさんって…」
「パンも焼けるのよね?」
忍が頷く。
「そうそう。前に胡桃とレーズンのパン焼いてくれたわよね」
マサが笑う。
「ノア・レザンな」
八恵子が少し驚いた顔をする。
「洋食出身なのにパンまで?」
マサは肩をすくめた。
「まぁな」
忍が聞く。
「どうしてパン?」
少し沈黙が流れる。
マサは湯呑みを持ち、少し遠くを見る。
「俺な…」
「一回、料理やめたんだよ」
忍が目を丸くする。
「え?」
八恵子も驚く。
「本当に?」
マサは頷いた。
「修行して三年目くらいだな」
「厨房ってのは戦場みたいなもんでな」
「朝から晩まで仕込み」
「怒鳴り声」
「休みもほぼ無し」
忍が苦笑する。
「料理人あるあるね」
マサが続ける。
「ある日ふと…」
「何やってんだろうな俺って思った」
八恵子が静かに聞く。
「それで?」
「店辞めた」
忍が驚く。
「えぇ!?」
マサが笑う。
「若かったからな」
「勢いだ」
「でも辞めた後、何もやる事ねぇ」
その時だった。
「近所にパン屋があってな」
忍が微笑む。
「運命ね」
マサが続ける。
「毎朝、焼きたての匂いがするんだよ」
「バターと小麦の匂い」
「それがよ…」
「やたら腹減るんだ」
三人が笑う。
「ある日な」
「店主が言った」
マサは思い出すように言った。
「暇なら手伝うか?」
忍が聞く。
「それがパン職人の始まり?」
「そういうこった」
八恵子が笑う。
「すごい軽い理由」
マサも笑う。
「でもな」
「パンって面白いんだ」
忍が首をかしげる。
「どう面白いの?」
マサが言う。
「料理はな」
「火を入れればすぐ変わる」
「でもパンは違う」
「時間で味が変わる」
八恵子が頷く。
「発酵ね」
マサが続ける。
「こねて」
「寝かせて」
「膨らんで」
「焼ける」
「まるで生き物みたいなんだ」
忍が笑う。
「マサさん、パン好きなのね」
「まぁな」
少し沈黙。
マサがぽつりと言う。
「料理で疲れた心を」
「パンが救った」
八恵子が優しく言う。
「それでノア・レザン?」
マサが頷く。
「胡桃の香ばしさ」
「レーズンの甘さ」
「シンプルだけど深い」
忍が笑う。
「この店みたいね」
マサが立ち上がる。
「せっかくだ」
「焼くか」
忍が驚く。
「今から?」
マサが笑う。
「パン職人なめんな」
ノア・レザン(胡桃とレーズンのパン)
フランスの伝統的なハード系パン。
胡桃の香ばしさとレーズンの甘さが特徴。
ノア・レザン
材料(2本分)
強力粉 300g
ドライイースト 3g
塩 5g
砂糖 10g
ぬるま湯 200ml
胡桃 80g
レーズン 80g
下準備
胡桃は軽くローストする
レーズンはぬるま湯で軽く戻す
作り方
① ボウルに
強力粉
塩
砂糖
ドライイースト
を入れる
② ぬるま湯を加えてこねる
③ 生地がまとまったら
胡桃とレーズンを混ぜ込む
④ ラップをして
1時間発酵
⑤ ガス抜きをして成形
⑥ 再び30分発酵
⑦ 220℃のオーブンで
約20分焼く
店内に広がる
焼きたてパンの香り。
忍が微笑む。
「いい匂い…」
八恵子も笑う。
「これは反則」
マサがパンを切り分ける。
「ほらよ」
八恵子が一口。
「……美味しい」
忍も頷く。
「マサさん」
「パン屋も出来るわよ」
マサが笑う。
「いや」
「ここでいい」
静かな夜の食堂に
焼きたてパンの香りが広がっていた。
マサの一言
「料理に疲れたらな
パン焼くといい
小麦は裏切らねぇ」




